スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

マイナビ女子オープン&両立の条件

2015-04-20 18:53:20 | 将棋
 18日に石雲院で指された第8期マイナビ女子オープン五番勝負第二局。
 上田初美女流三段の先手で角道オープン中飛車。加藤桃子女王が△4ニ王と上がったところで先手から角を交換したので,早い段階から戦うことになりました。
                         
 打ち合った角を後手が7七で交換したので,当たりになった飛車を8五から引いた局面。後手の銀の位置が今ひとつで,手番の先手が十分にやれるように僕には思えます。
 ▲5五歩は,攻めていくならばここしかないと思います。
 そこで△8六歩と打ったのは好手だったと思います。▲同歩は当然。そこで△8九角の両取り。▲8八金は飛車を抜かれますから▲7九歩もこれ以外にない受けでしょう。△9八角成で香得に。
 ▲5四歩と取り込まれたときに△同馬と取れるのが,先に△8六歩と打っておいた効果のひとつです。
                         
 ここで▲同飛と取り,△同銀に▲7二角と打つ両取りがあるのですが,そのときに△8六飛と逃げた手が銀取りになるのが△8六歩と打っておいたふたつ目の効果。実戦はそれを避け,△5四同銀の後,▲8五桂と跳ねています。
 それで後手がよくなったというわけではなく,その後の先手の指し方が勝敗を分けたと思いますが,この一連の手順は見事で,一局の中で最も印象に残りました。
 加藤女王が連勝。第三局は来月7日です。

 ライプニッツ主義における神の現実世界の選択に関わるふたつの命題を僕が両立させられないのは,以下のような事情によります。ここではモナドに限定せず,一般的に考察します。
 AとBしか選択肢がなく,どちらかは必ず選択されるという状況を想定します。この状況で,AかBかのどちらかであるということと,AとBのどちらであるかは不明であるということは両立し得ると僕は考えます。たとえばコイントスをしたときに,コインが立ってしまうというような特殊な例を除外すれば,コインは表であるか裏であるかのどちらかです。しかしどちらであるか分からないということはあり得ます。これはだれでも同意できると思います。つまりこの限りにおいて,AかBのどちらかだけれど、どちらであるか分からないということは両立するといえます。
 でも,僕の考えでは,これが両立しているのは,ある条件の下においてなのです。ここはスピノザ主義を導入すると分かりやすいと思います。コインの表あるいは裏が出るというのは,コインという物体の運動に関する言及です。最低限,そういう言及ではあり得ます。しかし,表か裏かが分からないというのは,そのような言及であることができません。これは知性による認識についてだけの言及です。つまり,前半部分は知性を離れた形相的formalisな言及であり得るのに対し,後者は知性のうちの客観的objectiveな言及でなければならないのです。
 これを単純に形相的な事柄として理解してみましょう。その場合には,もし表が出たとすれば,その限りにおいては表が出るということが真理であり,裏が出るということが非真理でなければならないと僕は考えます。いい換えれば,表が出るか裏が出るかは分からない,真偽不明であるわけではないと考えるのです。そしてこの意味においては,ふたつの命題が両立するということはあり得ないと結論するのです。
 AとBの選択に関しても同様のことがいえる筈だと僕は考えます。とくにライプニッツ主義における現実世界としてのモナドの選択には,善意という要素が加わるため,なおさら両立し得ないと僕には思えるのです。
コメント
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