スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

共同通信社杯&痛み

2015-04-30 19:27:14 | 競輪
 防府競輪場で行われた昨日の第31回共同通信社杯の決勝。並びは新田-山崎-大槻の北日本,山田-稲垣の京都に神山,原田-渡部の四国に萩原。
 前受けはスタートを取った新田。4番手に山田,7番手に原田で周回。原田は残り3周のホームから上昇。これに山田が対応。バックでは内の山田と外の原田が併走で新田を叩き,もがき合いに。制したのは山田。インを上昇した新田がうまく4番手に入ったものの,山崎は追えず,バックでは5番手に原田,8番手に山崎の一列棒状に。打鐘で山崎が追い上げを開始。待っていた新田がホームで発進し,再連結。稲垣がホームの出口で番手発進。新田はバックで追いついたものの稲垣が抵抗。コーナーで稲垣自身が新田を牽制したため開いた進路を神山が踏み,そのまま抜けて優勝。稲垣の抵抗をかいくぐった新田が4分の1車輪差で2着。稲垣が半車身差の3着。
                         
 優勝した栃木の神山雄一郎選手は昨年12月の広島記念以来の優勝。ビッグは2011年7月のサマーナイトフェスティバル以来で通算26勝目。制度が変わっていますが共同通信社杯は1993年に広島で初優勝。1997年の花月園,1998年の久留米,2001年の取手,2002年の宇都宮でも優勝していて13年ぶりの6勝目。防府はビッグの開催がほとんどないので,当地でのビッグは初優勝。1992年に記念競輪での優勝があります。このレースは,新田の動きがポイントだったと思います。4番手を取ったのは位置取りとしては的確だったかもしれませんが,武器はスピードなので,レースの中で脚を使うのは1度にする方が持ち味が生きるのではではないでしょうか。並んだところで稲垣に激しく抵抗されたのには、その影響があったように思えます。また,再ドッキングできたとはいえ,一旦は山崎が離れてしまったのも新田には誤算だった筈で,自力選手なので仕方がない面があるとはいえ,山崎にももう少し追走の技術は必要かと思います。稲垣の牽制でコースができたのは神山にとっては幸運というほかありませんが,47歳でビッグを勝つというのは本当に立派なことだと感服します。

 人間が受動状態にあるとき,その現実的本性は第三部諸感情の定義一にあるように,欲望として規定されます。僕たちが自分の身体の「中に起こること」を認識するとき,それは概念conceptusではなく知覚perceptioです。つまり僕たちは受動状態にあることになります。ですから人間の現実的本性に変化が生じるということは,第一には欲望に変化が生じることであるということになります。したがって,そうした欲望の変化を認識することによって,自身の身体および精神の現実的本性の変化を認識することは,現実的に存在する人間には起こり得るということになります。ただし,大抵の場合は,このような様式でそれが認識されるわけではないと僕は考えています。
 スピノザの哲学において,実在性すなわち第二部定義六により完全性は,という観点から把握される限りでの本性です。ですから,人間の現実的本性に変化が生じるときには,大概の場合は完全性の移行も同時的に生じることになります。第三部諸感情の定義二と三により,もしそれがより小なる完全性から大なる完全性への移行なら喜びが生じ,より大なる完全性からより小なる完全性への移行であるなら悲しみが生じます。僕たちは現実的本性の移行を,むしろこちらの様式で認識することがほとんどだと思います。ここで認識するというのは,意識する,すなわち観念の観念が発生するという意味です。
 痛みというのは,即物的に考えるならば,人間の身体がより大なる完全性からより小なる完全性に移行することだと僕は考えます。同様に,認識されるような感覚として考えるなら,人間の精神がより大なる完全性からより小なる完全性に移行することだと考えます。つまり僕は痛みを悲しみの一種として考えるのです。
                         
 ただし,これは一般論です。たとえば『地下室の手記』では,歯の痛みも快楽のひとつとなり得るという意味のことが書かれていて,実際にそうしたことがあり得るということ,もう少し一般的にある痛みが痛みを感じる人間の快楽になり得るということは僕も認めます。この場合には,僕は痛みをより小なる完全性からより大なる完全性への移行として,すなわち喜びとして考えます。
コメント
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