goo blog サービス終了のお知らせ 

浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

ローマ人列伝:ハンニバル伝 8

2009-03-30 18:40:59 | ローマ人列伝
カンネーの戦いについて少し補足を。

ハンニバルの戦いは常に「騎兵」の機動力を利用し敵を包囲するものでした。この騎兵の有効性にローマが気づいていなかったわけではありません。しかし、騎兵の増強についてはしたくても出来ない、という状態でした。当時、馬という生き物自体の産地が少なかったため、馬を手に入れること自体難しいものでした。ハンニバルが騎兵を編成できたのはカルタゴの同盟国にヌミディア(現在のアルジェリア)という馬産地があったためです。

更には馬を手に入れても馬を乗りこなす兵を養成するのが一苦労でした。当時はまだアブミが発明されていないので、馬を乗りこなす、ましてや馬に乗って戦う、ためには相当の訓練が必要だったのです。
ちなみにこのヌミディアはカルタゴ完全崩壊のきっかけとなります。


さて、カンネーで完膚なきまでローマ軍をたたいたハンニバル軍。カンネーからローマ本国は目と鼻の先。ハンニバル軍の蹄の音はローマ市街地のすぐそばまで響いています。ハンニバルの悪魔的戦略はローマ本国に伝わりローマ市民は眠れぬ夜を過ごすこととなります。今でもイタリアの子供は「ハンニバルが来るよ」と言うと泣き止むとか。

勢いにのるハンニバル軍の兵士たちは「今こそローマ本国攻めを!」と声を上げます。

しかしハンニバルはそれに賛同しませんでした。

ローマ本国を攻めるには兵糧が足りないのです。ハンニバルはあくまで万全の体制を期すために引き続きローマ同盟都市攻めの続行を決意します。

このとき、強く本国攻めを主張した騎兵隊長がハンニバルに告げた言葉が残っています。曰く「あなたは勝利を得る方法を知っているが、その活かし方を知らない」

歴史に「もし」はありませんが、このハンニバルの戦略は正しかったのかどうか?もしかするとここで本国攻めを行っていれば勝てたのかも知れないし、ハンニバルの予想通り兵糧不足に陥り負けていたかもしれない。誰にも分からないことではあります。



一方、ローマ元老院、こうなってはハンニバルにローマ本国が攻められるか、あるいはローマがハンニバルを倒すか二つに一つ、攻撃か防衛かどちらに専念する、という悠長なことは言っていられません。守りつつ攻める、この方法で行くこと選択します。

守りを任せたのは「ローマの盾」ファビウス64歳。

一時は彼の持久戦法でハンニバルを追い詰めたものの世論がそれを許さずいったん一線を退いていた将軍、彼に再度依頼し、ローマ本国の防備を任せます。

もう一人は「ローマの剣」マルケルス。

ガリア人征伐で凱旋式を挙げた名将このとき55歳。彼にはハンニバルの手に落ちたシラクサをはじめ旧同盟都市の奪還、及びハンニバルの徹底追走を指示します。

しかしもうひとつ、攻めるべきところがありました。それはハンニバルの本国であるスペイン。結局のところ、ここをたたかなければハンニバルはいつでも自身の国に帰ることができ、そしてまたいつ力を溜めてイタリアに戻ってくるか分からないのです。

このスペイン攻めの総司令官選びは難航を極めました。あくまでローマを守らねばいけないので歴戦の将軍はローマ近辺に配置するしかなくそもそも駒が居ない。更にはスペイン攻めの間、ずっと軍団を任せられる力量がなければいけないだけではなく、カンネーでの敗戦で自信を喪失している兵士たちを奮い立たせる将軍でなくてはいけない。

この困難な遠征に自ら手を上げたのは「蠍」を意味する名を持つスキピオ。16歳の時に初陣となるティチーノで父である執政官コルネリウスをすんでのところで救ってからというもの、トラジメーノ、カンネーと戦い続けてきました。しかしこのとき弱冠25歳、元老院になる資格(被選挙権は30歳)すら持っていなかった若者でした。

誰もがこの名も無き若将の申し出を一笑に付します。そして最後には「やりたいと言っているのだからやらせればいい」と半ば黙認する形でスキピオのスペイン遠征を許します。


結果、この3作戦は功を奏します。

まずローマの剣、マルケルスがシチリア攻略に成功したことでハンニバルには海からのカルタゴによる補給路を絶たれます。

余談にはなりますがこのシチリア攻略の際、シチリアに上陸しようとするローマ海軍を困らせたのが「シラクサの天才」大数学者アルキメデス。

彼考案による「鶴」と呼ばれる投石器、「サンブカ(楽器の一種)」と呼ばれる落水装置、そして後に「光の武器」と呼ばれる鏡を使った装置はことごとくローマ海軍の上陸を妨げます。

マルケルスは「老いぼれ一人にここまで手こずらせられるとは」と憤慨したと言われています。シチリア攻略はシチリア側の一人の裏切り者の内通によりなんとか成功します。マルケルスはアルキメデスの才を尊重し彼を生きて捕えるよう兵士に指示しますが、地面に書いた図形を踏んでいた兵士に怒ったアルキメデスが「私の円を踏むな!」と意見をしたことから彼は殺されます。彼の死を聞いたマルケルスは彼を丁重に葬ったと言われています。

(つまり、漫画『エウレーカ』はまったくのフィクション、というわけでもないんですねー)

ファビウスとマルケルス、ローマの盾と剣の活躍により、ハンニバル軍は南イタリア地方に足止めを食らうことになります。

ローマの剣、マルケルスに対するハンニバルの評価は下記のように記されています。

「おお、神よ、あの男に対しては何をしていいかわからない。ローマ軍の持つ唯一の武人であるあの男とは、永遠に剣を付き合わせていなければならないのか。全く、勝てば勢いづき、敗れれば恥と思うあの男にとっては、戦闘意欲を刺激することでは、勝とうが負けようが同じことなのか!」

名将ハンニバルでもマルケルスを倒すのに2年の月日を要しました。

マルケルスの最後は彼自身が林を偵察していたときにハンニバルの潜めた伏兵に胸を突かれての即死でした。遺体を検分したハンニバルはそれがローマの剣、マルケルス将軍であることを認めると丁重な葬式を行い、遺灰をローマにいるマルケルスの弟に届けるよう指示したといいます。
しかしローマへ運ぶ途中、折からの強風で彼の遺灰は飛ばされてしまった、という部下の報告にハンニバルは「墓を持たないのも彼の運命だろう」とつぶやいたと言われています。

後に「ローマの剣」「ローマの盾」のことをハンニバルはこう評しています。

「ファビウスは自分にとって教師だったが、マルケルスは常に敵だった」

ファビウス、マルケルスの作戦によりハンニバルはカンネーの戦い以降、なんと13年間も南イタリアに足止めを食らうことになりました。

その間、彼の地元スペインはスキピオにより既に落城していました。スペインを統治していたハンニバルの弟も既にスキピオによって殺されています。もうハンニバルには帰る家も家族もないのです。

しかし彼にカルタゴ本国が救援を求めます。スペインを落としたスキピオがカルタゴ本国を攻めているというのです。

彼の「故郷」はあくまで父が作ったカルタゴ・ノヴァ。しかし彼の「国籍」はカルタゴ。戻る家はもうありませんがそれでも戻らなければ賊軍としてカルタゴ本国を敵に回すことになります。

彼は帰国を決意します。若き日にアルプスを越えてイタリアに入ってから16年の月日が流れていました。26歳でアルプスを越え、既に45歳になっていました。更にカルタゴ本国へ行くのは9歳の時に父に連れられスペインに旅立って以来のことです。

力を失ったカルタゴ本国に渡る彼を待つの家族でも故郷でもなく、ローマの蠍、スキピオ。


…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 7

2009-03-29 10:38:52 | ローマ人列伝
ハンニバルを追ってローマを出陣したローマ軍総計8万7千。彼らの動きをハンニバルは手に取るように知っていました。調査兵によるものかどうか今では定かではありませんが、兵士の数、率いる執政官の性格までしっかりと把握していたと言われています。

ローマ軍の兵数と自軍の戦力を比べれば圧倒的に食料が足りない。一度体勢を整えるためローマからは離れてしまいますが、食料補給のため南下しカンネーに向かいます。

カンネーは豊かな町。標的ローマからは遠ざかることになりますが10日分しか残っていなかったハンニバル軍、潤沢なカンネーを落とすことにより有り余るほどの食糧を確保します。

一方、ローマ軍、ハンニバルがカンネーに駐屯した報を受け、誘われるかのようにカンネーへと向かいます。ローマ軍は騎兵を最大限活用したいハンニバルの思惑には気づいていました。しかしここに来てまだ、もう一回言いますが、ここに来てまだ!彼らは自分たちの強み、重装歩兵がハンニバル軍に有効であると思っているのです。だからこそカンネーに広がる平原を自分たちにとって有利な場所と思っていました。

ここに過去から学べなかった弱さがあります。

以前は負けたとは言え今回の兵数はハンニバル軍5万に対しローマ8万7千。この兵数であれば負けるわけがない。

ここに来てまだ!「負けるわけがない」と思っているのです。


両軍はカンネーの村すぐそばのオファント川付近の開けた平地に陣を引きます。

ここでにらみ合うこと約2ヶ月。

このにらみ合いの2ヶ月間、大きな戦いは起こらず小競り合いのみ。しかもその小競り合いはことごとくローマの勝利でした。
一度などローマの死者が100名程度に対し、ハンニバル軍の死者が千を超えたことがあります。今までハンニバル軍の悪魔的な強さを伝え聞いていたローマ軍の中に「ハンニバル軍くみし易し」の雰囲気が流れます。

なんのことはありません。

ハンニバルはポーカーでも麻雀でもプロが素人に使う手を使っただけです。つまり「はじめ軽く勝たせて後でごっそり」

気をよくしたローマ軍は全軍のうち1万を川の向こう岸に待機させます。本格的な戦いになった場合にもしハンニバル軍が川を渡って退却しようとしたら待ち伏せするために。

ここまでハンニバルは何一つ動きませんでした。彼はローマ軍がハンニバルを警戒していたことを知っていました。今はあくまで「ローマが先に手を打っている」とローマに思わせることだけが彼の目的でした。

そして本格的な戦いが始まります。

(注:以降、戦略図が続きます。ぜひ画像が閲覧できる状態でどうぞ)


執政官ヴァッロ率いるローマ軍の布陣は両翼に騎兵、中央前列に軽装歩兵、その後ろに重装歩兵。あくまで中央突破を狙うため歩兵は中央を厚くしています。

対するハンニバル軍は同じく両翼に騎兵、中央前列はガリア歩兵、その後ろにカルタゴ歩兵。ローマの一の太刀、中央の厚い歩兵に対するためにガリア歩兵は弓形に沿らしてあります。


開戦直後、あくまで中央突破を目論むローマ軍歩兵に対してハンニバル軍はガリア歩兵で応戦します。さすが歴戦のローマ軍の中央歩兵攻撃は厳しいものでしたがカルタゴガリア歩兵もよく戦います。とうぜん、じりじりとガリア歩兵は下がり弓形が崩れていきます。


ローマ軍は数の有利を活かしカルタゴガリア兵の中央を攻め続けます。結果、カルタゴガリア歩兵は2つに分離します。


分離した中央部から姿を現したのはアルプス越えからハンニバルに付き従ってきた古参のカルタゴ歩兵。ローマ軍はカルタゴ=ガリア兵という第一陣を打ち破ったので、あとはカルタゴ兵を打ち破れば戦闘終了、と確信します。

もちろん、この一連の動きは稀代の戦術家ハンニバルの用兵によるものでした。中央のカルタゴ歩兵の不利(という見せ掛け)の一方、騎兵同士の戦いは数に勝るカルタゴ軍有利で進んでいました。

ローマ騎兵をカルタゴ騎兵が打ち破ったと同時に2つに分かれているカルタゴ=ガリア歩兵は更に外へと移動します。もちろん、これはローマ歩兵を更に奥へと誘い込むため。


既にローマ騎兵は壊滅。カルタゴ騎兵はより深く入り込んだローマ軍のうしろを狙います。


分離したカルタゴガリア歩兵がローマ軍の両脇を、騎兵が背後を囲んだところで勝負あり。


障害物の無い平地にも関わらずローマ7万の兵はハンニバル軍にすっぽりと包囲されることになります。囲まれたローマ軍の中央付近にいた兵士の多くは敵の剣による「戦死」ではなく、将棋倒しになり味方に押しつぶされる「圧死」によって命を落とします。

ここにいたり、平地での会戦ながら7万の軍勢を5万が包囲し殲滅させる、という歴史に名高いカンネーの戦いは決着をしました。

司令官ヴァッロは退却の一途、ハンニバル軍の逃走を阻止するため後方に置かれたローマ兵1万は司令官を失いほぼ全員が捕われ捕虜となりました。

両軍の被害はローマ側が7万の死者、そして1万の捕虜。ハンニバル側の死者はわずか5千。



屈強を誇ったローマ重装歩兵は完膚なきまでに敗北します。

ピリッポス2世が発明し、アレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)に受け継がれ、古代マケドニアの主戦力となり、一時は地中海世界を征圧した重装歩兵戦術、いわゆるファランクス戦法はここに完全に終焉を迎えました。
そして今までその存在は知っていてもその使い方に気づいていなかった「騎兵」の戦い方の時代が始まるのです。


カンネーでの圧倒的勝利と共に名将ハンニバルの名が地中海世界に響き渡ります。既にハンニバル支持の北のガリアに続き、東の大国マケドニア、更には第一次ポエニ戦争の発端となったシチリア島の国シラクサがハンニバル支持を表明しローマは孤立します。

そのローマの窮地を救うべく名を上げたのが、「ローマの盾」「ローマの剣」と呼ばれた2人の老将軍、そしてティチーノ、トラジメーノ、カンネー、3つの戦いを目の当たりにし、ハンニバルの戦い方をその目と肌で学んだ25歳、スキピオでした。


…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 6

2009-03-28 13:17:56 | ローマ人列伝
ここまでのハンニバル軍の行動についてひとつの疑問が残ります。それは「ハンニバル軍はどう補給していたのか?」ということ。

ハンニバルはカルタゴ軍ではありましたが、本国カルタゴにとって見れば彼は単に独立国の将軍であり、カルタゴ本国が補給をしていたわけではありません。

もちろん補給を手伝おうと思ってもカルタゴから物資を運ぶにはローマ本国を経由しなければならないわけで現実的に不可能だったのですが。

ハンニバルの地盤であるスペインから物資を運ぼうにもそのためにはハンニバルが成し遂げたアルプス越えをもう一度しなければならないのです。

本来であればハンニバルは完全に補給路を絶たれた遊軍でしかありません。

それが5万の兵を抱えイタリア半島を荒らしまわっている。

5万の兵、と簡単に言いますが5万と言えば日本の市町村で言えば兵庫県南あわじ市、茨城県鉾田市、三重県亀山市、、、うーんどうも伝わりませんね。

北海道で言えば富良野市の人口の倍、檜山支庁全人口より多いくらいです。つーかどこだよ、檜山って!?えーっとね、調べたら江差町とかだって。この5万が毎日食べていくだけでもたいへんなものです。

ハンニバルは軍総司令官であると共に5万人を食わせていく政治家でもあったのです。

補給路の無い5万の軍の維持。それが出来たのはハンニバルの一貫した政策にあります。その政策とは「戦勝を材料にローマ同盟都市を自分の味方につける」というもの。

ローマ同盟都市の中でもハンニバルの強さを恐れ続々とハンニバル側につく都市が増え、貢物が続々と集まってきました。それらの貢物は時に多すぎて持ちきれないほどだったと言います。

このハンニバルの圧倒的な強さに対してローマ元老院は非常時にしか任命しない「独裁官」という役職にファビウス・マクシムスを任命し対ハンニバル戦略を一任します。


(ファビウス・マクシムス)

貴族の中でも名門ファビウス家出身の彼、第一次ポエニ戦争で名を上げ、その後、政治家として執政官を二度、ローマ帝国時代の警察庁長官とも言える監察官を一度勤めた名政治家です。

彼の対ハンニバル戦略はシンプルでした。それは「ハンニバルとは戦わない」というもの。今までの執政官がなんとしてもハンニバルを倒す、という公約と共にローマから出兵したのと比べあまりにも弱気に見える彼を人々は「ぐず、のろま」という意味の「コンクタトル」のあだ名をつけて「ファビウス・コンクタトル」と呼びます。

しかし「コンクタトル」が「思慮深い」と言う意味になるのに時間はかかりませんでした。

彼の戦略は、圧倒的な強さを誇るハンニバルに正面から当たることは絶対に避け、更にはハンニバルの予想進路に当たる都市は逆に、なんとローマ側がその都市を攻撃し物資をすべて引き上げ街ごと焼き尽くす、という極端なものでした。

自らの国を守るため自らの国を焼く、この戦略にはさすがのハンニバルも為す術がありません。
先の戦場、トレビアからローマは目と鼻の先でしたが、兵糧を求めてローマから離れる進行路を取ることを余儀なくされます。


これがアルプス以降のハンニバルの侵攻ルートです。①がティチーノ、②がトレビア、③がトラジメーノです。トラジメーノまでは一路ローマのルートでしたがトラジメーノ以降迂回をしていきます。

第二次ポエニ戦争始まって以来、初めてローマがハンニバルを困らせたのです。

あとはもう本気の持久戦。ローマがハンニバルの補給路を絶つために自らを焼き尽くすか、ハンニバル軍が根負けするか。

ハンニバルにとって幸運だったのはハンニバル軍はハンニバル軍だけで完結していたことです。いくら兵糧がなくなってもハンニバル軍が我慢すればいいだけ。

一方、ファビウスのうしろにはローマという国がありました。この戦略は効果的であったものも「ハンニバルのために自らローマを焼くのか」という元老院、また同盟都市からの世論を抑えることが出来ませんでした。

そして残念ながら「やはりファビウスはぐずだった」とローマ市民が肩を落とす、「牛の角事件」が起こります。

自軍の進路に2つの丘があり、その片方にファビウス率いるローマ軍が駐屯しているのを見つけたハンニバル。「ローマ軍がいるのでこの道を通るのはやめましょう」という兵に向かって「何があろうとハンニバルは通る」と言い放ちます。

そしてハンニバルは夜になるのを待ちます。夜になった頃、ハンニバルは貢物としてもらった牛を集め、牛の角に枯れ草を結び付け、火をつけます。角に火をつけられた牛たちはいっせいにもう片方の丘に登ります。それを見つけたファビウス軍、てっきりハンニバル軍全軍がたいまつと共に丘を占領したのだと思い込みます。
名高いハンニバルと夜の闇の中での戦いになると勝ち目はないと考え、とにかくこの丘だけは奪われまいと防戦の陣形を取ります。

そしてハンニバルは丘の間の道をゆうゆうと通り抜けましたとさ。

以後、イタリア語ではどんな妨害があってもやり遂げることを「何であろうとハンニバルは通る」と言うようになったとな。どっとわらい。

この事件直後、ファビウスには独裁官の任期途中にも関わらずローマに帰還の命令が下されます。

もちろんローマ軍の面目丸つぶれのこの「牛の角事件」もさることながら引き続く焦土作戦で同盟都市の世論を抑えきれなくなったから、という理由が最たるものでした。

ローマ元老院はファビウスに代わる新たな司令官、つまりは執政官を2名を選出することとなります。

このときの世論は大きく分けて2つ。ひとつは持久戦法派。ファビウスの唱えた持久戦法は確かに様々問題があるにせよ、第二次ポエニ戦争開戦以来、ハンニバル軍を追い込んだ戦法である。更には第一次ポエニ戦争の時、ハンニバルの父ハミルカルをシチリアから退却させたのも彼の補給路を絶ったことが大きい、だからこの戦法を取り続けるべきだ、という一派。

対する積極戦法派の主張は、持久戦法ではハンニバルを殺す前にローマ全土が焦土と化してしまう、ローマ全軍の力を持ってハンニバルを倒すべきである、というもの。

結果、元老院は間を取って、という形で双方かの代表を1名ずつ、執政官に任命します。持久戦法派は前独裁官ファビウスの考えを全面的に支持するエミリウス・パウルス、貴族出身。もう一名の執政官は平民出身で積極戦法派の代表格、テレンティウス・ヴァッロ。

元老院では意見は半々でしたが、もうひとつのローマ主権者である市民集会では圧倒的に積極戦法派が多数を占めていました。それは当然。元老院にとっては持久戦で焼かれるのはローマ以外の都市に過ぎませんが、焼かれる土地は市民たちのものだからです。積極戦法派多数である、ということはつまり兵に志願する市民も多いということです。

元老院はこの執政官2名を総司令官とするローマ軍を編成します。このとき編成されたローマ兵士数は志願兵も含めて膨れ上がり、史上最大兵数ともいえる総計8万7千。

一方、待ち受けるハンニバル軍は総計5万。


兵数ではローマ圧倒的有利。しかし残念ながらローマは先の3つの戦いから何も学んでいませんでした。3つの戦いとも「突然の戦いだったから」「川の水が冷たかったから」「湖のほとりで騙まし討ちにあったから」と本当の敗因を見ていませんでした。

塩野七生はこう書きます。

「天才とはその人だけに見える新事実を、見ることのできる人ではない。誰もが見ていながらも重要性に気づかなかった旧事実に、気づく人のことである。」

天才ハンニバルによって、ローマ人たちが、自分たちが見ていながら重要性に気づいていなかった旧事実に否が応にも気づかされる、その地の名はカンネー。


…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 5

2009-03-27 18:33:44 | ローマ人列伝
「アルプスを越えて攻めてくるはずが無い」とローマが思った時点、いや、むしろハンニバルがローマにそう思わせた時点から、ハンニバルの侵攻は始まっていました。

黒が2回続いたから次は赤、というわけがありません。

ハンニバルが選んだ道は再度、山脈を越える困難な道。

結局、ローマ軍は二手に分かれながらもハンニバルに裏をかかれることになり、ハンニバルの更なる南下(つまりはローマ本国に近づくこと)を許すことになります。

その報を聞いたローマ軍2名の司令官、早速、きびすを返しハンニバル追走に向かいます。追跡するローマ軍にとってはありがたいことにハンニバルは通過した村を焼き払いながら進んでいました。彼の足跡を追うのは容易です。

現ハンニバル軍に近かったのはセルヴィリウス、フラミニウス両軍のうち、フラミニウス軍。彼は先立つ執政官選挙でも「打倒ハンニバル」を公約に掲げ票を集めた人間です。これがハンニバル打倒のチャンスとばかりにハンニバルが現在潜伏しているという情報に基づきトラジメーノ湖に急襲します。


ここまでことごとく「兵は欺道なり」の言葉を体現するかの如く敵を欺いてきたハンニバル。ここで村の焼き討ちも、トラジメーノ湖への潜伏もすべて彼の戦略だったことにフラミニウウスが気づくのはまだ先のことです。



(現在のトラジメーノ湖)

トラジメーノの戦いに対する後世の歴史家の評価はただひとつです。曰く「戦いとは認めない」。

なぜならこれは単なる騙まし討ちであるから、というものです。

しかし僕はこれこそがカンネーの戦い以上のハンニバル戦術の真骨頂であると思っています。

まずハンニバルの目的の第一は、「二正面攻撃ではなく各個撃破の戦いに持ち込む」ことでした。

戦争学においては「二正面攻撃は最高の愚策」が定説です。どれだけの名将でも一度に二方向の敵に対して戦うことは出来ないのです。これは歴史上、正式な二正面攻撃を成功させたのはナポレオンだけ、しかも彼ですら一度だけ、という事実からも明らかです。

ハンニバルが最も恐れていたのはセルヴィリウス軍、フラミニウス軍に挟まれること。両群に挟まれればいくらハンニバル軍と言えども勝ち目はありません。なんとか各個撃破に持っていくことが彼の狙いでした。

戦術の基本は各個撃破です。敵軍団をひとつひとつたたいていく。

各個撃破には現代の用兵術まで続く3つの原則があります。つまり「倒しやすい方から倒す」「近い方から倒す」「危険な方から倒す」。

ハンニバルにとってセルヴィリウス軍、フラミニウス軍どちらが倒しやすいと思ったのかは分かりません。しかし、近い、ということで言えば明らかにフラミニウス軍でした。

更にハンニバルがトラジメーノ湖を戦場に選んだのには地の利がありました。ここは常に濃霧に覆われることが多い土地。

敵は湖の周辺を行軍することが明らかです。ならば湖を挟んで攻撃すれば敵を「背水の陣」に追い込むことが出来るのです。川と違い湖は向こう岸に渡ることは出来ません。

彼の選んだ戦法は待ち伏せです。トラジメーノ湖のそばの街道の林にハンニバル軍5万の兵が息を潜めます。

もちろん、無意味に村を焼き払っていたのもすべてはフラミニウス軍をおびき寄せるためです。



これがトラジメーノの戦いの陣形図です。赤がローマ軍進行路、青がカルタゴ軍部隊。ハンニバルの布陣が「いやらしい」のはローマ軍の行路の先(図右)にスペインからの古参兵を壁のように配置し、その左に歩兵、ガリア兵、最左に騎兵、と機動力が高くなるように配置していることです。これによりローマ軍の最後列を騎兵が追い立てることが出来ます。まるで牧羊犬が牧柵に羊を追い込むように。この狭いゲリラ戦でも彼の戦術は「包囲戦術」でした。

深い霧の中、ハンニバル軍全兵士は息を潜め将軍ハンニバルの号令を待ちます。目の前を行軍していくローマ兵。

ちょうどローマ兵の前衛がハンニバル軍を通り過ぎる頃、ハンニバルは兵士に号令をかけます。

ローマ軍前衛は霧の中から現れた殺戮者に驚きの声を上げます。うしろに続いているローマ軍兵士は前方で何かが起こったことはわかりますが濃霧に囲まれそれが何なのかが分かりません。

塩野七生はこう表現しています。

「高速道路上ではしばしば、事故に気がつかないで走ってきた後続車が、次々と追突事故の犠牲になることがある。」

稀代の戦術家ハンニバルのもっとも美しい戦術がもたらしたものはローマ人にとっては美しさのひとかけらも無い地獄絵図でした。

一兵士も、軍団長も、そしてローマ最高の栄誉とされる執政官だったフラミニウスも、どの身体が誰のものかわかぬままトラジメーノの湖に浮かびました。

執政官フラミニウス率いるローマ軍2万5千のうち死者はフラミニウスを含む1万5千。一方、ハンニバル軍5万のうちの死者はほぼ無傷と言っていい2千。圧勝でした。

勝ち負けは起こってしまった過去であり、変えられません。一度負けたからと言ってそれはそれ、次に勝てばいいだけの話。大事なことはその勝敗から何を学ぶか。ローマ軍は残念ながらこの戦いを単なる「騙まし討ちによる大敗」としか捉えませんでした。一方、ハンニバルは圧倒的勝利を収めながらもやはりローマの重装歩兵の攻撃力は見くびるべきではない、という思いを強くしていました。

この2つの姿勢の差が次の結果の差につながるのです。

ことごとく負け続け、ハンニバルの侵攻を許すことになったローマ元老院。失った執政官フラミニウスに代わり対ハンニバル戦略を一任する人物を選びます。後に「ローマの盾」と呼ばれるファビウス・マクシムス。




…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 4

2009-03-27 04:16:32 | ローマ人列伝
古来より圧倒的勝利を収めたいくつかの戦いには共通点があります。

それは「戦闘前に敵の戦闘力を極限まで削いでおくこと」

三国志の赤壁の戦いの際の孫呉両軍の圧倒的勝利の要因は、事前に魏の船を繋ぎ機動力を削いでいたためでした。

戦闘前に敵の戦闘力を如何に最小化するか、が「戦略」であり、戦闘開始後に自戦闘力を如何に最大化するか、が「戦術」です。

ハンニバルは優れた「戦略家」でした。


夜明け前の騎兵急襲の報に飛び起きたローマ軍司令官センプローニウスが見たものはローマ軍騎兵に押されるハンニバル軍騎兵。ティチーノの戦いで圧倒的な強さを誇ったハンニバル軍はローマ軍騎兵に押され散り散りに退却している。

それを見たセンプローニウス、正に自分が考えていた「ハンニバル軍は食料に不足している」という思いを一層強くします。ハンニバルとの戦い、雌雄を決するのは今だ。いや、今しかない。全軍にハンニバル軍追走の指示を出します。

ローマ軍の勢いに押されトレビア川を渡り退却するハンニバル軍騎兵。追うセンプローニウスはここで一気に殲滅すべく全軍にトレビア渡河を命じます。

このトレビア川、冬でも凍らないのはただ単に流れが速いから、というだけの理由。夜明け前の河は氷のように冷えていました。

この川を渡るローマ軍。起きたばかりの兵士たちは身を凍らせ数名は川の流れに耐え切れず流されていきます。かじかみながら川を渡ったローマ軍の前にあったものは、夜明け前からしっかりと食事を取り、身体を温め、川を渡れるように全身に油を塗ったカルタゴ兵士の隊列。

冷たい川水にさらされ満足な食事も取っていないローマ兵士たち、この時点でハンニバルの「戦略」は100%成功でした。

あとは自戦闘力を最大化する「戦術」の勝負です。

カルタゴ軍は総勢4万、うち騎兵1万。

対するローマ軍は渡河前の状態で総勢4万、うち騎兵4千。

ここに第二次ポエニ戦争第二戦、トレビアの戦いが幕を開けます。


戦術は布陣に現れます。

ローマ軍は伝統の中央に重装歩兵を配しあくまで中央突破。一方、ハンニバルは自軍中央は現地で調達した兵とも言えないガリア歩兵。しかし両翼に広がるにしたがって戦闘力の高い騎兵を配置。


(図1)

ハンニバルの基本的な戦法は包囲戦法でした。中央の歩兵が争っている間に両翼の騎兵が敵を包囲する、というもの。

包囲戦法の本当の意味は「敵の主戦力の非戦力化」。前面の敵には圧倒的な攻撃力と防御力を誇る重装歩兵も、ほぼ鎧を身に着けず半裸のガリア歩兵のスピードに追いつくことが出来ず、ただ彼らを追うだけ。いや、「追わされる」だけ。

両翼の騎兵は数も戦闘力もハンニバル騎兵が勝っています。進めば進むほど重装歩兵の背後が空くことになり、そこに機動力で騎兵が入り込めばうしろはがら空き。ましてや重装歩兵の最大の武器、槍は急激な方向転換に向いていません。

(重装歩兵部隊)

更にはトレビア河の林の中には昨夜、ハンニバルが仕込んだマゴーネ率いる伏兵部隊2千(図1の下部にある青いユニット)。この伏兵が川沿いを駆け上がりローマ軍の背後をたたいていきます。最強を誇ったローマ重装歩兵はなす術もなく敗れます。

第二次ポエニ戦争の第二戦目、本格的な会戦としては初戦、トレビアの戦いはハンニバル軍の圧倒的な勝利で終わります。

すべてはハンニバルの計算どおり。唯一の計算違いといえばあれだけ苦労してアルプスを越えさせた象の生き残り3頭が会戦ではまったく動かず戦略にならなかったことのみ。

この戦いの数字的結果はこのように記されています。

・ローマ軍
歩兵36,000
騎兵4,000
うち死傷20,000

・カルタゴ軍
歩兵30,000
騎兵10,000
象3頭
うち死傷者はほとんどガリア傭兵でありカルタゴ兵はほぼ無傷。
象2頭死亡。


戦闘自体はカルタゴ軍の圧倒的勝利だったものの、この戦いでカルタゴ軍が得たものは多くはありませんでした。真冬の曇天の中での戦いであったため、ローマ司令官の敗走を許すことになりましたし、更に言えば先の戦いで父である執政官を救った16歳の若兵を今度も生きて逃がすことになりました。この若兵は何度もハンニバルの勝利を目の当たりにしながら幸運にも生き延びたことでその肌でハンニバルの戦いぶりを学ぶことになります。


得るものは少なかったとはいえ、偶然始まった言わば局地戦のティチーノの戦いと違いこちらはローマ軍とがっぷり四つに組んだ戦い。この戦いで圧倒的な勝利を遂げたハンニバル軍の名声は鳴り響き、兵志願者が急増します。アルプス越え直後には2万6千まで減っていたハンニバル軍は5万を超えるまでになっていました。



正当な戦いであればローマ軍の勝利を疑っていなかったローマ元老院、ハンニバルの戦術には恐れをなします。

ハンニバルに敗れた2名の執政官は任期を終えローマに帰還しました。敗軍の将は十字架刑に処すカルタゴと違い、ローマでは決して敗軍の将に処罰を与えませんでした。これは前線で戦う司令官に後塵の憂いなくただ目の前の敵に専念してもらうための措置です。
しかし執政官の任期は任期。2名は執政官の役を辞し、新たな執政官が任命されます。セルヴィリウスとフラミニウス。

当然のことながら彼ら2名に託されたのはハンニバルのローマ侵攻の阻止。

彼らにはそれぞれローマ元老院から2万5千ずつの兵を与えられ、ハンニバル撃破を命じられます。

ハンニバルがどのルートを辿ってくるかを誰も予測できない以上、軍勢は二手に分かれるしかありません。

このとき、2つのローマ軍が予想したのは「既に5万の軍となったハンニバルはここぞとばかりに平易な道をたどってくるだろう」というもの。「あれだけの苦労をしてアルプスを越えてきたのだ、今は困難な道を取るはずがない」

「そんなはずがない」と思った時点で既に次の戦いの勝敗が決まっていました。



…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 3

2009-03-25 18:22:37 | ローマ人列伝
どうも、ハンニバル伝始まって以来アクセス数コメント数がウナギ下がりの浅草文庫亭です。

とはいえ始めてしまったものは最後まで続けますよー。

クレオパトラ伝書いてる途中に緊急入院したのはちょうど去年の今頃でした。入院しない限り毎日続きます。おそらく。


さて、ティチーノ川はイタリア北部を流れる小さな川です。

(現在のティチーノ川)

この川を挟んでハンニバル軍とローマ軍がお互いを認めます。

ハンニバルは敵軍の中に「ファスケス」という武器を持った兵士団がいることを見つけます。

これは当時、執政官を守る警士(リクトル)と呼ばれる兵士の目印でした。

  
(左「ファスケス」、右「ファスケスを持った警士(リクトル)」。ちなみに「ファスケス」、後の「ファシズム」の語源)


この警士が居る、ということはその軍の中に総司令官であるローマ執政官が居る、ということ。

一方、ローマ執政官コルネリウスも敵軍の中にカルタゴの若き智将ハンニバルの姿を認めます。

こうなれば偵察なんのとは言っていられません。

まず第一手を打ったのはローマ軍。カルタゴ軍に向けて矢を放ちます。

しかし、地力に勝るのは今の今までアルプス越えという地獄を越えてきたカルタゴでした。しかもカルタゴ軍はアルプスを越えてすぐ、騎兵を増強したばかりでした。

少し話がずれますが、第二次ポエニ戦争は「騎兵の発明された」戦争だと思います。もちろんそれ以前にも「ただ単に人が馬に乗っている」騎兵は存在しました。しかしこれまでその騎兵は単なる輸送手段でしかなく、場合によっては馬から降りて戦っていたことのほうが多かったようです。しかしこの第二次ポエニ戦争以降、騎兵の機動力を有利に使ったものが戦いに勝つようになります。

もちろんその発明は幼い頃から馬に慣れ親しんだハンニバルによるものであることは言うに及びません。どの時代においてもその当時最先端の機動力、攻撃力を持つ部隊を有効に活用したものが勝利を治めるのが戦争の常です。

古代マケドニアの重装歩兵(ファランクス)、この時代の騎兵、日本で言えば武田赤備え、長篠の合戦における鉄砲隊、更に時代を越えれば第二次大戦における戦車部隊、近代戦争におけるヘリ部隊。

ハンニバルは騎兵を両翼に置き、その騎兵の機動力を活かしローマ軍を攻めます。ローマ軍は双方から圧倒的なスピードで押し寄せてくる騎兵に恐怖を感じ、一気に退却を始めます。カルタゴ騎兵が敵の大将である執政官コルネリウスに迫ったとき、その日が初陣であった若兵がなんとか執政官を救い、退却に成功します。

偶然から始まった第二次ポエニ戦争第一戦目ティチーノの戦いはローマ軍の撤退によりカルタゴの圧倒的勝利で幕を下ろします。


ハンニバルは帰陣後、執政官コルネリウスを取り逃したことを大いに悔しがったといいます。しかし、本当に彼が悔しがるべきは執政官の撤退を手助けした若兵を取り逃がしたことでした。今回が初陣だった弱冠16歳のこの若兵、執政官の息子で名をコルネリウス・スキピオ。17年後にハンニバルとザマの会戦で戦うことになるスキピオ・アフリカヌスその人でした。


(スキピオ)


偶然であれなんであれ、ローマ執政官率いるローマ軍を打破したというハンニバルの名声は一気に広がりました。名声に伴いガリア人からの合流志願者も増え、ハンニバル軍兵士はどんどん増えていきました。

一方、守るローマ軍、ハンニバル軍の強さ、特に騎兵の威力を目の当たりにしたコルネリウスはいくらローマが兵力では勝っているとは言え、平地に宿営地を作ることは危険と判断し、ビアチェンツァ付近に強固な城砦を建築し、そこで援軍、もう一人の執政官センプローニウス軍の到着を待ちます。

当時のローマにおいては最高権力者はローマ市民と元老院、彼らの決定に従い政策を実行するいわば総理大臣のような役割が「執政官」という役職でした。この執政官は基本的に任期は1年、常に2名が選挙で選ばれていました。2名を選ぶのは「王嫌い」ローマの特徴。一人に権力が集中するのを防ぐためです。

援軍を率いてやってきたもう一人の執政官センプローニウスは平民出身の執政官でした。

彼は決して軽率な人間ではありませんが、比較的、強気な政策に出ることが多い人間でした。これは平民出身の執政官の特徴です。自らが背負っている平民と言う立場からなんとか功を成し遂げたい、そして自分に続く平民たちに道を開きたい、という気持ちの表れでしょう。(だからこそ初の黒人大統領オバマはこれから強気な政策に出ると個人的には思っています、良かれ悪かれ)

合流したセンプローニウスはコルネリウスと軍議を重ねます。

既にハンニバル軍の強さを目の当たりにしているコルネリウスの主張はあくまで冬越えを見越した防戦論。これから本格的な冬になり、補給路の無い敵将ハンニバルはおいそれとは攻められないだろう、だからあくまで防戦に徹すべき、と主張しました。

一方、センプローニウスはあくまで徹底抗戦を主張。なぜならもし冬を戦闘無しで終えてしまえば自分とコルネリウスは執政官の任期が切れ、一度、ローマに帰られなくてはいけなくなります。目の前にローマにとっての強敵がいながら、戦いもせず帰ったとなれば貶されはしないまでも何の戦果も残せないことになります。彼は決して自分の名誉欲のためではなく、自らの身分階級、後に続く平民たちのためにここで戦果を残すため、あえてここでハンニバル攻略を主張します。

ハンニバルにはすべてが分かっていました。まずローマ軍の規則を。執政官2名が同じ軍を率いているときにはローマ軍は規則上、1日交替で軍の指揮を執ることになっていました。しかし、片方が負傷しているときにはその限りではありません。

1日交替で指揮を執ってくるのであれば毎日戦術を変えなくてはいけませんが、ありがたいことに敵将が一人で済むのならその敵将の対策だけを考えればいいのです。

そしてセンプローニウスが平民出身の執政官であることもハンニバルは知っていました。

ハンニバルは功を焦るこの執政官に的をしぼることにします。

実はハンニバルが一番恐れていたのは冬越えでした。コルネリウスの考えどおり、ハンニバル軍に補給路はありません。馬の飼葉ですら現地のガリア居住地から確保するしかありません。今は緒戦の勝利により穏便に確保できます。しかし時が経てば経つほどその調達は難しくなります。

ハンニバルはセンプローニウス攻略を始めます。

まずはローマ城砦7.5キロのところまで兵を進めローマ軍とトレビア川を挟む場所に陣営を築きました。



更にしばしば小隊を繰り出し付近の食料を強奪させました。

この行動がセンプローニウスの目にどう写ったか? ハンニバル軍は付近の食料を強奪するほどに食料に困っている。今が攻め時である、センプローニウスはそう思ったでしょう。

防戦派コルネリウスの意見は日々弱まり、抗戦派センプローニウスの意見が強くなります。

そして本格的な冬が到来し、最も夜が長い冬至の前日、ハンニバルは自軍にいる信頼のおける末弟マゴーネを伴い、周辺の調査に出かけます。ローマ軍との間にあるトレッビア川周辺を入念に調査した後、林の付近を指差しマゴーネに指示します。

「1千の兵と1千の騎兵を選び、明日の夜明け前に宿営地を出て、わたしの指示があるまでここに身を隠せ」

そしてハンニバルは宿営地に戻り、2つの指示を全軍に伝えます。

・今晩は十分に食事と休息を取ること。
・明日の朝は夜明け前に食事を済ませ、身体を焚火でよく暖め、身体には油を塗っておくこと。



明くる日はいつも以上に寒さが厳しく、どんよりとした雨空でした。

(現在のトレビア川)

夜明け前のローマ軍内に「カルタゴ軍騎兵急襲!」の報が届きます。

朝食も取らずとりあえず防備を整えたローマ、センプローニウス軍は宿舎の外に飛び出し、彼ら自身はまだ見たことが無いハンニバル騎兵を探します。

しかし、ティチーノの戦いでの圧倒的なハンニバル騎兵の強さを聞かされていたセンプローニウスが目にしたものは予想と違うものでした。


…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 2

2009-03-24 18:30:22 | ローマ人列伝
ルーレットにしても「黒、黒、と続いたから次は黒であるはずがない」と思ったら黒が来たりする。更には「黒が3回も来たからもう黒が来るはずがない」と思ったら更に黒が来たりする。

すべてのことは起こりえます。

「そんなはずはない」と思った瞬間に勝機は失われているものです。

ローマ本国攻めを目指したハンニバルに残されていたルートはローマを北から攻めるルート。そしてこれは誰もが「無理だ」と口をそろえるルートでした。というのもイタリア半島の北には天然の城砦とも言えるアルプス山脈がそびえているのです。


(衛星写真によるアルプス山脈)


(左モンブラン、右マッターホルン)

いわばイタリア半島の北はローマにとっての天然の城壁でした。これがあるからこそ、ローマは後塵の憂いを感じず地中海制覇に集中することが出来たのです。

「北からローマを攻める」と宣言するハンニバル、兵士たちは全員口をそろえて「無理だ」と言いました。

ハンニバルは決して蛮勇に任せ不可能なことを行う人間ではありませんでした。

ハンニバルは知っていたのです。多くのガリア人たちが家畜を引き連れてアルプスを越えていることを。

ハンニバルの武器の一つは「情報」でした。現地に多くの調査兵を送りその事実を捉えていたのです。現地の非武装民が出来ることが我々に出来ないはずはない。さらにもう一つの武器は「人の心を読む力」でした。恐れられていた現地ガリア人たちもあくまで自分たちの敵がローマであることを伝えれば、そして幾ばくかの金を渡せば決して自分たちを襲うことはない、ということを彼は既に読んでいました。

ハンニバルは5万の兵とカルタゴ本国(アフリカ)から連れてきた37頭の象を従え、エプロ河を越えます。

「ハンニバル、エプロ渡河」の報は早速ローマ本国に届きます。ローマ元老院はハンニバルの狙いがピレネーの南側、スペイン全土の掌握であると思います。スペイン本土にはいくつかローマ同盟都市があるものの、まだ未開の地、決してローマにとって惜しい土地ではありません。よってローマは対カルタゴ対抗戦を、カルタゴ本国海軍によるシチリア攻めにしぼり防備を固めます。


(青い点線がハンニバルのルート)

しかし続いて届いた報は「ハンニバルがアルプスを越えようとしている」というもの。ここに来てローマ元老院は29歳の若きハンニバルの思惑が一切分からなくなります。5万の兵と37頭の象を従え、アルプスを越えようとするなど何を考えているのか、単なる若気の至りなのか。

いつの時代も自分の理解を超えたことに対する人間の対応は変わりません。それは「無視」。誰もが無謀に思えるルートを進んでいるハンニバルのことを元老院は無視し、とりあえずの戦線であるシチリア防衛に専念します。


一方、アルプスの麓にたどり着いたハンニバル軍。周りの山岳民族は見慣れぬ大軍、そして見たことも無い象という動物に敵意をあからさまに見せます。無用な苦労はしたがらないハンニバル。金を送って彼らを懐柔します。目下、彼の敵はこのアルプスの山々、現地の山岳民族などにかまっている暇はありません。

真冬ではないとは言え9月のアルプス。雪は舞い兵士の体力を奪っていきます。アフリカ生まれの象はそもそもこんな気候の中では動こうともしませんし、一歩踏み外せば谷底という危険な中では野生動物の勘で一切、足を動かさなくなることもしばしばでした。そのたびに兵士たちは後ろから象を押します。少なくない人間が谷底へと足をすべらせ、その断末魔は兵士たちを更に凍えさせます。


このような状況の中、なんとかアルプスを越えさせたのはハンニバルの将としての行動でした。屈強な兵であればあるほど、金や見せ掛けの名誉には命をかけません。彼はただ、自分たちが信じた将のために命をかけるのです。そして将を信じるのは言葉ではなく「行動」です。

ハンニバルは決して多弁な将ではありませんでした。しかし多くの言葉以上に彼の行動は多弁でした。

アルプス越えの最中も、彼は兵に守られて安全な兵の中列にいることをせず、常に兵士と共に最前列に居、時には自らおびえた象を押しました。いつやってくるかわからない山岳民族の弓矢に常に警戒し、もし矢の一本でも飛んでくればすぐに駆けつけました。

雪吹きすさぶアルプスでの夜営の際、兵士たちは束の間の休息を取るハンニバルの近くを通るときには腰に下げた剣を手で押さえたといいます。せめて自分たちの司令官の眠りを妨げるような音を出さないように。

塩野七生はこう書いています。

優れたリーダーとは、優秀な才能によって人々を率いていくだけの人間ではない。
率いられていく人々に、自分たちがいなくては、と思わせることに成功した人でもある。持続する人間関係は、必ず相互関係である。


敵であるローマ人には悪魔のように恐れられたハンニバルは自軍では「この人についていく」と兵に思われたと共に「この人には自分たちがいなくては」と思われた将軍でした。


アルプスの麓を発ってから9日後、やっとアルプスの登りの道を終えます。人も馬も象も疲労の極地にありながら、ハンニバルは全軍を集め東の空の下にかすかに見える平野を指差します。

「あそこはもうイタリアだ。イタリアに入りさえすればローマの城門の前に立ったと同じことになる。もうここからはくだりだけだ。アルプスを越え終わった後で一つか二つかの戦闘をやれば、我々は全イタリアの主人になれる!」

兵士たちの咆哮。ハンニバルは2日間の休息を全軍に命じます。



峠越えは下りのほうが楽、と考えるのは素人の考えです。正解は「上りも下りも辛い」。

なんとかアルプス越えの登りの道を終えたハンニバル軍、ここからは下りの道です。しかし、時期は9月。寒さと雪は日を追うごとに厳しくなります。更には凍った下り道、足を滑らすことも多くなりました。

アルプスを下り終えた頃にはもともとの5万の兵が2万6千まで減っていました。下り終えた平野でハンニバルはアルプス越えに要した日数と同じだけの15日間の休息を全軍に告げます。

ローマ軍が襲ってくることは無い、と確信しての休息です。

なぜならここの付近にはローマの同盟都市はなく、もし襲うのであればハンニバル軍がアルプスを越える、ということが分かった時点で進軍していなければ間に合いません。その報を聞いた元老院が自分たちの理解を超えた戦術を「無視」したために生まれたハンニバル軍に取っての時間的メリットでした。

メリットを最大限に活かしたほうが勝つ。ハンニバルはこの時間的猶予を最大限に活かします。まずは当然、兵士にとっての休息として、そして自ら近隣のガリア人の懐柔に動きます。5万の兵が半減することはハンニバルにとっては計算のうちだったのかも知れません。

近隣のガリア人は多かれ少なかれローマ人に恨みを持っていました。彼らを概ね金で(カルタゴは兵士を傭兵で賄うのが常でした)、場合によってはハンニバルの武力で、兵士としていきました。アルプスを越え多少疲労が見えるとはいえ名将ハンニバル、ガリアの都市トリノを一日で落としたという記録も残っています。

5万で出発し、2万6千まで減った軍隊はガリア兵の増強により3万6千まで回復していました。

目前へと迫ったローマ軍との決戦に先立ち、ハンニバルはこれまでの行軍の過程の途中、捕虜にしたガリア人に命じます。

「希望するものには決闘を許す。決闘に勝ち抜いたものには武器と馬を与え自由を許す」

多くのガリア人奴隷が決闘を望みました。それを見守るハンニバル軍の兵士たち。彼らの間には奇妙な共感が生まれました。自分たちは何のために戦っているのか。敵はガリアでもカルタゴでも、ましてや辛いアルプスの山道でもない。すべては打倒ローマのため。自由のための決闘を行うガリア人の勝者にも敗者にも、ハンニバル軍兵士は惜しみない拍手を送りました。

決闘が終わった頃、ハンニバルは自軍の兵士たちに向き直り語り掛けました。

「これからローマとの戦いが始まる。いま、諸君が見たものは見世物ではない。諸君がローマとの戦いで今のガリア人たちのように戦えば必ず勝利できると約束しよう。

我々の後ろにはいま越えてきたアルプスがある。このアルプスにまた挑戦したいと思うものもいないだろう。

今の我々にはローマ軍に勝つか、それとも敗れて死ぬか、2つの道しか残されていない。我々は勝者になりさえすれば不死の神々さえ望めない報酬を手にすることになるだろう。シチリア島、サルデーニャ島といわず、ローマ人が所有しているすべてのものが我々のものになる。

休息はじゅうぶんに取ったと思う。これからはスペインを出てアルプスを越えた今日までの苦労とは違う。同じ苦労でも報酬が待つ苦労だ。

敵将が誰であるか私は知らない。だが誰であろうと戦いの陣幕の中で生まれ、宿営地の中で諸君らと共に育ち、勇将ハミルカルを父に持った私とくらべられるわけがない。スペインからアルプスを越えイタリアに辿り着いた私に敵う将などローマにはいない。

戦争は必ず勝つ。そして勝ったあかつきには諸君らにカルタゴでもスペインでもイタリアでも望むところに土地を与えよう」

アルプス越えという偉業を成し遂げた彼ら、15日間もの休息をたっぷり取った彼ら、そして今、目の前で本当の戦いというものをガリア人に見せられた彼らは自分たちの将の演説に大歓声を上げました。

その歓声を現実的な戦果とすべく、まずハンニバルは敵軍視察のために騎兵6千のみを率いて東に向かいます。行き先は最も近いローマ駐屯地ビアチェンツァ付近。


ただ、奇しくもローマ軍も偵察のためにビアチェンツァから騎兵、軽装歩兵あわせて4千の兵で西に出発したところでした。偵察隊ながらそれを率いるのはローマ執政官、つまり軍総司令官コルネリウス。

第二次ポエニ戦争初の戦いはこうした偶然により始まります。舞台はティチーノ川。


…to be continued...

ローマ人列伝:ハンニバル伝 1

2009-03-23 18:40:57 | ローマ人列伝
何度も繰り返しますがこのローマ人列伝は僕の個人的な趣味で書いているものですから歴史的間違いはご容赦ください。(ご指摘はありがたくいただきます)



今回は史上最高の戦術家ハンニバル。

かっこいいですねー。

そうそう、こちらのこの彫像の頭部を拡大すると右目の上に傷があることがわかると思います。

彼は隻眼だったんですね。さて、何故彼は目を失ったのか。


彼はローマ人では無いんですがタイトルが「ローマ人列伝」なのはもう続きものと思ってあきらめてください。クレオパトラ、ヴェルチンジェトリックスの時もそうでしたしねー。

更に言うと今回めちゃくちゃ長いです。加えて笑いどころほとんど無いです。歴史がお好きでない方はお暇なときに斜め読みでもしていただければ幸いです。

で、今まで書いてきた列伝の多くはユリウス・カエサルと同時代の人たちかカエサル以後の人たちでした。今回のハンニバルはカエサル以前。出来れば時代背景をご理解いただくために「プロローグ」を読んでいただけると嬉しいです。


1000年続いた古代ローマ史において「もっともローマを恐れさせた武将」にハンニバルの名を上げる人は少なくないでしょう。

更に、古代において有能な戦術家を5人挙げよ、と言われれば彼の名は必ず入るでしょう。興味深いのは同じ問いに彼のライバル、スキピオも挙げられるであろうこと。

彼は如何にローマに勝ち、そしてローマに負けたのか。


幼き日に父と共に「打倒ローマ」を誓った少年ハンニバルはスペインの広大な土地ですくすくと成長します。特に彼が好んだのは操馬術。

まだアブミが発明されていなかった当時、馬に乗るためには相当の訓練が必要でした。

アブミ(鐙)というのはつまり鞍にぶら下がってて足をかけられる器具です。


これですね。

これが発明されていない、ということは馬を御するためには腕はもちろん、太ももでしっかりと馬の胴を固定しなければいけませんし、ましてや両手を離して弓矢を射る、なんてのは並大抵の訓練では出来ませんでした。

ちなみにこの鐙、中国で最も古い遺物は北魏時代のものとされていますから、それより100年前の三国時代には無かったとされています。そんな時代に自在に馬を駆った三国志の武将たちはやっぱりすごかったんですねー。あれ?そういや蒼天航路でばっちり鐙が書き込まれてたな、考証ミス??ま、いいや。


子供の頃から馬に親しんだハンニバルは青年になる頃にはじゅうぶんに馬を操れるようになっていたのです。

ハンニバル18歳の時、父ハミルカル・バルカは打倒ローマの夢をかなえることなく死亡、ハミルカルの後を継いだのはハシュドゥルバル。ハミルカルの娘婿でした。

ハシュドゥルバルは特に外交面において才能があったようで義父ハミルカルの遺志を継ぐかのようにカルタゴ・ノヴァの建国に力を注ぎます。そしてその外交手腕でもって本国カルタゴと交渉を成功させカルタゴ・ノヴァとしてのヒスパニア自治権を獲得します。
更には来るローマの脅威を押さえるためにローマ本国との間に「カルタゴ・ノヴァはエプト河の北には攻めない。対してローマはエプト河の南には攻めない」という不可侵条約を結びます。

ここで歴史がハシュドゥルバルの役目を終わらせるかのように彼は暗殺され、ヒスパニア自治権はバルカ家の直系であるハンニバルに移ることとなります。当時、ハンニバル26歳。

彼の心にあるのは亡き父から継いだ「打倒ローマ」の遺志。とはいえ当時の世情はあくまでカルタゴとローマは同盟国であり、厳しい協約の元にありおいそれとローマに戦争を仕掛けることは出来ません。
ましてやハンニバルはカルタゴ本国で力を持っているわけではなく、あくまで辺境の地であるヒスパニアの自治をカルタゴ本国の承認により任されているだけです。親ローマ派が多数を占めるカルタゴ本国から疎まれればいつ自治権すら取り上げられるか分からない状態なのです。

彼はまず、ローマの同盟都市「サグント」に目をつけます。

ハンニバルの前ヒスパニア自治者、ハシュドゥルバルは存命中、ローマ本国との間で「エプロ河の北には攻め入らない」という不可侵条約を結んでいました。しかしサグントはローマの同盟都市でありながらエプロ河の南側にあったのです。

つまりサグントはグレーゾーン。ハンニバルはここに目をつけたのです。

攻められたサグント市民は当然のことながらローマ本国に助けを求めます。

いつものローマであれば同盟都市が攻められていれば一も二もなくかけつけその都市を守るところです。

そもそもローマというのは同盟都市との信頼関係によって成り立っている国です。税収をローマに払う代わりに何かあればローマ本国の屈強な兵士団に守ってもらう、そういういわば「契約関係」によって本国と同盟都市は成り立っていました。


しかし、同盟都市を守るにしても、ローマにとって今は時期が悪すぎました。イタリア北部への防衛線やその他の公共設備のためあまりに兵が足りません。加えてサグントを攻めているのがカルタゴ本国であればまだ用心をしたかも知れませんがカルタゴとローマは既に同盟関係にあり、カルタゴももはやローマと本気で戦おうなどとは思っていないはず。ここでローマはとりあえずサグントに停戦の使節を送るだけの処置とします。

サグントについた使節は停戦を依頼しますがもちろんそんなものは飲む気のないハンニバル。ハンニバルの答えを聞いて使節はカルタゴ本国にも向かいますが本国も昔よりは裕福になっていたのでローマの要望をはい、そうですか、と聞くレベルではありません。「あそこはハンニバルに自治権を任せているので」と言ったきり使節を帰します。

小さいとは言え同盟都市を攻められ続けているローマ。このままでは他の同盟都市に動揺が広がりかねません。しかしローマにとっては時期が悪すぎる。

そんな状況から世論は「サグントを見捨てる」あるいは「サグントのためにカルタゴと再度戦争をする」の真っ二つに分かれました。

ローマの市民集会でそれが討論されているとき、「サグント落城」の知らせが届きます。

この知らせが決定打となり、ローマはカルタゴに対して再度、宣戦を布告します。

第一次ポエニ戦争から約20年。ここに、第二次ポエニ戦争がスタートします。

サグント落城はハンニバルが攻め始めてから8ヵ月後のことでした。ローマの同盟都市とは言えヒスパニアの辺境にあるこの小さな都市の城攻めに8ヵ月もかかったことについて「ハンニバルは広野での戦いを得意としており都市攻めは苦手だった」と評する歴史家がいますが、塩野七生はそれに異を唱えています。

サグントは弱小都市であり稀代の戦術家ハンニバルであればたやすく落とせたはずです。

しかし、ハンニバルの目的はサグント落城ではありませんでした。あくまで打倒ローマ。

その目標のために必要だったものはまずは「ローマ=カルタゴ間の不可侵条約撤廃」でした。不可侵条約が結ばれている間に彼がローマを攻めれ、親ローマ派が未だ多くいるカルタゴ本国すら彼の敵になりかねないのです。

ハンニバルはカルタゴの王ではなくあくまでカルタゴからヒスパニアの自治権を任されている身、カルタゴを敵にしてしまえば自治権すら取り上げられ、自身の地盤すら危うくなってしまいます。

では不可侵条約を撤廃するにはどうしたらいいか?

それはローマ自らが撤廃するようにさせればよいのです。

そのためにハンニバルはあえてサグント攻めを長引かせたのです。もしすぐにサグントを攻め落としてしまっていたら「同盟国のひとつくらい仕方がない」とローマも諦めがついたかも知れません。しかし、長引けば長引くほど、サグントが攻められていることは他のローマ同盟都市にも伝わり「本国ローマは同盟都市を見捨てるのか」という世論が広がります。
またカルタゴ本国でも「サグントをここまで放置しておくということはローマ本国は今は同盟都市を助ける余裕がないのでは?今こそローマと再度戦うべきなのでは」という世論の形成を助長することが出来ます。

ハンニバルは単に戦争がうまいだけの戦争屋ではありませんでした。人の心の動きを読める人でした。更にいえば人の心を動かすもの、「情報」というものの重要性をしっかりと認識していた人でした。

だからこそ、サグントという小さな都市を攻めるだけで大国ローマを動かすことが出来たのです。

ローマが宣戦布告したことでとうぜんのことながらローマ側から不可侵条約は撤廃。これでハンニバルはローマ本国を攻める大義名分を手に入れたことになります。

打倒ローマを幼き頃から誓った彼は常々、父ハミルカルにその戦略を聞かされていました。父が敗北した第一次ポエニ戦争はシチリアといういわばローマの外での戦いでした。当時から「ローマは兵站で勝つ」と言われるほどに有名だったローマ軍の補給能力、つまりはローマの外でいくら戦ってもローマ軍はすぐに補給軍を調達しいつまで経っても勝てないのです。

ローマを本当に倒すのであればローマ本国を叩くしかない。これがハンニバルが幼い頃から心に決めた打倒ローマの戦略でした。

スペイン半島の端で旗を上げたハンニバル。そこからどれだけ目を凝らしても同じ海の対岸にあるローマ本国の影は見えません。

ならばカルタゴ本国を通りイタリア半島の南、シチリア側から攻めるか? この作戦も既に第一次ポエニ戦争の時に失敗しています。

彼に残されたルートは史上誰も思いつかず、思いついても「そんなことは不可能だ」と一笑にふされるであろうルート。

ただ、ハンニバルだけにはそのルートが輝いて見えていました。


…to be continued...

ローマ人列伝:プロローグ【主が愛するもの】

2009-03-22 00:51:55 | ローマ人列伝
昔々、どれくらい昔かと言うと歴史がまだ生まれる前。

「約束の地」とされたカナンに君臨した神がいた。名をバアル(主、の意味)。バアル・ゼブル(気高き主)と呼ばれ雷鳴と慈雨の神とされた。

しかし、後の世では邪教神とされバアル・ゼブルをもじってバアル・ゼブブ(蝿の主、ベルゼバブ)と呼び「悪魔の王」とされるようになった。

(後の世のバアル・ゼブブ)



これはまだバアルが「蝿の主」ではなく「気高き主」と呼ばれた時代の話。


舞台はカルタゴ。紀元前800年頃に建国された北アフリカのこの国は共和政ローマがイタリア半島を支配した頃にはその海軍力を持って地中海の覇者となりつつあった。

(当時のカルタゴの領土)

海賊顔負けの軍事力で地中海の各都市を手中に収め、また以前からの交易力で財を成しつつあった。

その力と対抗しつつあったのが当時はまだまだ弱小の新興国に過ぎなかったローマ。

ローマにとってみると正にカルタゴ領シチリア島は長靴の前の石。ローマ人が「マーレ・ノストゥルム」(我らの海)と呼ぶ地中海を本当に彼らのものにするためにはどう考えてもシチリア島を押さえているカルタゴが邪魔。当時は「カルタゴ人でなければ地中海で手も洗えない」と言われたほどだった。

広大の海の中にあるひとつの島シチリア。

大国カルタゴと新興国ローマの1世紀に渡る戦争はまずこの島の覇権争いから始まる。



これらの戦争は「ポエニ戦争」と呼ばれていますが、まず紀元前264年、後に「第一次ポエニ戦争」と呼ばれるものが勃発します。

シチリア島は地中海内では大き目の島とは言え、あくまで島であり、対岸同士のカルタゴとローマの戦いですから多くは海上戦になることが必至。そして海上戦であれば負け知らずのカルタゴ。誰もがカルタゴ有利の予想をしていました。

しかしここでローマの「勝てばよかろう主義」が功を奏します。

余談ですが未だにローマ人はサッカーでも「勝てばよかろう主義」。綺麗なサッカーをやるつもりなどまるでなく、なんとか1点取ったら後は守りきればよい、という戦法。僕は個人的に嫌いじゃありません。

海上戦では明らかに不利な自分たちが海上戦で勝つにはどうすればいいか。「そうだ、船を繋いで陸続きにしてしまえばいいではないか!」どこかで聞いたような戦法ですがその戦法を取ることにします。

彼らが考えた装置は「カラス装置」と呼ばれるもの。

まるでカラスが餌をついばむかのような装置を自船に装着し、カルタゴ船に近寄っては甲板にその装置をぶつけ船と船を繋いでしまう、というもの。

海に生き船と共に育ったカルタゴ人にとっては船とは自らの誇りであり、その船にそんな不恰好なものをくくりつけるローマ人の気が知れませんでした。

しかし相手は勝てばよかローマ人、この装置と持ち前の白兵戦の強さで並み居るカルタゴ海軍を撃破し続けます。

戦線ではローマの「カラス」の前に多くの船が沈没し、遠く離れた本国では戦争反対の一派が政権を握り、無敵を誇ったカルタゴ海軍はこのポエニ戦争で初めて敗北を知ることになります。

ローマ、カルタゴ間においてカルタゴに圧倒的不利な講和条約を結ぶことで第一次ポエニ戦争は終結を迎えます。

講和条約にはカルタゴはローマに対して多大な賠償金を支払う、という条約もありました。

ここで賠償金の代わりに支払われなくなったのが傭兵たちへの給与。カルタゴ軍のほとんどは職業的傭兵によって構成されており、彼らは国を守る、ということよりもその賃金のために命をかけていたのでした。

しかし、カルタゴ本国はローマに賠償金を支払わなければいけなくなってしまったため、傭兵への賃金を拒否します。当然、それに怒った傭兵たち、内乱を起こします。

カルタゴ本国はある将軍にその鎮圧を命じます。先の戦争では傭兵軍の隊長として傭兵を率いていた彼らが今度は部下たちを敵として戦わなければいけません。それもすべて祖国のため。

この両名の活躍によってなんとか傭兵内乱は鎮圧されるものの実は更に悪い出来事が待っていました。この乱に乗じたローマ軍がなんとコルシカ島とサルデーニャ島まで治めてしまったのです。


第一次ポエニ戦争前までは地中海はカルタゴ人のものでした。しかし今となっては地中海にある大きな3つの島がローマのものとなり、更には多大な賠償金を支払う必要があるのでカルタゴは軍備の再編成もままなりません。

傭兵内乱をおさめた将軍。傭兵内乱制圧によりその武名は高く北アフリカに轟きますが、しかし彼の心の中にはローマ戦での敗北と、部下であった傭兵たちを殺したわだかまりが闇のように広がっています。

彼は打倒ローマを誓い、対ローマに温厚戦略を取るカルタゴ本国から距離を置くべくヒスパニア(現スペイン)に向かいます。

彼はカルタゴの支配が手薄なここでカルタゴ・ノヴァ(新カルタゴ)という一種の独立国の建国を計画し軍備を整えローマへの復讐の準備を行います。

ある日、彼はまだ幼い自分の子供を伴って神殿へ向かいます。

そして神バアルに誓います。

「我が家族名バルカは雷光の意。我が身を雷光として必ずローマを倒す。そして我が子の名は『主、バアルが愛するもの』の意。たとえ我が身は滅びても我が子がバアルの力を借りて必ずローマを倒す。」

まだ幼きこの子の名は「バアルが愛するもの」、そして先祖から受け継いだ家族名バルカは「雷光」の意。



そう、彼の名はハンニバル・バルカ。



…to be continued...

ローマ人列伝まとめページ

2009-03-21 16:17:54 | ローマ人列伝
個人的な趣味で書いてる「ローマ人列伝」です。

【基礎知識】

ローマ史をもっと楽しむために

色々出てくるローマ史の基礎知識をまとめたものです。最初にざっと読んでいただけると中身が結構楽しめると思います。

超カンタンローマ史

ざーっと簡単に年表にしてみたものです。

ユリウス・クラウディウス朝家系図

カエサルからカリグラまでの家系図です。

ローマ人物年表

今まで列伝で出てきた人たちの生没年を並べてみました。

【列伝】

一応、生まれた年順に並び替えてみました。名前のうしろにあるのは生没年です。

・ハンニバル伝(前247年-前183年)

プロローグ           エピローグ

スッラ伝(前138-前78)

  

ポンペイウス伝(前106-前48)

    

ユリウス・カエサル(前100-前44)

ヴェルチンジェトリックス伝(前72-前46)

   

クレオパトラ伝(前70-前30)

   

アグリッパ伝(前63-前12)

  

アウグストゥス(前63-後14)

ティベリウス伝(前42-後37)

    

カリグラ伝(後12-後41)

  

アグリッピナ伝(後15-後59)

 

ネロ伝(後37-後68)

     

外伝:四皇帝の一年(後69)

  

【雑感】

当時はまっていた「ローマ人の物語」を読んでいて、更にはドッピオさんのブログの三国志話を読んでいて、「よしいっちょローマ人の話を書いてみるかな」と思って書き始めたのが2008年の1月でした。

最初に書いたのは僕が一番好きな「ローマ人の物語 パクス・ロマーナ」に出てきた忠臣アグリッパ。ローマ史については素人も同然ですが、列伝形式でこの人のことなら書けるかなー、と。

読み進めれば読み進めるほど魅力的な人物ばっかりでどんどん調子よく書いてるんですが、改めて自分で読み返してみて「おもしろいなー」と思ってます。

というのは決して僕の書いた文章が面白いんではなくて、ローマ史、そこに登場する人たちが全員面白いんですよね。

願わくば是非、「ローマ人の物語」を読んでみてほしいなぁと思います。長いけど大丈夫です、面白いから。

読み返してみて思うんですがアグリッパ編はひとつひとつが長いですね。このブログだと書いているときに文字数が出てくるんですが、アグリッパ編はだいたいひとつ5千文字くらい。あとの方になってくるとなんとなくペースも分かってきてたとえばスッラ編なんてひとつ1500文字くらいになってます。

昔の冒険活劇みたいなイメージで「そのとき起こったことは!…つづく」みたいな感じで続いてくのが理想です。

あとやっぱり改めて読んでも好きなのはティベリウス編。悲しき皇帝という感じがいいですよねー。

実はこの列伝の裏テーマは「ユリウス・カエサル編を書かずにカエサルを語る」というもので、ほぼすべての人物をカエサルと対比させて書いています。やっぱり古代ローマにおいてユリウス・カエサルという存在は大きいものだなと思っています。

はっきり言って素人が書いているものですから歴史的間違いは大いにあって100%信じられると困っちゃうんですが、それでも楽しんでいただければ。

ローマ人列伝:ポンペイウス伝 5

2008-06-05 00:35:58 | ローマ人列伝
一大決戦に負けたポンペイウス。ギリシャから更に南下します。

負けたとはいえ彼はローマ最高の武人。オリエント征伐という偉業を成し遂げたポンペイウスの名はいまだエジプトに響いています。

彼にとってエジプトは第二の故郷のようなもの。ローマを捨て、ギリシャで負けたとは言え、まだ広大なエジプトの地が残っていました。

日暮れに大型のガレー船でエジプトに入った彼を以前からの知り合いであったアキッラスとセプティミウスという人間が迎えます。

旧き友と温かい抱擁、と思った刹那、ポンペイウスの動きが止まります。

以前であればローマの武人を迎えたであろうエジプト、しかし今は時代の趨勢が変わっていました。

エジプトはこの時、プトレマイオス王崩御に伴う権力争いの真っ最中。王の息子派も王の娘(=クレオパトラ)派も欲していたものはローマとの戦いではなくローマからの庇護。そのために取り入るべきは武力のポンペイウスではなく権力のカエサルでした。エジプト人がカエサルに差し出せるものはカエサルの敵であるポンペイウスの首、そのためにポンペイウスは殺されました。

紀元前48年9月29日、奇しくもポンペイウス58回目の誕生日のことです。

武力によってローマ権力の最高まで上り詰めたポンペイウスは一人の刺客によってその生を終えました。

そして殺されたポンペイウスの首はポンペイウスの死から約10日後、エジプトへと到着したカエサルの元に届けられます。

盟友でありライバルとも言えるポンペイウスの死をカエサルがどうとらえたか、カエサルの自伝のひとつとも言える『内乱記』の中に、ポンペイウスの死についての記載が一行だけあります。

「アレクサンドリアで、ポンペイウスの死を知った」

自分の周りで起こったことを歴史家以上に記載しつつも、自分の感情は極力記載せず後の世の人の判断に任せたカエサルが残した一行をどうとらえるべきでしょうか?

シニカルな歴史家は「あえて一行しか書かないことで民衆派にも元老院派にも敵を作らなかった」と記すでしょう。

僕はカエサルにとってポンペイウスはかけがえのない友人であったと思っています。友の死を冷静に語るほどカエサルは強くなかった、と考えるのはセンチメンタルすぎるでしょうか?

とは言え、カエサルの本当の気持ちは2000年後の今となっては想像の中にしかありません。

これでカエサルのルビコン渡河を発端とするローマ内乱は終了します。共和制ローマに輝き咲いた武力の大輪、ポンペイウスの人生は終わります。

後に残されたのは蛇足の如き後日談です。

内乱を制し、ローマ最高権力者となったユリウス・カエサル。ポンペイウスを愛し、彼と組み、彼を利用し、そして彼を殺したカエサル。ファルサルスの戦いから4年後、彼は暗殺されます。皮肉にも暗殺された場所はポンペイウスの偉業を称え設立されたポンペイウス劇場。

劇場内のポンペイウスの銅像の足元に、カエサルは倒れたと言われています。



まるで、自らの復讐にポンペイウスが立ち会ったかのように。いや、ポンペイウスが唯一の友を黄泉にいざなうかのように。


<ポンペイウス伝 完>

ローマ人列伝:ポンペイウス伝 4

2008-06-04 00:28:21 | ローマ人列伝
(今回、画像がたっぷりなので携帯ではわかりづらいと思います)

さて、カエサルのルビコン渡河を発端とするローマ内乱の雌雄を決する大決戦、ファルサルスの戦いが始まります。

武勇を誇る「偉大なる」ポンペイウス軍とローマの昇竜カエサル軍のギリシャにおける総決戦。ここからは軍の動きと共に実況中継でお送りします。

【1:開戦前布陣】

まずは川を上に右にポンペイウス軍5万4千。さすがは武勇名高きポンペイウス。一度は丸腰でローマを後にしましたがギリシャ、エジプトを回り各属州を手なずけ多国籍軍とも言える軍備を備えました。布陣は右翼、中央、左翼に歩兵を三分割、そして左翼の左に機動力あふれる騎兵を配置しています。古のハンニバルとスキピオによる「ザマの会戦」を紐解くまでもなくこの時代は「騎兵を制するものが戦いを制する」時代でした。

※余談ですが「その時代における最も殺傷能力のある軍」は常に戦争においての鍵になっています。古代においては白兵⇒剣兵⇒槍兵。日本の戦国時代においては鉄砲兵、第二次世界大戦においては戦車、そして現代軍事学ではアパッチなどを代表するヘリ部隊です。

一方、左のカエサル。兵力はポンペイウス軍の半分にも満たない2万3千。しかしガリア戦争から引き続きカエサルに付き従っているだけあり意思統一は立派なもの。布陣はポンペイウスに応じるかのように両翼と中央、騎兵。特徴的なのは右翼を二陣に分割していること。これはなんでしょうね~。

【2】

兵力で増すポンペイウス軍は定石として受けの戦い。まずはカエサル軍が仕掛けます。カエサルは左翼、中央の兵それぞれ4分の3、そして右翼第一陣をポンペイウス軍に進攻させます。

平野戦において実は「突撃」という合戦の仕方は思ったよりも成果が薄い、と軍事学者は言います。

全速力で何千人もの兵士が突進してくれば見た目の威力はありますが、反面、距離を走ることによってせっかくの隊列が乱れます。

考えても見てください。100m先の止まっている敵に向かって全力疾走をして、そのまま狙いを定めて剣を刺すことが出来るでしょうか?

ポンペイウスは突進するカエサル軍の隊列の乱れをしっかりと見据えていました。彼の軍はしっかりと敵に向け槍を立て走ってきたとこを刺せばいいだけなのです。

土煙を上げ走りこんでくるカエサル軍、切り結ぶ第一合はポンペイウス軍のもの、と思ったそのとき、戦場に一瞬の静寂が響きます。

ポンペイウス軍は驚きました。なんと1秒前まで全力疾走していたカエサル軍がポンペイウス軍の槍の間合い一歩手前で一糸乱れず全員「立ち止まった」のです。

収まる土煙と怒号、再度固まるカエサル軍の隊列。

言うなれば規則正しく打たれていた音符の中の一拍の休止符。

すべてのものにはリズムがありリズムを制したものがマエストロです。

この瞬間にはカエサルは稀代のマエストロとなります。

拍をずらされたポンペイウス軍、自分のリズムを刻んだカエサル軍、そして戦いが始まります。

兵力では劣りますがさすがはカエサル幕下の屈強なローマ兵(すこしガリア兵も混じっています)、ポンペイウス軍と渡り合います

一方、攻め込まれたポンペイウスは兵士に「落ちついて受けろ」という指示を出しますが残念、多国籍軍の脆さか指示が浸透しません。攻めるものあり、守るものあり。兵力差ほどの有利には働きません。

【3】

思ったよりもローマ兵が減らない状況を見たポンペイウス。ならば一気にカエサル本陣を攻める作戦に出ます。北は川に阻まれているため南から。そのために騎兵を南に配したのです。機動力に優れる騎兵ならばカエサル騎兵を迂回してもじゅうぶんカエサルにたどり着けます。勝負とばかりにぐぃーんぐわーんと騎兵を進めます。

【4】

応戦するかと思われたカエサル軍騎兵、易々とポンペイウス騎兵の突破を許しますポンペイウス1二桂で王手秋味で王手。

【5】

もちろんこれは稀代の策士、カエサルの作戦通り。残しておいた右翼第二陣が先回りをしポンペイウス騎兵の前に立ちます。
子供の頃から馬に触れ馬の性格を知り尽くしていたカエサル、馬は足元に兎がいるだけで足を止めてしまう本質的には臆病な動物であることは知っていました。そこをつき馬の目の前に歩兵を出したのです。さらにカエサルが用意したこの右翼第二陣はカエサル軍の中でもベテラン兵の集まり、正にカエサルの秘密兵器でした。

【6】

右翼第二陣に足止めを食らい、回り込もうにもカエサル騎兵に背後をつかれポンペイウス騎兵は一気に全滅。唯一の逃げ道だった南方向に散り散りとなり敗走します。

【7】

カエサル騎兵と右翼第二陣はそのまま一塊となり目の前に空いたポンペイウスへの道を疾走。

【8】

それと呼応するかのように一応、ポンペイウス騎兵の突破にそなえていた左翼、中央の残り兵も前へ。

【9】

川に挟まれたポンペイウス軍右翼が殲滅され、カエサル左翼がポンペイウス本陣に進軍し始めたところで勝負有。

敗北を悟ったポンペイウス、エジプトへと敗走します。


(このカエサルの美しい用兵をアニメでどうぞ)

…to be continued...

ローマ人列伝:ポンペイウス伝 3

2008-06-03 00:11:14 | ローマ人列伝
「ここを渡れば人間世界の悲惨、渡らなければわが破滅。進もう!神々の待つところへ!我々を侮辱した敵の待つところへ!賽は投げられた!」
(うーん、この台詞は何度書いてもきもちーなー)

カエサルがこう叫び、ルビコンを渡ったという報せを受けたポンペイウスと元老院。さてどうしたか?

まず元老院議員、さすがのカエサルと言えども元老院最終勧告に逆らうとは思ってもおらず上を下への大騒ぎ。とにかく自分の財産を確保し一目散にローマ本国を後に逃げ出します。

そしてポンペイウス。事実上のローマ独裁官となった彼はまずカエサルに向けて親書を送ります。内容は「まぁまぁ落ち着いて」という感じ。

その親書を受け取ったカエサル「話す気があるなら会談に応じる」という親書をしたため部下に持たせます。しかし、その親書がローマに届く頃、既にポンペイウスはローマにいませんでした。カエサルの侵攻を恐れたポンペイウス軍の指揮官が結託し、「大将、とりあえずいったん引いて兵力を固めましょう」と進言したのです。

おそらく、カエサルのルビコン渡河の知らせを聞いたポンちゃんは「あ、そー。でもカエサルと俺なかよしだからさ~、なんとかなっぺ」という感じだったでしょう。

しかし部下から「やばいっすよ」と聞いた瞬間、「なにー!」。何度も言いますがポンちゃんには戦略なんてないんですってば。

通常、ローマ本国は属州に囲まれその属州に軍をおいていました。ローマ本国は内乱や反乱を避けるため軍を置かない決まりでした。つまりポンペイウスは丸腰。それに危機感を感じた手下にそそのかされ軍備を固めるために既にポンペイウスは親書の返事を待たずにカプア(ローマの南、ナポリの手前)に移動した後でした。

易々とローマ本国を取り返したカエサルに対するため、ポンペイウスに必要なものは兵力と地盤(=資金)。彼がそれを手に入れられるとすれば以前から制圧を繰り返してきたオリエント(東方)。彼はギリシャ、エジプト、アフリカ南部と言った属州を渡り地盤を確固たるものにします。ここにローマ本国およびガリアを地盤とするカエサル軍、それ以外の属州を地盤とするポンペイウス軍、というローマ世界すべてを巻き込んだ戦いが始まります。

こちらが当時のローマ地図。

ピンクがポンペイウスの地盤、緑がカエサルの地盤。イタリアの上、現在のフランスは当時ガリアと呼ばれほとんど森ですから広いだけで意味はあまりありません。さらに水色の地中海はローマ海軍を持つポンペイウスの庭のようなもの。ローマ本国を手放したとは言えこの時点ではポンちゃんやや有利。

決戦はまず、ポンちゃん制圧を目指すカエサルによる補給基地急襲作戦から始まります。ドゥラキウムの戦い、と呼ばれるこの戦いではさすがのポンちゃん、カエサル軍を一蹴。続いて戦いは大一番、ファルサルスの戦いで両軍が雌雄を決することとなります。


…to be continued...

ローマ人列伝:ポンペイウス伝 2

2008-06-02 00:09:34 | ローマ人列伝
武力を誇り当時ローマの最高権力者となったポンちゃん。彼に近づいてきた男とは当然のことながらその人間とはポンちゃんの6才下であるユリウス・カエサル。

スッラ存命の頃はすたこらさっさとエジプト逃避行、スッラの死後、ローマに帰国していた彼。そのときの彼には、ローマを動かすために足りないものが2つありました。それは武力と金。

カエサルには人をつかって戦争をする、といういわば将才は誰よりも優れていましたが自らが最前線に立ち適を倒すタイプではありません。更に金に関して言えばこの時点で(まともな政治活動をしているわけでもないのに)一国の国家予算にも匹敵する借金だけがありました。

一方、彼にありあまるほどあったものが政治ビジョンと民衆人気。

「出来ないことは出来る人に任せる。自分は得意なことをやる」が信条だったカエサルは足りない2つを人と組むことによって補おうと考えます。武力はもちろんポンペイウスによって、金は当時の大富豪クラッススから。

クラッススとポンペイウスは長年の政敵ではありましたが間を人たらしカエサルが取り持つことで手を結びます。ここに有名な三頭政治が成ることとなります。


マルクス・リキニウス・クラッスス。「ローマの富を半分持つ」と言われた大富豪。

カエサルによるポンペイウス操作は見事なものでした。カエサルはまず自らの娘、ユリアをポンペイウスの妻として差し出します。

※これもね~、僕ぁ理解できないんですがポンペイウスとユリアの結婚も、彼の妻ムキアとの仲が妻の不倫により離婚してたからなんですが、妻の不倫相手とはなんとカエサル。ポンちゃんも何考えてんだか。たぶん、何も考えてない。

更に当時行われた農地改革でもポンペイウスは重要なポストを果たします。が、これも結局はカエサルがやりたかったことをポンペイウスの名を借りてやっただけ。

カエサル側から見ればポンちゃんは名前だけ通ってて自分の言うこと聞いてくれるいいヤツ。ポンちゃんから見ればいろいろこまごましたことをやってくれて結局美味しいところを自分にくれる使えるヤツ。まぁいいコンビ。割を食ってるのは金だけねだられる大富豪クラッススですが、政治力も民衆人気も無い彼にとってはポンペイウス、カエサルと並び評されるだけでも価値はありました。

そんな彼らの蜜月が崩れるのはカエサルにとって最大の戦争であるガリア戦争の時。

広大なガリアの征服をもくろんだカエサルは一路北へと向かい、ローマを留守にします。その間、三頭政治の一頭であったクラッススは似合わぬ戦争に出向き敗死。ローマに残ったのはポンペイウスのみ。

自分たちの権力を奪われること、政治権力が一人に集中することを何よりも嫌う元老院はガリアの地で目覚しい戦果を上げるカエサルに眉をひそめだします。「カエサルは王になろうとしている」と考えた元老院は得意の政治力でポンペイウスを懐柔し、ポンペイウスの武力だけを頼りに「即刻武装解除の上、ローマ帰還」という元老院最終勧告をカエサルに命じます。

何度か書いたと思いますが当時のローマ帝国においてあくまで主権はローマ市民と元老院。この元老院最終勧告に逆らうものは国家の敵です。ローマの昇竜、カエサルに元老院が強気で出られる理由はもちろん、ローマを守る「偉大なる」ポンペイウスの威光があるからです。

もつれたカエサルとポンペイウスの運命の糸。ローマ本国と属州を隔てるルビコン河で決戦はスタートします。


…to be continued...

ローマ人列伝:ポンペイウス伝 1

2008-06-01 02:19:41 | ローマ人列伝
ローマ人列伝、今回は「偉大なる」ポンペイウス。


何度も繰り返しますがこのローマ人列伝は僕の個人的な趣味で書いているものですから歴史的間違いはご容赦ください。(ご指摘はありがたくいただきます)

今回はなぜか長くなります。5回シリーズの予定。途中で合戦絵図分析なんていう戦好きにはたまらない回もありますんでよろしくお付き合いください。

今回の主人公、ポンペイウス、生まれは紀元前106年ですからユリウス・カエサルの6歳上。

フルネームはグナエウス・ポンペイウス・ストラボ・マグヌス。相変わらず長いですね、ローマ人の名は。いつもなら飛ばしてください、と言いますがちょっと解説しときましょうか。

古代ローマの人の名は基本的に氏族名・家族名・個人名・仇名で成り立っています。家族名ってのはまぁ苗字みたいなもの、個人名はファーストネームですね。仇名はあったりなかったり。

面倒なのは氏族名ってやつですがなんですかね~、日本で言ったら屋号みたいなものでしょうか。ちなみに僕の家の屋号は源兵衛(げんべえ)です。僕も母の実家と僕は苗字が違うんですが(母が父と結婚して名前が変わった)それでも地元にいるとたまに「おー、源兵衛んとこの孫か」と言われたりします。そういうのが氏族。

このローマ人列伝をご愛読いただいている方は既にお気づきかも知れません。ポンペイウスの氏族名、グナエウス。はい、名門じゃありません。古代ローマで(カエサル以前)名門といえばコルネリウス、クラウディウス、あたり。グナエウスなんて誰も聞いたことありません。グラディウスとかグダグダっすと間違えそうです。僕だってこれを書こうと思って本名調べて知りました。

それからこれは僕の想像なんで信用しないで欲しいんですが家族名であるポンペイウス、どうもポンペイ(犬の絵があるところですね)から来てるような気がします。

ちなみに仇名であるマグヌスは「偉大な」という意味です。数々の戦功を遂げた彼に送られた名です。

歴史上でこの仇名がついていた人はかのアレクサンダー大王。



さて、決して名門ではなかったポンちゃんですが、お父さんは努力し当時の政治の最高役職である執政官を務めるほどになります。

ポンちゃん本人が活躍しだすのは17歳の頃、当時、同盟都市がローマ本国に反乱を起こしたことから発生した同盟市戦争からです。17歳という未だ春うららの飲み会も知らない小僧であったポンちゃん、軍才は秀でたものがあり活躍したそうです。その後は父を支える軍人となります。
そしてローマ政治の中央に足を踏み入れます。

当時のローマの状況としては民衆派であるガイウス・マリウス(スッラ伝で出てきましたがスッラのライバル)が台頭し始めたころ。そして彼により元老院派とみなされたポンちゃん父ちゃんは殺されます。

ここではっきりと言いますがポンちゃんのイメージは「人当たりのいい呂布」です。武力99政治25。呂布と違うのは人望はそれなりにあるところ。呂布との共通点は武力の強さ、そして政治ビジョンの無さ。今の世の中がどうなっていくのか、どうすべきなのか、ということは一切考えていません。
そんな彼が父をガイウス・マリウスに殺されたのです。
ここで彼が従うべき人間が決まりました。当然、ガイウス・マリウスのライバルであるスッラ。ガイウス・マリウスは民衆派、スッラは共和制派でしたがそんなの関係ありません、つーか知らねーよ。父を殺されたんだから従うべきはそのライバル、ウガウガ、という単純な理由でポンちゃんは私兵3万を従えスッラに従うことを誓います。

「民衆派ばんばん殺そーっと」と思っていたスッラにとって武勇名高いポンペイウスと私兵3万は渡りに舟。副将に取り立てます。民衆派討伐という名目を得たポンちゃん、ばっしばっしと武功を上げます。はい、董卓配下に居た頃の呂布をイメージしてくださいね。

彼の活躍のおかげでスッラ反対派である民衆派の実力者は全滅。共和制は確固たるものとなります。武功を遂げたポンちゃんは25歳で凱旋式を行う、という当時の最年少凱旋式記録を成し遂げます。ちなみにそれまでの最年少記録はザマの戦いでカルタゴの名称ハンニバルを破ったスキピオですから、どれだけ当時のポンちゃんが偉大だったかはお分かりいただけると思い増す。

そしてスッラの引退&死去。スライド式にローマの最高権力者の座に就きます。

ここからはまぁ彼の軍才を示すだけなので起こった戦争だけ書きます。

ヒスパニア遠征
海賊征伐
ミトリバス征伐
オリエント征服

というわけで彼の軍才によりローマ領土は拡大していきます。

これらの武功によりとうとう彼は当時の政治最高役職である執政官になります。

(彼の偉業を称え建設されたポンペイウス劇場にある彼の像)

さてここで、彼ははたと困ります。目の前の敵を倒すことにかけては誰よりも自信があります。しかし、ローマという国をどういう方向に持っていくべきか、そもそも彼はどうしたいのか、ということについては何一つアイディアがありません。更に困ったことにはそのことにポンちゃん自身が気づいていませんでした。「なんとかなるしょ」だけです。

ここに、その彼に気づき、彼を利用しようと思う人間が現れるのです。

…to be continued...