スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

桜花賞・海老澤清杯&両立不能

2015-04-21 19:02:33 | 競輪
 19日の川崎記念の決勝。並びは金子-平原-諸橋の関東,深谷-浅井-志智の中部,脇本-中川の西日本で桐山が単騎。
 平原がスタートを取って金子の前受け。4番手に桐山,5番手に深谷,8番手に脇本で周回。残り3周のホームから早くも脇本が上昇。バックで金子を叩きました。7番手になった深谷がこれをみて上昇。ホームで金子を封じると,桐山が単騎で上昇,中川の後ろに収まると脇本がスピードを上げて打鐘。ここから深谷が発進。脇本を叩いてかまし先行に。志智が離れたので桐山がうまく浅井の後ろに飛び付き,金子を捨てた平原が桐山の後ろに。深谷が先頭のまま直線を向くと桐山は深谷と平原を牽制した浅井の間を突こうと試みるも浅井ともつれて落車。浅井もスピードを失いました。平原の後ろから深谷と桐山の間を突いた諸橋が一気に突き抜けて優勝。深谷が1車輪差で2着。中部での連結は外したものの,諸橋を追うように進路を取った志智が1車身差の3着に食い込み大波乱の結果に。
 優勝した新潟の諸橋愛選手は2004年9月の青森記念以来およそ10年半ぶりの記念競輪2勝目。決勝に乗った選手だけでなく,この開催は非常に豪華なメンバーでしたから,そこで優勝したということ自体が失礼ながら僕には驚きでした。優勝するならここしかないという進路がうまく開いた結果といえるでしょう。どういう意図から金子に任せた平原が前を取ったのかは分かりませんが,金子はまったく力を出せませんでしたから,関東全体の作戦としてはあまりうまくいっていなかったのではないかと思えます。それでもこのような結果になるのは,競輪の面白さであり難しさでもあるでしょう。

 真偽不明である事柄は,それ自体では神の現実世界の選択の規準にはなり得ません。よって神は選択するために,外部にある善意という別の規準を必要とするのでした。そしてそれは神の本性には属さないのだけれど,神がその規準によって選択することが可能であることも,合理的に説明できます。ライプニッツ主義では,現実世界が選択されないというのは,現実世界が実在しないと主張するのと同じですから不条理です。ですからモナドがAとBのどちらかしか存在しないのであれば,神はAかBのどちらかを必ず現実世界として選択するのでなければなりません。このときに,選択された方が真理であり,選択されなかった方は非真理であると理解するべきだと僕は考えます。よってAを選択することもBを選択することも真偽不明であるということと,それは両立できないと考えるのです。
 この場合には問題はこれだけで収まりません。神は善意を規準としてモナドを選択するのですから,たとえばAの方を選択したのであれば,Aの方がBよりも善なる世界でなければならないのです。いい換えれば,この場合にAの方が善なる世界であるということは,神が選択する現実世界が可能世界のうちで最善の世界であるという命題が真の命題であるのと同じ意味において真の命題でなければならないのです。ところが,神がAを選択するという命題が真偽不明であるとしたならば,AがBより善であるということが真偽不明であるといわなければなりません。このように理解すれば,これらの命題を両立させることがいかに困難なことであるかよく理解できるのではないかと思います。
 したがって,もしも真偽不明の事柄が知性を離れた形相的formalisな意味において自然のうちに実在すると考えるのならば,神はどの可能世界も現実世界として選択することはできないというか,そうでなければ神が選択した現実世界が最善の世界であるということが真偽不明であるというかのどちらかでなければならないと僕は考えます。前者はそれ自体で不条理です。しかし後者はライプニッツ主義の最重要条件に反します。この帰結はなぜ生じてしまうのでしょうか。

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