紀元前202年10月19日、スキピオ率いるローマ軍、ハンニバル率いるカルタゴ軍はザマで相対します。
このときの戦力は以下のとおり。
・カルタゴ:総兵数5万3千
歩兵:5万
騎兵:3千
加えて戦象80頭。
・ローマ:総兵数4万2千
歩兵:3万4千
騎兵:8千
もうお気づきでしょうか?この戦力の差。歩兵と総兵数ではカルタゴが上、しかし騎兵だけ見ればローマがカルタゴの倍。スキピオは16年前、初陣の時にハンニバルの戦いを見て以降、騎兵の重要性に気づいていました。そして既に、以前はカルタゴの同盟国であった馬産国ヌミディアを味方につけ騎兵団を編成していたのです。
両軍の布陣はこのような形になりました。
(以下、布陣図が多くなりますので画像の閲覧できる環境でどうぞ)
カルタゴは両翼に騎兵、中央の歩兵は最後部にアルプス越え以来ハンニバルに付き従ってきた古参兵部隊、その前に歩兵部隊、そして傭兵部隊。最前列には象兵80頭。この突進力を第一陣として利用し、ローマ歩兵を蹴散らす作戦です。
対するローマ軍は両翼に騎兵、歩兵は軽装歩兵の後ろに、重装歩兵を三列に配置。
トレビアの戦いの際に記載しました。
戦闘前に敵の戦闘力を如何に無力化するか、が「戦略」であり、戦闘開始後に自戦闘力を如何に最大化するか、が「戦術」である、と。
「学んで磨く人」、スキピオはトレビアの戦いでローマ歩兵の戦力を冷たい川を通らせることで無力化したハンニバルの戦略を学んでいました。そしてそれを自分の物とすべく、磨いていました。実はスキピオは戦闘開始前に既にハンニバル軍象兵の無力化に成功していたのです。
彼はアフリカに上陸して以来、自ら象を購入し徹底的にその生態を学んでいました。結果、象が急な方向転換に向いていないことを既に知っていました。
更にその象を自軍の兵士に触らせ、象が決して恐れるような化け物ではなく単なる動物であることを兵士に理解させました。これにより象が土煙を上げて向かってきても兵士は恐れず冷静に作戦を実行できるようになっていたのです。
戦いはカルタゴ軍の最前列に並ぶ象兵80頭の突進で幕を開けます。
ローマ軍最前列の軽装歩兵めがけ突進する80頭。軽装歩兵たちは象兵が眼前に迫った瞬間少しだけ脇にずれました。
スキピオは最前列の軽装歩兵と重装歩兵を一列ではなく互い違いに並べていました。これにより象兵が走り過ぎてしまうスペースを作ったのです。
走り過ぎる象兵、結果、ローマ重装歩兵に背後から襲われ壊滅します。
その次にはローマ軍軽装歩兵とカルタゴ傭兵の最前列同士の戦いとなります。ここでは数に勝るカルタゴやや有利。しかし対して両翼の騎兵同士の戦いではローマ軍が押しています。
ここで、ローマ軍は押し上がった騎兵の後ろのスペースに重装歩兵第二、第三列を展開させます。
カルタゴ軍騎兵を倒したローマ騎兵はカルタゴ軍の背後に回り、左右に展開していた重装歩兵がカルタゴの両脇を攻めます。
結果、布陣はまるでカンネーの戦いのような包囲戦に。カンネーとの違いは包囲されているのがカルタゴ軍である、ということ。
カルタゴは完全に包囲され敗北します。名将ハンニバルは自分の発明した戦術によって破れたのです。
この戦いの結果は下記のとおり。
・カルタゴ
総兵数:5万3千のうち、
死者2万、捕虜1万5千
・ローマ
総兵数:4万2千のうち、
死者千5百、負傷4千
実際の人命が関わる戦争というもので最も重要なものは実は「如何に多くの敵を殺すか」ということではありません。多くの敵を倒した、ということでは確かに一瞬、自軍の士気は上がるかも知れません。しかしそれ以上に周りの同僚が死んでいく中で正気を保ち続けることは難しいものです。名将であればあるほど「如何に自軍の戦死者を出さないようにするか」という戦いをすることになります。自軍兵士の被害さえ少なければ再戦のチャンスはいつでもあるのです。
ハンニバルがイタリア本土で戦いを繰り広げるとき、最も重要視したのはこれでした。ハンニバル軍は補給路を絶たれ、一人の兵士の命はハンニバルにとって貴重なものでした。一兵士ですらおいそれと補給できるものではなかったのです。
ハンニバルの「発明」した、騎兵を軸とした包囲戦術は、確かに多くの敵兵士を殲滅させるものでした。しかし、それと同時に「自軍兵士の損害を最小限に抑える」ことが出来る戦術だったのです。
アルプス越えの時も兵士と共に象を押したハンニバル。自軍兵士から「ハンニバルには自分たちがいなければ」と思われたハンニバル。16年間の長きに渡り故郷を離れ兵士と侵食を共にしたハンニバル。彼の戦術はすべて「兵士を守るため」のものだった、と考えるのはセンチメンタルに過ぎるでしょうか。
ハンニバルが初めて自軍兵士の多くの命を落としたザマの戦いの後、ハンニバルはカルタゴ政府内において講和条約肯定派として調印を進めます。既に彼にとって「一人でも自軍兵士を殺さない方法」はローマとの講和調印しかなかったのかも知れません。
ザマの戦いでの圧倒的勝利の後、スキピオを全権大使とするローマ軍はカルタゴに講和条約を提示します。その内容は多大な賠償金を含むものでしたが今までローマが受けた被害に比べれば決して不当なものではなかったと言います。
講和調印を進めるハンニバル、カルタゴ議会において反対派とのやり取りとの際、一度だけ、彼が激怒し、弁論する議員につかみかかったことがあったそうです。つかみかかった後で、冷静さを取り戻し彼はこういいました。
「私は9歳のときに母国を離れてから今日まで36年間、陣営と戦場の中での人生を送ってきた。だから戦場でどう振舞うべきかは知っている。だが、都市での生活は知らないできてしまった。
我々に出来ることは議論をもてあそぶことではない。受け入れることだけだ。スキピオの提案はわが国の現状を考えれば妥当とするしかない。」
幼き頃、父と共に打倒ローマを誓い、その人生すべてをかけてローマと戦ったハンニバルが何故強くローマとの講和を進めたのか、その心中はわかりません。自らが戦う中で気づいたローマの強さによるものか、自らの戦略術の正当な弟子であるスキピオの成長によるものか、あるいはローマとの戦いの中で失った多くの兵士たちへの哀悼か。
結果、カルタゴとローマは講和を結びここに別名ハンニバル戦争と言われる第二次ポエニ戦争は終結を遂げます。
この後、ハンニバルは腰砕けとなったカルタゴ貴族に代わりカルタゴ本国行政の長となります。ローマへの多額の賠償金の支払いを成し遂げ、彼は一流の軍人であるだけでなく、一流の政治家であることも証明します。
しかしその優秀さが逆にローマからのハンニバルへの恐怖を高めることとなり、ローマから追われる身となります。彼を失脚させたのはローマ元老院の中でも強力に反カルタゴを示していたカトー。ローマ元老院の追求により、彼はカルタゴ本国から亡命します。またその逃避行の途中で昔、戦争で負った目の傷が悪化し、右目を失明したと言われています。
彼はシリア(今のイラン)に逃亡しそこの王朝セレウスコス朝で軍事参謀に取り立てられますが政争に負け、その国ではこの名戦略家の策は一度も取り入れられることがありませんでした。
その後、クレタ島、黒海と逃避行を続けますが、ローマの追走は厳しく、最後は毒を飲み自殺。
一方、ハンニバル最大のライバル、スキピオはポエニ戦争以後、政治家として活躍するものの、彼の才能と実績を恐れる政敵により賄賂の疑惑をかけられローマを離れます。ザマの戦いの直前、ハンニバルに「あなたは平和の中で生きることが不得手なようだ」と言った彼こそ、何より平和の中で生きることが不得手な人だったのです。隠居となった彼が住んだ土地は奇しくもハンニバルの故郷、スペイン。この地でローマに知られることなく、孤独に死にます。アフリカ王という意味の「アフリカヌス」の称号で知られたローマの英雄が自らの死に際し、墓に刻ませた言葉は、
「恩知らずの我が祖国ローマよ、お前は我が骨を持つことはないだろう」
でした。
カルタゴの智将ハンニバル、そしてローマの名将スキピオ。2人が死んだのは奇しくも同じ紀元前183年のことでした。
後の世に、2人の好敵手の間にはファンタジーのような逸話が残されています。
ザマの戦いから数年後、亡命中のハンニバルはある地で偶然、使節としてやってきていたスキピオと会い言葉を交わしたそうです。
戦術家の2人のこと、当然、戦術の話へ。
スキピオは尋ねます。
「史上最も偉大な戦術家は誰か」
ハンニバルは苦も無く答えます。
「第一にマケドニアのアレクサンドロス大王、第二にエペイロスのピュロス、そして第三が私だ」
スキピオは質問を重ねます。
「もしザマであなたが私を破っていたら?」
ハンニバルは不敵な笑みで答えます。
「もちろんアレクサンドロス大王を越えて私が第一になっていた」
名将ハンニバル。その名は長年に渡りにローマで最も恐れられる名となります。しかし一度でもローマと戦った国においては「あのローマを」ぎりぎりまで追い詰めた、最高の英雄の名として残ります。
彼は多弁な人ではありませんでした。彼の戦略が多弁に彼の考えを語っているのに比べ、彼の言葉はほとんど残っていません。しかしカルタゴとローマの行く末を暗示するかのような彼の言葉が残っています。
「どんな強国であれ崩壊は外敵によるものではない。
まるで人の身体が徐々に疾患に冒されていくかのように、
常に崩壊は内部から始まるのである。」
<ハンニバル伝 完>
このときの戦力は以下のとおり。
・カルタゴ:総兵数5万3千
歩兵:5万
騎兵:3千
加えて戦象80頭。
・ローマ:総兵数4万2千
歩兵:3万4千
騎兵:8千
もうお気づきでしょうか?この戦力の差。歩兵と総兵数ではカルタゴが上、しかし騎兵だけ見ればローマがカルタゴの倍。スキピオは16年前、初陣の時にハンニバルの戦いを見て以降、騎兵の重要性に気づいていました。そして既に、以前はカルタゴの同盟国であった馬産国ヌミディアを味方につけ騎兵団を編成していたのです。
両軍の布陣はこのような形になりました。
(以下、布陣図が多くなりますので画像の閲覧できる環境でどうぞ)
カルタゴは両翼に騎兵、中央の歩兵は最後部にアルプス越え以来ハンニバルに付き従ってきた古参兵部隊、その前に歩兵部隊、そして傭兵部隊。最前列には象兵80頭。この突進力を第一陣として利用し、ローマ歩兵を蹴散らす作戦です。
対するローマ軍は両翼に騎兵、歩兵は軽装歩兵の後ろに、重装歩兵を三列に配置。
トレビアの戦いの際に記載しました。
戦闘前に敵の戦闘力を如何に無力化するか、が「戦略」であり、戦闘開始後に自戦闘力を如何に最大化するか、が「戦術」である、と。
「学んで磨く人」、スキピオはトレビアの戦いでローマ歩兵の戦力を冷たい川を通らせることで無力化したハンニバルの戦略を学んでいました。そしてそれを自分の物とすべく、磨いていました。実はスキピオは戦闘開始前に既にハンニバル軍象兵の無力化に成功していたのです。
彼はアフリカに上陸して以来、自ら象を購入し徹底的にその生態を学んでいました。結果、象が急な方向転換に向いていないことを既に知っていました。
更にその象を自軍の兵士に触らせ、象が決して恐れるような化け物ではなく単なる動物であることを兵士に理解させました。これにより象が土煙を上げて向かってきても兵士は恐れず冷静に作戦を実行できるようになっていたのです。
戦いはカルタゴ軍の最前列に並ぶ象兵80頭の突進で幕を開けます。
ローマ軍最前列の軽装歩兵めがけ突進する80頭。軽装歩兵たちは象兵が眼前に迫った瞬間少しだけ脇にずれました。
スキピオは最前列の軽装歩兵と重装歩兵を一列ではなく互い違いに並べていました。これにより象兵が走り過ぎてしまうスペースを作ったのです。
走り過ぎる象兵、結果、ローマ重装歩兵に背後から襲われ壊滅します。
その次にはローマ軍軽装歩兵とカルタゴ傭兵の最前列同士の戦いとなります。ここでは数に勝るカルタゴやや有利。しかし対して両翼の騎兵同士の戦いではローマ軍が押しています。
ここで、ローマ軍は押し上がった騎兵の後ろのスペースに重装歩兵第二、第三列を展開させます。
カルタゴ軍騎兵を倒したローマ騎兵はカルタゴ軍の背後に回り、左右に展開していた重装歩兵がカルタゴの両脇を攻めます。
結果、布陣はまるでカンネーの戦いのような包囲戦に。カンネーとの違いは包囲されているのがカルタゴ軍である、ということ。
カルタゴは完全に包囲され敗北します。名将ハンニバルは自分の発明した戦術によって破れたのです。
この戦いの結果は下記のとおり。
・カルタゴ
総兵数:5万3千のうち、
死者2万、捕虜1万5千
・ローマ
総兵数:4万2千のうち、
死者千5百、負傷4千
実際の人命が関わる戦争というもので最も重要なものは実は「如何に多くの敵を殺すか」ということではありません。多くの敵を倒した、ということでは確かに一瞬、自軍の士気は上がるかも知れません。しかしそれ以上に周りの同僚が死んでいく中で正気を保ち続けることは難しいものです。名将であればあるほど「如何に自軍の戦死者を出さないようにするか」という戦いをすることになります。自軍兵士の被害さえ少なければ再戦のチャンスはいつでもあるのです。
ハンニバルがイタリア本土で戦いを繰り広げるとき、最も重要視したのはこれでした。ハンニバル軍は補給路を絶たれ、一人の兵士の命はハンニバルにとって貴重なものでした。一兵士ですらおいそれと補給できるものではなかったのです。
ハンニバルの「発明」した、騎兵を軸とした包囲戦術は、確かに多くの敵兵士を殲滅させるものでした。しかし、それと同時に「自軍兵士の損害を最小限に抑える」ことが出来る戦術だったのです。
アルプス越えの時も兵士と共に象を押したハンニバル。自軍兵士から「ハンニバルには自分たちがいなければ」と思われたハンニバル。16年間の長きに渡り故郷を離れ兵士と侵食を共にしたハンニバル。彼の戦術はすべて「兵士を守るため」のものだった、と考えるのはセンチメンタルに過ぎるでしょうか。
ハンニバルが初めて自軍兵士の多くの命を落としたザマの戦いの後、ハンニバルはカルタゴ政府内において講和条約肯定派として調印を進めます。既に彼にとって「一人でも自軍兵士を殺さない方法」はローマとの講和調印しかなかったのかも知れません。
ザマの戦いでの圧倒的勝利の後、スキピオを全権大使とするローマ軍はカルタゴに講和条約を提示します。その内容は多大な賠償金を含むものでしたが今までローマが受けた被害に比べれば決して不当なものではなかったと言います。
講和調印を進めるハンニバル、カルタゴ議会において反対派とのやり取りとの際、一度だけ、彼が激怒し、弁論する議員につかみかかったことがあったそうです。つかみかかった後で、冷静さを取り戻し彼はこういいました。
「私は9歳のときに母国を離れてから今日まで36年間、陣営と戦場の中での人生を送ってきた。だから戦場でどう振舞うべきかは知っている。だが、都市での生活は知らないできてしまった。
我々に出来ることは議論をもてあそぶことではない。受け入れることだけだ。スキピオの提案はわが国の現状を考えれば妥当とするしかない。」
幼き頃、父と共に打倒ローマを誓い、その人生すべてをかけてローマと戦ったハンニバルが何故強くローマとの講和を進めたのか、その心中はわかりません。自らが戦う中で気づいたローマの強さによるものか、自らの戦略術の正当な弟子であるスキピオの成長によるものか、あるいはローマとの戦いの中で失った多くの兵士たちへの哀悼か。
結果、カルタゴとローマは講和を結びここに別名ハンニバル戦争と言われる第二次ポエニ戦争は終結を遂げます。
この後、ハンニバルは腰砕けとなったカルタゴ貴族に代わりカルタゴ本国行政の長となります。ローマへの多額の賠償金の支払いを成し遂げ、彼は一流の軍人であるだけでなく、一流の政治家であることも証明します。
しかしその優秀さが逆にローマからのハンニバルへの恐怖を高めることとなり、ローマから追われる身となります。彼を失脚させたのはローマ元老院の中でも強力に反カルタゴを示していたカトー。ローマ元老院の追求により、彼はカルタゴ本国から亡命します。またその逃避行の途中で昔、戦争で負った目の傷が悪化し、右目を失明したと言われています。
彼はシリア(今のイラン)に逃亡しそこの王朝セレウスコス朝で軍事参謀に取り立てられますが政争に負け、その国ではこの名戦略家の策は一度も取り入れられることがありませんでした。
その後、クレタ島、黒海と逃避行を続けますが、ローマの追走は厳しく、最後は毒を飲み自殺。
一方、ハンニバル最大のライバル、スキピオはポエニ戦争以後、政治家として活躍するものの、彼の才能と実績を恐れる政敵により賄賂の疑惑をかけられローマを離れます。ザマの戦いの直前、ハンニバルに「あなたは平和の中で生きることが不得手なようだ」と言った彼こそ、何より平和の中で生きることが不得手な人だったのです。隠居となった彼が住んだ土地は奇しくもハンニバルの故郷、スペイン。この地でローマに知られることなく、孤独に死にます。アフリカ王という意味の「アフリカヌス」の称号で知られたローマの英雄が自らの死に際し、墓に刻ませた言葉は、
「恩知らずの我が祖国ローマよ、お前は我が骨を持つことはないだろう」
でした。
カルタゴの智将ハンニバル、そしてローマの名将スキピオ。2人が死んだのは奇しくも同じ紀元前183年のことでした。
後の世に、2人の好敵手の間にはファンタジーのような逸話が残されています。
ザマの戦いから数年後、亡命中のハンニバルはある地で偶然、使節としてやってきていたスキピオと会い言葉を交わしたそうです。
戦術家の2人のこと、当然、戦術の話へ。
スキピオは尋ねます。
「史上最も偉大な戦術家は誰か」
ハンニバルは苦も無く答えます。
「第一にマケドニアのアレクサンドロス大王、第二にエペイロスのピュロス、そして第三が私だ」
スキピオは質問を重ねます。
「もしザマであなたが私を破っていたら?」
ハンニバルは不敵な笑みで答えます。
「もちろんアレクサンドロス大王を越えて私が第一になっていた」
名将ハンニバル。その名は長年に渡りにローマで最も恐れられる名となります。しかし一度でもローマと戦った国においては「あのローマを」ぎりぎりまで追い詰めた、最高の英雄の名として残ります。
彼は多弁な人ではありませんでした。彼の戦略が多弁に彼の考えを語っているのに比べ、彼の言葉はほとんど残っていません。しかしカルタゴとローマの行く末を暗示するかのような彼の言葉が残っています。
まるで人の身体が徐々に疾患に冒されていくかのように、
常に崩壊は内部から始まるのである。」
<ハンニバル伝 完>
地味にスキピオが印象深いでつ
ローマって対外的には完成された統治システムにみえるけど、内部的に見て問題ある罠
スキピオみたいに元老院に睨まれた執政官おおいもね。
ハンニバルもそんな事言ってるから、どの国もそんなもんかと思うけど、ローマはそれがシステム化されてるような。
はたして完成されたシステムだったのか、未熟だったのか。
ん~、黙ってても人物はどんどん出てくるからな、
国を維持するには出る杭は打つでよかったのかもに。
スキピオはスキピオで「もうちょっと巧くやったら?」って思うところも無くは無いです。
この時代はまだバリバリの共和制ですから完璧なシステムってわけじゃないですね。そのほころびがこの次の時代で出てきて内乱期になります。
同じ年に亡くなったってドラマだねぇ。
しかし16年も遠征つづけるのは脱帽ですね。
16年出張し続けるようなモンでしょ?
無理無理、俺自分のベッドで寝たいから帰るわ。
小スキピオはセットで出てこないのね。
もう少し後の時代ですか。
高校の時習った大スキピオと小スキピオの
名前だけ記憶に残ってた。
なんか昔の人って大とか小とか好きだよね?
大橋と小橋とか、大西と小西とか。
ジャンプ大キック→しゃがみ小パンチ→昇竜拳とか。
俺は別に自分のベッドで寝なくても平気だから出張平気ー。
小スキピオはこのあとのエピローグで出てくるよ。Coming soon。