浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

わっせ

2012-04-26 18:20:03 | 食べ物
ということで鹿児島へ。

鹿児島の町はメインとなるところが三つある。

ひとつは鹿児島中央駅。大きな駅ビルがあるし九州新幹線も停まる。

もうひとつが天文館というエリア。名前から「何か天文所でもあるのかな?」と思っていたけどそうではないようで単なる地名だそうです。

もう一つが鹿児島駅。こちらは僕は行っていないのでよくわからない。

イメージ的には鹿児島中央が東京駅で天文館が歌舞伎町。北海道で言えば鹿児島中央が札幌駅で天文館が大通&すすきの。鹿児島中央と天文館は歩いてだいたい30分。

今回は鹿児島中央にホテルを取った。

せっかく鹿児島に来たんだから何か美味しいもの食べたいな、と思って新幹線の車内で調べていたら鹿児島中央から10分ほど歩いたところによさげな店を見つけた。

21時に鹿児島中央に着き、店に一応電話を入れる。席は空いてそう。

で、カードが使えないとのこと。

財布の中には4,000円くらいしか入っていなかったし、金額気にして食べるのも嫌なのでお金をおろさなければいけない。

てくてく歩きながら途中、サンクスを見つけたんだけど道路の反対側。まぁ都会だしほかにもコンビニはあるだろうとスルーしていたらお店に着いてしまった。最寄りのATMを聞くとやっぱりサンクスが最寄とのこと。

荷物を置かせてもらい(もうね、出張だと荷物が重いのよ)またサンクスへ。

ここで衝撃的だったんだけど鹿児島のコンビニATMは21時以降使えません!

いやー、もう全国的に24時間おろせるもんだと思ってたけどねぇ。

仕方ないのでATMを探す。

しかし残念ながら誰に聞いてもATMの場所を知らない。

仕方ないのでもう一度店に戻り、荷物を引き取りあきらめる。

10分かけて鹿児島中央駅にまた戻る。駅ビルに入っているコンビニでもやはりATMは空いていない。

仕方ない、とホテルに向かおうとしたら駅の隣に鹿児島中央郵便局がある。

んで!

そこのATMは使えるがな!

あのさぁ。

確かに財布に現金ないまま来た僕が悪い。でもさ、お店の人も店の最寄りのコンビニが21時で終わること、鹿児島中央郵便局のATMなら使えることくらい知らないのかね。。。

がっかりしたけどまぁお金が下せた。

そう考えるとやっぱり美味しいものが食べたい、と思い、中央郵便局付近のお店を見てみるけど、やっぱり最初に見つけた店以上にグッとくるところはない。なので、もう一度10分歩いてその店に。

僕がもう一度そこに入るとカウンターに並んでいた数人が「良かったですねぇー」と声をかけてくれる。

沖縄でも思ったんだけど南国の人って細かいことがどうでもいい反面、基本的にはいい人なんだよね。

ATM探して歩いて疲れて鹿児島が少し嫌いになりかけたけど一気に機嫌が直る。

ということで魚を食べる。

九州と言えば甘い醤油。最初は驚いたけど慣れてくるとやっぱり九州の魚はそれで食べるのが旨い。

この店では辛い醤油(まぁ普通の醤油)と甘い醤油がある。

どちらも試してみたけどやっぱり甘いほうが旨い。


本日の刺身盛り合わせ1人前。これで700円くらいかな。


カツオのたたき。


ブリの串焼き。ご飯が欲しくなる。


厚揚げあぶり。なんかいい豆腐屋の厚揚げのようで甘みもあり外がかりっとして旨い。これだけは辛い醤油のほうが合う。

日本酒はカップそのまま出てくる。

聞くと「常に開けたてで」とのこと。うん、理にかなってるね。下の升には氷が入っていてひえひえで嬉しい。

焼酎も飲んだけど刺身には日本酒がいいやね。

このあたりでお客も減ってきて店員さんとだらだら喋りながら飲む。

店員さんは女性3人のみ。こういう店で男がいない、というのも珍しいね。

女性一人がオーナーだそうで、東京で修業しこちらに戻ってきたとのこと。地元は知覧というところだそうで「いいところですよー」とのこと。

隣にいた女性二人客は看護士だそうで偶然アントラーズファン。昔はよく鹿島に行ったとのことで鹿島話で盛り上がる。

奥にいたおじさんに茹でピーナツをご馳走になる。ほくほくしてて旨い。

鹿児島でしか食えないものという話をしていたら「腹皮」というのを教えてくれた。カツオの腹の部分だそう。それを炙って食べるそうで速攻いただく。


うん、これまた旨い。カツオのたたきを牛ロースに例えるならこれはまさにハラミ。歯ごたえもあり旨味もたっぷり。塩が合う。

「ひえくさかったら酢をつけてください」と言われて聞いてみたら「ひえくさい」というのは方言で「なまぐさい」ということだって。

で、僕の好きな地域方言話で盛り上がる

教わったのは「わっせ」。これは北海道弁でいうところの正に「なまら」。「わっせおいしい」という感じで使うみたい。

あと「ですですです」。ちょっと早口目に言って「そうです」の意味。面白いね。

たっぷり飲んで食べてリーズナブルなお値段。

上機嫌でホテルに帰ってチェックインしたらフロントで「電話です」と言われる。なんとその店に携帯電話を忘れてきた。泊まるホテルを言っていたので分かったみたい。取りに行きます、と言ったら「バイトの人がちょうど帰り道なので持っていきますよ」とのこと。

しばらく待っていたらさっきの店のバイトの子が自転車でやってきた。

いやー、鹿児島いい街だ。

ブロッケンマンと悪魔将軍

2012-04-25 16:32:29 | 日記
仕事柄日本のいろいろなところに行くけどそれでもあまり行っていないところはある。

都道府県でいうと手薄なのは四国・九州。

しっかりとそこに行った(つまり電車で通っただけじゃない)ということで言うと四国は徳島しか行ったことないし、九州は福岡と沖縄にしか行ったことが無い。

で、今回仕事で長崎と鹿児島に行きました。

まず東京から飛行機で長崎空港へ。そこからバスで諫早へ。

諫早湾で有名なとこですな。

長崎と言えばちゃんぽんだろう、と思ったけどお店が無いので駅前のラーメン屋に入る。

煮玉子ラーメン550円。豚骨とあごだしのブレンドスープらしい。どろっとしたスープなんだけどあっさり。

まず値段がえらい!ラーメンはこうじゃなきゃいけない。この店は基本のラーメンが500円。チャーシューメンでも650円。素晴らしい。

うまいよ。麺も細すぎない。プラス200円でからあげとおにぎりをつけれたのでつければよかったかも知れない。このラーメンはぜひもう一度食べたい。そう思えるラーメンってなかなかない。

気温は28度。暑いけどいいところだ。


ああ、そういえば以前僕が見かけて「かっこいいな」と思っていた電車は「特急かもめ」というものだったことが分かった。

これです。

いいね、しぶくて。

どこがカモメなのかぜんぜんわからないけどね。僕なら「特急ブロッケン」ってつけるけど。ブロッケンマンぽくない?

この特急つばめと南海ラピートが僕の中ではかっこいい電車の双璧。


南海ラピート。こっちは悪魔将軍ぽいと思っているんだけどどうですか。


諫早から特急かもめで出て新鳥栖へ。

そこで九州新幹線つばめに乗り換える。最近開業したばかりの九州新幹線のようだけど、最高に良いよ。何がいいって社内がいい。椅子も広めだしデザインもなんとなく和風で落ち着いていて。

熊本で新幹線さくらに乗り換える。こっちの車内はそーでもない。

九州の地理はよくわからないけどどうやら九州の左側を上から下に移動しているみたい。約3時間。

夜に鹿児島中央に着いた。

そこでいろいろ悶着があったんだけどそれはまた今度。

独り言問題

2012-04-23 18:48:15 | 日記
僕の知り合いで、人の性格の要因をなんでも「兄弟構成」で考える人がいる。

例えば「一番上っこはまとめ役」とか一般的な話はもちろん、「一番上っ子と一番下っ子のカップルが相性がいい」なんて相性診断まで。

僕自身も血液型や星座による性格診断よりも兄弟構成というのは人格形成に大きく寄与していると思うほうだけど。

僕が見る限り「ああ、一番上っ子の特徴だな」と思うのはたとえば居酒屋で飲んでて会計のとき。だいたい店員さんが会計の伝票を持ってくるでしょ。そのとき、なんとなく見ているとまずそれを受け取るのは一番上っ子が多い。(男女とか上下関係とか抜きにすると)

会計で多く払うとかおごるとか抜きにして、まず伝票を受け取って「えーっとじゃあ一人4,000円」とか言うのって一番上っ子が多い気がする。

前にテレビで見たんだけど兄弟構成を研究している人によると「一流スポーツ選手は上にお兄さんがいる人が多い」らしいですよ。いつのだか忘れたけどサッカー日本代表23人中8割くらいがお兄さんがいたらしい。推測にするに「常にお兄さんという自分より体が大きい人と練習する」から上手になるそう。

日本の男性ヒットソングメーカーは「お姉さんがいる弟」が多いそう。例えば桑田佳佑や小室哲哉。これまた推測するに、小さい頃からお姉さんが聞いていた少し年齢が上の曲を聴いている曲を聴いていたからではないか、とのこと。

僕自身でいうと、子供の頃からの同級生や、大学の同期で気が合って今でも付き合っている人には一番上っ子が多い。別にそれ以外の人と仲悪いわけじゃないけどさ。


で、そういう考えを持っている人と話していて新しい説として「一番上っ子は独り言をあまり言わないんじゃないか」というのが出てきた。

特に明確な裏付けがあるわけではなくて、ただ単にウチのオフィスで独り言を言いがちな人が一番上っ子以外(つまり兄・姉がいる人)が多い、というだけ。帰納法ってやつです。

それ聞いて僕も確かに「オフィスで独り言が多い人」と思い浮かべてみて「まぁそうかなぁ」と思った。

そして、それ以前に僕は「独り言って意味が分かんない」とも思う。

僕自身は独り言を言わない。僕がそう思っているだけでなくこの話をしているときも同僚から「showさんは独り言言わない人だよね」と言われたので周りの評価もそうなんだろう。

僕がなぜ独り言を言わないか、というとはっきり言って「独り言の意味が分からない」から。

なぜ、なんのために人は独り言を言うんだろう?

デスクの近くの人が独り言をいう人なのでふと考えたことがあるんだけど。

独り言、と簡単に言ってもいくつかのパターンがあるような気がする。

1、感嘆詞

これはあまり独り言含まないのかもしれないけど、たとえばパソコンに向かってメール開いてびっくりするメールがあるときに「え!?」とか「まじか!」とか。歩いててぶつかりそうになったとき「おっと」とか。

2、内的印象

例えば気合を入れるときに「よしっ」とかよくないことが起こりつつあるときに「いや~これはやばいなぁ。。。」とつぶやくとか。

3、独り言に見せて会話を求める。

これが一番めんどうくさいね。誰にいうでもなく「いや~これはちょっとないなぁ。。」とか言って「え、何かあったの?」と聞かれることを待ってる、という感じ。

1なんかは僕もたまに言うと思う、2もまったく言っていないとは言えないかもね。でも3は無いと思う。(と思うけどどうだろう?)

1、2はなんとなくわかる。でも3を言う人って本当にどういう気持ちで言っているんですかね。

決して責めてるわけじゃないんだよ、単に知りたいだけ。

会話したいなら「ねぇねぇ、ちょっといい?これってちょっとないと思うんだけどどう思う?」って聞いてくれれば「どれどれ?ああ、確かにねぇ」とか会話になるんだけど、独り言っぽくつぶやかれると反応すべきか無視するべきか、ってのがわからない。

こういう風に感じるこっちの問題なのかねぇ。。。

バナナの皮で滑ることにはどんな意味があるのか

2012-04-20 19:08:03 | 
「FOOD理論」という理論があります。これはお菓子研究家の福田里香という方が提唱している理論で、端的に言うと「映画や小説、漫画の中で『食べ物』がどのように描かれているか」という表現論、演出論の話です。

って書くとなんか難しい話のようですが、元々はウィークエンドシャッフルというラジオ番組でだらだら話されていたものなんで堅い話じゃないです。

基本となる論理は「FOOD三原則」というもの。

1、善人は食べ物を旨そうに食べる。
2、悪人は食べ物を粗末にする。
3、正体不明者は食べ物を食べない。


つまり逆に、

物語の中で、

1、旨そうに物を食べている人は善人(に見える)
2、食べ物を粗末にする人は悪人(に見える)
3、食べない人間は正体が見えない。

とも言える。

説明しますね。

例えばどんな映画でもいいけどこういうシーンを思い浮かべてください。

ある男の前に美味しそうな焼き魚が出てくる。男は美味しそうに食べる。そして食べ終わった後、焼き魚はきれいに骨と皮だけになっている。

こんな人観たら確実に「ああ、ちゃんと育ったいい人なんだろうな」と思ってしまうよね。

『悪人』という映画で妻夫木聡が冒頭は金髪であまり喋らないし表情もあまり変えない。だから最初は「悪い人なのかな?」と思うのね。でも家に帰ると祖母と二人暮らしで祖母の作った煮魚を丁寧に食べる。これで「あ、悪い人じゃないのかもしれない」と思わせる。

少年漫画の主人公なんかは山盛りのご飯をがつがつ食べたりしてて、これも「ああ、この人はいい人なんだ」と思わせている。ドラゴンボールの孫悟空なんてご飯を美味しそうにがつがつ食べるでしょ、ちょっとほっぺたにご飯粒つけたくらいにして。僕はONE PIECEを読んだことが無いんだけどあの主人公もそんな感じなんじゃないかな。


一方こういうのもある。

ある男性がレストランにいる。ウェイターが美味しそうに焼けた目玉焼きを男の目の前に置く。その男は何も言わず、突然、吸っていたタバコをギュッと目玉焼きに押し付ける。

さて、この時点で「わ、こいつ悪いヤツ!」と思ってしまうでしょ。この男が例えばそのまま女性に会っていくら甘い言葉をささやいてもぜんぜん信用できない。「どうせこの男はこの女性を騙すんじゃないか」と思ってしまう。

正にこのシーンがあったのがタランティーノの「イングロリアス・バスターズ」。ランダ大佐という悪役が紳士的な笑顔と優しい言葉遣いで話しながら、出てきたアップルパイにギュッとタバコを押し付ける。「うわ!絶対この人信用できない!」と思わせる。

法則3の「正体不明者は食べ物を食べない」という代表例はドラキュラ。彼は食べ物を食べない
(食べるシーンが無い)。だからこそ、クライマックスで人の血を吸うときにショックが増幅される。だってドラキュラがさ、血を吸う前に焼肉と大ライスをがつがつ食べてビールぐびぐび飲んでたらどうも間抜けでしょ。


このように食べ物をどう食べるか、ということで映画や漫画ではその人の人間性のイメージまで観客に与えてしまう。

例えばとある少年、ずっと何も食べていないようで腹をすかせている。なけなしの金でやっとのことでパンを手に入れ、さて、食べよう、と思ったときに傍らにおなかを空かせた子供を見かける。
彼は何も言わずそのパンをちぎり子供に与える。そして自分も食べる。

ほらこの時点で「ああ、この少年、自分より他者に与えられるいい少年なんだなぁ」と思うでしょう。

例えば僕らの大好物、「十三人の刺客」の稲垣吾郎の食事シーンとかね。観た人はわかると思うけどあのシーンで「ああ、この人はもうダメだ…」と思わせられたよね。

このFOOD理論を逆に使う演出法もある。

例えば冒頭では旨そうに飯を食っていた人が突然豹変することで「え、いい人だと思っていたのに…」と思わせたり。

よくあるのは例えば男二人で酒を飲み交わし、食べ物も同じものを食べていたのに突如片方が裏切ることで「仲間だと思っていたのに…」という衝撃を与えたりするもの。

裏切りが必ず出てくるマフィア映画ではだいたい仲間で食卓を囲み、食事を取りワインを飲み交わすシーンがある。「ファミリーの結束」を表しつつそれを裏切るのはよっぽどのことだ、と思わせる効果があるだろうね。もしかすると聖書における「最後の晩餐」もイメージしているのかも知れない。

あと思い出すのは「冷たい熱帯魚」の冒頭シーン。
ちょっとケバめの女性がスーパーで買い物をしている。買い物カゴにシュウマイだの餃子だの、冷凍食品をよく見もせず放り込んでいく。家に帰り、その冷凍食品とサトウのご飯(玄関開けたら2分で、のやつ)を電子レンジに雑に放り込む。電子レンジの中がきったない。そしてそれらが皿に移し変えられることも無く食卓に並べられる。旦那はそんな食事に何も言わず食べる。娘は携帯をいじりながら食べる。もうこの家族の食卓を見ただけで「あー、この家族もう崩壊してんな」ということがはっきり分かる。

このように、食べるシーンを巧く見せているのはいい作品。食べ物が美味しそうかどうか、ではなく、その必然性が巧く描かれている、という意味での巧さ。

そういう様々な食べ物を使った「ステレオタイプなフードシーン」を解説している本が出ました。



例えば「女子高生が遅刻しそうになって食パンをくわええながら走っていると曲がり角で男子とぶつかる」という本当に「少女マンガによくあるよね」、むしろ「そんなの少女マンガにしかねーよ」と思うシーン。

実はこれはいかに調べていっても一番最初に出たのがどのマンガか、ということが判明しない。

つまり、我々の頭の中にある「少女マンガ的シーン」ということになる。これがどこにあったかはわからないけどどこかにあったはずの「ステレオタイプ」なフードシーン。

そこで、ではなぜ食パンなのか?食パンは何を意味しているのか、をこの本では読み解いていく。

読んだ後には確実に映画やドラマのフードシーンが気になっちゃうよ。

すごい人のすごい本だ

2012-04-18 22:50:14 | 
読みたい読みたいと思っていたけどやっと読めました。



史上最強の柔道家と呼ばれた木村政彦に関する本。

テーマは正にタイトル通り「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」

「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」「鬼の柔道」と呼ばれた史上最強の柔道家、木村政彦。その彼がなぜ強くなり、無敗を誇り、そしてプロレスの舞台で力道山と戦って負けたのか。そしてその敗北を悔やみ本気で力道山を殺すほど憎み常に短刀を懐に忍ばせながら、力道山を殺さなかったのか。

時代は第二次世界大戦直前から戦中、戦後にかけて。日本が最も混乱し成長した時期。

時の不運、と一言で片づけられないほどの時代の波に木村政彦が呑み込まれていく。

史上最強でありながら、誰しもが認める好漢である木村政彦を本当にいろんな勢力が巻き込んでいく。

日本柔道の覇権を取りたい講道館柔道とその他の団体、エンターテイメントの覇権を取りたいプロレス、、、

僕はまったく知らなかったんだけど戦後日本に「プロ柔道」の団体があったとのこと。決してキワモノではなく、一般紙もしっかりと報道するような真っ当な団体。しかしそれは柔道の本流である講道館から敵対視されていく。よって柔道正史においては今もなお抹消されている。

そのプロ柔道団体を立ち上げたのか木村政彦の恩師、牛島辰熊。

彼らの師弟関係がこれまたすごい。そしてそこから派生する木村政彦の練習ぶりがすごい。

なんと日に9時間、柔道の練習をしている。ウォーミングアップや筋トレ、ジョギングなんかを含んでおらず、本当に柔道の練習を9時間やっている。そして「負ければ切腹」と考え、本当に切腹の練習までしていた。

正に鬼。

全日本選手権を圧倒的に制した木村がプロ柔道に参加したのは決して金や名誉のためではなく、師牛島のため。そして牛島がプロ柔道を立ち上げたのも金や名誉のためではなく柔道と日本のため。

それらが少しずつ歯車が狂いだす。

団体の崩壊、木村の妻の病気により必要となる金。

一方、戦後日本のヒーローとして登場した力道山。木村を誰しもが「強く、人の良い男だった」と評するのと対照的に、誰一人、力道山のことをよく言わない。

その二人の邂逅。なぜ二人は戦うことになったのか。そして無敗を誇った木村が負けたのか。

その二人に横糸のように絡んでくる戦後の男たち。そこには空手の鬼・大山倍達、合気道開祖・植芝盛平、達人・塩田剛三、グレイシー柔術のエリオ・グレイシーまでいる。

現在の格闘技に続く源流がほとんど網羅されているんじゃないかと思えるくらい。

すごい本だ。

もう読みながら「なんでみんな幸せになれないんだよ…」と思ってしまう。

ただ一つ、救いがあるとすれば、あとがきに記載されている、木村の妻、牛島の妻の言葉だけなのかもしれない。



すごい本書く人だなぁと思っていたらなんと「シャトゥーン」の作家なのね。

「シャトゥーン」も超一流の寝不足本(寝る間を惜しんで読んでしまう)です。僕は日本のパニック映画としてこれを映画化すれば世界に通用するはず、と思ってます。

合気道を始めました

2012-04-15 20:49:28 | 日記
タイトル通りなんですが。

30才を過ぎてから「年にひとつ初めていきたいな」と思っていろいろやってみています。

イタリア語、ジョギング、サックス、簿記、、、

それがモノになるかどうかは本当にどうでもよくて、ただ単に「初めてみる」というのは悪い感じじゃない。

で、なんとなく最近「武道」をやってみたいな、と思っていた。

何をやろうかな、と考えていた。

中学生の頃、部活で剣道をやっていたんだけどまた剣道を始めるのはちょっと面倒くさい。何せ道具がたくさんいるものだから。同じ理由で弓道もちょっとね。

柔道も考えたけど結局のところ「試合」が大事になる。おそらくこれから徐々に僕の体力というのは多かれ少なかれ下っていくものだろうから「相手に勝たないとダメ」というのはどうも気乗りがしない。

ということで合気道。

調べてみたら僕がよく行っている区のスポーツ施設(ジムが安く使えるので便利)で毎週土曜日教室があるらしい。ちょうどいい、ということで入ってみた。

まだ一回しか行っておらず挨拶とか受け身くらいを教えてもらっただけだけどいろいろ気づきが多い。

やっぱりすごいな、と思うのは「すべてに理由がある」ということ。

まず挨拶から習った。「正座して、腿においてる手を床に着け、頭を下げ、手を腿に戻す」ということだけなんだけど、ひとつひとつの動作に理由がある。

まず正座したとき、足の親指は重ねてはいけない。もし攻められたとき下になっている親指側の足を出すのが遅れてしまうから。

床に手を付ける順は「左手、右手」の順。戻すのは「右手、左手」の順。なぜか?一番大事な右手を守るため。右手を先に床につけてしまうといきなり床の右手を攻められたときに守るものがない。先に左手を出していれば左手で右手を守れる。先に右手を戻すのもそのため。

そして頭を下げるとき、頭は下げきらない。常に視線に向かいの相手の膝頭が入っている程度にする。これは相手が動いて攻めてきても対応できるように。

更に床に着けた両手の人差し指と親指で三角形をつくっておく。これはもし頭を下げたときに後ろから踏んづけられてもこの三角形を立てれば少なくとも鼻の急所は守れるから。

すごい理屈だなぁ。

本番を始めるまえの単なる挨拶でここまで理屈をつけて考えている、というのはなかなか他のスポーツには無いんじゃないかな。

一年にも満たない

2012-04-12 22:49:05 | 日記
「亡くなった人に対して生きている我々が出来ることは、その人のことをずっと覚えている、ということだけだ」 
 
人の死を聞いた時、僕はいつもこの言葉を思い出す。
 
村上春樹のエッセイに書いてあった。村上春樹自身の言葉なのか、それとも何かオリジナルがあるのかは分からない。 
 
誰かの死に触れた時にこの言葉は結構心の支えになる。
 
つまり、亡くなった人に対して自分が出来ることが一つだけでもある、と言う意味で。
 
今日、お通夜でした。
 
昔、一緒に働いていたご夫婦のお子さんが亡くなった。たぶん、一歳にもなっていない。
 
これは、辛い。
 
奥さんは僕より少し歳上で、旦那は僕より少し歳下。奥さんは本当に「気風がいい」 という感じで仕事でも姐さんみたいな人。旦那はいいかげん。でもまぁ逆に言えば人を許せる、ということかもしれない。
 
そんな夫婦が我々弔問人に対して真っ赤に目を腫らし、なんとか笑顔で、それでも時折ハンカチで顔を抑え嗚咽していた。
 
棺の中の小さな女の子はおしゃぶりをくわえ、知らなければ本当にお昼寝中とでも思ってしまいそうだ。 

この姿は辛い。

亡くなった人にひとつだけ、その人のことを覚えている、と言うことが出来るにしても、生きていたのが一年にも満たないのであればあまりにも支えが少な過ぎないか、と思う。

どんなものでも、どんな神でも(もしそんなものがいるなら)どうか今日の夫妻を少しでも癒して下さい。

ふがっとして文化

2012-04-11 00:50:19 | 食べ物
大阪でぶらぶらしてて(っても仕事だけど)ラーメン屋に入った。

しかしようラーメンくうなぁ。

午後4時という中途半端な状態な時間なので目当てというか「よく通っていつも行列出来てるとこ」はだいたい準備中。仕方ないので空いてる適当な店に入った。

どうやらチェーン店かFC店のようで店内もちゃんとしててメニューもちゃんとしている。仮に「ラーメン鶴王」という店にしておく。

客は僕一人、店員さんも若い女性が一人。

いろいろ悩んだ末にメインの「鶴王ラーメン」をお願いする。

でも「鶴王ラーメンで」ってお願いしてもなかなか伝わらない「はい?すいません」みたいな感じ。僕は「つるおうラーメン」と言っていたんだけど本当は「かくおうラーメン」だったらしい。紛らわしいな。ま、いんだけど。

それで店員さんがラーメンを作り始めるんだけどいちいち声を出すんだよね。

「麺入ります」とか「麺茹で上がりましたー」「はい、鶴王ラーメン一丁上がりましたー」とかね。

たぶん、店のマニュアルなんだろう。店員さんが何人かいるときはそのたびに「はい、かしこまりましたー」とか言っているんだろうね。

でもさぁ。

客僕一人なんでどうも店員さんがなんか言うたびに僕に言われているのかと思っちゃうよ。別に言わなくていいのにね。

出てきたラーメンはこんな感じ。

チャーシュー旨し。麺やわめ。

昔、僕は麺カタメが好きだったけど今はやわめくらいがちょうどいいや。昔は博多らーめんの麺極細、ややカタが好きだったんだけどね。

一口目にふがっとなる感じでもいい。

ちなみにこの店でちょっと「へー」と思ったのが各ラーメンに麺の細さが「番手」で書いてある。一番ノーマルな鶴王ラーメンは「20番手中細麺」、昔風鶴王ラーメンは「25番手極細麺」、油そばが「19番手ちぢれ麺」。へー。番手が増えるほど細くなるというのはなんなんだかね。

「同一の機能に多彩なバリエーション」というのが文化の尺度だそうです。つまり文化が進むほどバリエーションが増える。

よく言われるのは日本だと雨。空から水が降ってくる、という現象だけでも、豪雨、五月雨、春雨、驟雨、秋雨、にわか雨、五月雨、と言葉がたくさんある。(これで必ず出されるのが「イヌイットの文化では雪を表す言葉が多い」ということなんだけど詳しくは忘れた)

日本はやっぱり米文化なのでいろんなバリエーションがある。原材料としての米だけでも白米、玄米、餅米があるし、食用にすれば精米、炊いたらご飯、握ればお握り。

イタリアではパスタのバリエーションが多い。

なんでこんな話してるかというと日本のラーメン文化のバリエーションもすごいことになってるなぁと思って。

最初はたぶん醤油ラーメンくらいしかなかったはずだけど、塩、みそ、最近じゃトマトスープで食べるラーメンもある。

麺だってまず茹で方からすごいじゃないですか。コナオトシ、ハリガネ、バリカタ、カタ、ヤワ、バリヤワ。。。

それに麺の番手まで加えたら偉いことになるよね。

「ラーメン脂多め味濃いめ20番手バリカタタマゴノリニンニク増し増し。あ、ネギ抜き」とか言わなきゃいけなくなりそうだ。

たまに酔った時にラーメン屋行って「脂と味どうします?」とか言われたら「全部ふつう!」とぶっきらぼうに言いたくなる。

すいませんね、文化的じゃなくて。

ロールモデル

2012-04-09 23:29:22 | 日記
ふと思うところあって(最近思うところばかりなんですが)、「自分にとってのロールモデル」を考えてみました。

ロールモデルはつまり「行動の規範となるお手本」のことです。

僕も26歳を過ぎて「さーてどんな人間になろうかな」と考えずにはいられなくなった。

いや、考えなくてもいいんだけど、考えたほうがいいんだろうな、と思う。

ロールモデルは言葉で、例えば「仕事が出来る人」とか「やさしい人」とか定義することも出来る。知り合いなんかはシンプルに「侍!」とだけ言ってたりする。

いろいろ考えたんだけど、僕は「まず、自分の憧れる、あるいは尊敬や共感できる人を出してみよう」と思ってザッと出してみました。

改めてネットって便利ね。

ネットが無ければそういう人たちの画像を本や雑誌なんかで探さなければいけないけど、今なら画像検索で一発。しかも「あのときの、あの人」みたいな感じで見つかるし。

で、集めてたら楽しくなっちゃって1枚にまとめてみました。



この人たち一人一人についてちゃんと話そうと思えばそれぞれ2時間くらい話せるんだけど、簡単に一言ずつ。

明石家さんま⇒本気で尊敬してるのよ。いろいろポイントはあるけど一番は「楽しんでる」ってこと
かな。50過ぎてこの笑顔って最高じゃないですか。

MASTER・キートン⇒文系で強い、自分のロマンを追い求めてる、ってところがいい。

アウグストゥス⇒天才の後を継いだ凡才、というところだね。仕事ぶりが非常にいい。

ジョン・レノン⇒ラブ&ピース

シューベルト⇒シューベルトとベートーベンの逸話が好き。ごめん、音楽はよく分からない。

ブラック・ジャック⇒クールに見えて奥底はホット。あと人間愛にあふれている。もちろん仕事ぶりもいい。ブラック・ジャックとキリコについてはちゃんと書きたい。

ジョセフ・ジョースター⇒やっぱり第三部の。不敵なところがいい。あと本当は彼は波紋の呼吸をしていれば老けないんだけど、奥さんのためにそれをやめて同じく年齢を重ねていくことを選んだってのもいい。

桑田佳祐⇒ロマンと下世話な感じが同居してるところがいい。

カリート(アル・パチーノ)⇒一人の女性のために生きたところと友達だろうと許せねぇことは許さねぇ
、ってとこかな。

マイケル・ジャクソン⇒いろいろあったけど好きです。特にマン・イン・ザ・ミラー。

宮沢賢治⇒雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ。それと根底にある愛。

フィリッポ・インザーギ⇒自分の強みだけを磨いてどんなことがあろうとそこだけは見せるところ。逆に言うと自分の強みだけできっちり勝負しているところ。

菊千代(七人の侍の)⇒トリックスター感。詳しくは「七人の侍の組織論」で。

マルコム・X⇒戦う姿勢と、一度はよくない道に落ちたところから立ち直ったところ。

フレディ・マーキュリー⇒根底にある愛。

ティベリウス⇒環境に左右されず自分の仕事をきっちりやったこと。それと周りの目を気にしなかったところ。(気にしてる場合じゃない、ってのもあったかも知れないけど)

ロバート・デ・ニーロ⇒やっぱり「仕事に対する妥協なき姿勢」。

ボノ(U2)⇒この人も愛あふれる人だから。

アンタッチャブル(チームとして)⇒それぞれがそれぞれの強みを活かしたチームになってるのはステキ。

と、まぁこんな感じです。

村上春樹を忘れてたことに気づいた。どうしようかなぁ。もちろん敬意を払うに値する人だけど社会性がなぁ。嫌いなわけではないけど僕がなりたい姿ではないような気がする。もちろんもし会えたら最高に興奮するけど。

こういう感じで「いいな」と思っている人をただばらばらと並べただけだけど、どうもそれぞれ少しずつ共通点はあるような気がしてます。

この人たちのそれぞれの部分を足して、割らないような人になりたいな。

この画像をプリントアウトしてみて気づいたんだけど自分の中でのモチベーションアップがすごい。観ているだけで「よーし、やったるでー」と元気になってくる。

手帳に貼っとく。

浅草産業大学集中講義:第一講「欲求五段階説」

2012-04-03 23:09:07 | 日記
「なぜジョギングブームなのか?」という疑問から始まって思考が拡散し、イニシエーションまで至った。まぁ何を言っているか自分でもわからないけど。

一度そのあたりを自分なりにまとめてみたいんだけど、非常にいろいろな要素が絡まってくるので、ちょこちょこ書いときたいなと思ってます。

まず「欲求五段階説」について。

これはアブラハム・マズローという人が考えた説なんだけど、「人間の欲求には五段階ある」というものです。

その五段階を説明しときますね。

---
1.生理的欲求

食事・睡眠・排泄など生きていくための基本的な欲求。簡単に言ってしまうと「死にたくない」という欲求。

2.安全欲求

命の脅かされるような状態ではいたくない、できればきちんとした、雨風しのげる場所にいたい、という欲求。簡単に言えば「できるだけ長く生きたい」という欲求。

3.所属欲求

何かしらの社会的集団に所属したい、一人ではいたくない、愛されたいという欲求。

4.承認欲求

所属した組織の中できちんと認められたいという欲求。

5.自己実現欲求

今まで自分が出来なかったことをできるようになりたい、という欲求。
---

まぁ当たり前じゃないか、と思うけど理論ってのはそういうもんだから。

で、この欲求五段階説には大事なセオリーがある。それは「これが『段階』である」ということ。

つまり、明日をも知れない暮らしをしている人(安全欲求が満たされていない)は「よし、今までできなかったことにチャレンジしよう」とは思わない、ということ。

我々の例でいうと眠くて、お腹も減っている状態で「よし、人に認められるようないい仕事しよう」なんて思わない。そういう状態なら「上司に怒られてもいいから帰って寝たいよう」と思ってしまう。

これがポイント。

この理論はモチベーションとかを考えるときにもよく使われる。たとえば相手に「その人が今まで出来なかったような仕事にチャレンジしてほしい」と思ったら、まずその人の健康状態を満たし、しっかりと組織の中で認めてあげてからじゃないと無理よ、なんて感じで。


そして、更に面白いのが、この五段階説は「あくまで個人の話である」ということ。

つまり、社会の一員として見たときに、この五段階の更にもう一段上がある。

生理的欲求が満たされ、とりあえず安全にも生活出来、それなりの組織に所属し、その中で認められ、そして、その上で今まで自分が出来なかったことにチャレンジし達成した、という人がいたとします。そうするとその人の中に新たな欲求が生まれる。

それは「他者の自己実現を助けたい、という欲求」。

たとえば「自分もこういうことにチャレンジして達成できた、その体験をぜひほかの人にも味わってほしい」という欲求。

たとえば古今東西の成功した人物はよく学校を作り出す。大隈重信の早稲田大学もそうだし福沢諭吉の慶応大学もそう。最近でいえばソフトバンクの孫さんがソフトバンク・アカデミアなんてのをやっている。

逆にもっと単純化して言ってしまうと「明日をも知れない生活をしている人(=安全欲求が満たされていない人)に対して『人を教育しましょう』なんて言っても無理」ということ。


この「欲求五段階説」は単なる理論であって、批判もあるけど、それでもひとつの考え方として面白いよ。

時折、自分や人を見て「ああ、今、欲求のこの段階にいるんだな」とか思うし。