何度も繰り返しますがこのローマ人列伝は僕の個人的な趣味で書いているものですから歴史的間違いはご容赦ください。(ご指摘はありがたくいただきます)

今回は史上最高の戦術家ハンニバル。
かっこいいですねー。
そうそう、こちらのこの彫像の頭部を拡大すると右目の上に傷があることがわかると思います。

彼は隻眼だったんですね。さて、何故彼は目を失ったのか。
彼はローマ人では無いんですがタイトルが「ローマ人列伝」なのはもう続きものと思ってあきらめてください。クレオパトラ、ヴェルチンジェトリックスの時もそうでしたしねー。
更に言うと今回めちゃくちゃ長いです。加えて笑いどころほとんど無いです。歴史がお好きでない方はお暇なときに斜め読みでもしていただければ幸いです。
で、今まで書いてきた列伝の多くはユリウス・カエサルと同時代の人たちかカエサル以後の人たちでした。今回のハンニバルはカエサル以前。出来れば時代背景をご理解いただくために「プロローグ」を読んでいただけると嬉しいです。
1000年続いた古代ローマ史において「もっともローマを恐れさせた武将」にハンニバルの名を上げる人は少なくないでしょう。
更に、古代において有能な戦術家を5人挙げよ、と言われれば彼の名は必ず入るでしょう。興味深いのは同じ問いに彼のライバル、スキピオも挙げられるであろうこと。
彼は如何にローマに勝ち、そしてローマに負けたのか。
幼き日に父と共に「打倒ローマ」を誓った少年ハンニバルはスペインの広大な土地ですくすくと成長します。特に彼が好んだのは操馬術。
まだアブミが発明されていなかった当時、馬に乗るためには相当の訓練が必要でした。
アブミ(鐙)というのはつまり鞍にぶら下がってて足をかけられる器具です。

↑
これですね。
これが発明されていない、ということは馬を御するためには腕はもちろん、太ももでしっかりと馬の胴を固定しなければいけませんし、ましてや両手を離して弓矢を射る、なんてのは並大抵の訓練では出来ませんでした。
ちなみにこの鐙、中国で最も古い遺物は北魏時代のものとされていますから、それより100年前の三国時代には無かったとされています。そんな時代に自在に馬を駆った三国志の武将たちはやっぱりすごかったんですねー。あれ?そういや蒼天航路でばっちり鐙が書き込まれてたな、考証ミス??ま、いいや。
子供の頃から馬に親しんだハンニバルは青年になる頃にはじゅうぶんに馬を操れるようになっていたのです。
ハンニバル18歳の時、父ハミルカル・バルカは打倒ローマの夢をかなえることなく死亡、ハミルカルの後を継いだのはハシュドゥルバル。ハミルカルの娘婿でした。
ハシュドゥルバルは特に外交面において才能があったようで義父ハミルカルの遺志を継ぐかのようにカルタゴ・ノヴァの建国に力を注ぎます。そしてその外交手腕でもって本国カルタゴと交渉を成功させカルタゴ・ノヴァとしてのヒスパニア自治権を獲得します。
更には来るローマの脅威を押さえるためにローマ本国との間に「カルタゴ・ノヴァはエプト河の北には攻めない。対してローマはエプト河の南には攻めない」という不可侵条約を結びます。

ここで歴史がハシュドゥルバルの役目を終わらせるかのように彼は暗殺され、ヒスパニア自治権はバルカ家の直系であるハンニバルに移ることとなります。当時、ハンニバル26歳。
彼の心にあるのは亡き父から継いだ「打倒ローマ」の遺志。とはいえ当時の世情はあくまでカルタゴとローマは同盟国であり、厳しい協約の元にありおいそれとローマに戦争を仕掛けることは出来ません。
ましてやハンニバルはカルタゴ本国で力を持っているわけではなく、あくまで辺境の地であるヒスパニアの自治をカルタゴ本国の承認により任されているだけです。親ローマ派が多数を占めるカルタゴ本国から疎まれればいつ自治権すら取り上げられるか分からない状態なのです。
彼はまず、ローマの同盟都市「サグント」に目をつけます。
ハンニバルの前ヒスパニア自治者、ハシュドゥルバルは存命中、ローマ本国との間で「エプロ河の北には攻め入らない」という不可侵条約を結んでいました。しかしサグントはローマの同盟都市でありながらエプロ河の南側にあったのです。

つまりサグントはグレーゾーン。ハンニバルはここに目をつけたのです。
攻められたサグント市民は当然のことながらローマ本国に助けを求めます。
いつものローマであれば同盟都市が攻められていれば一も二もなくかけつけその都市を守るところです。
そもそもローマというのは同盟都市との信頼関係によって成り立っている国です。税収をローマに払う代わりに何かあればローマ本国の屈強な兵士団に守ってもらう、そういういわば「契約関係」によって本国と同盟都市は成り立っていました。
しかし、同盟都市を守るにしても、ローマにとって今は時期が悪すぎました。イタリア北部への防衛線やその他の公共設備のためあまりに兵が足りません。加えてサグントを攻めているのがカルタゴ本国であればまだ用心をしたかも知れませんがカルタゴとローマは既に同盟関係にあり、カルタゴももはやローマと本気で戦おうなどとは思っていないはず。ここでローマはとりあえずサグントに停戦の使節を送るだけの処置とします。
サグントについた使節は停戦を依頼しますがもちろんそんなものは飲む気のないハンニバル。ハンニバルの答えを聞いて使節はカルタゴ本国にも向かいますが本国も昔よりは裕福になっていたのでローマの要望をはい、そうですか、と聞くレベルではありません。「あそこはハンニバルに自治権を任せているので」と言ったきり使節を帰します。
小さいとは言え同盟都市を攻められ続けているローマ。このままでは他の同盟都市に動揺が広がりかねません。しかしローマにとっては時期が悪すぎる。
そんな状況から世論は「サグントを見捨てる」あるいは「サグントのためにカルタゴと再度戦争をする」の真っ二つに分かれました。
ローマの市民集会でそれが討論されているとき、「サグント落城」の知らせが届きます。
この知らせが決定打となり、ローマはカルタゴに対して再度、宣戦を布告します。
第一次ポエニ戦争から約20年。ここに、第二次ポエニ戦争がスタートします。
サグント落城はハンニバルが攻め始めてから8ヵ月後のことでした。ローマの同盟都市とは言えヒスパニアの辺境にあるこの小さな都市の城攻めに8ヵ月もかかったことについて「ハンニバルは広野での戦いを得意としており都市攻めは苦手だった」と評する歴史家がいますが、塩野七生はそれに異を唱えています。
サグントは弱小都市であり稀代の戦術家ハンニバルであればたやすく落とせたはずです。
しかし、ハンニバルの目的はサグント落城ではありませんでした。あくまで打倒ローマ。
その目標のために必要だったものはまずは「ローマ=カルタゴ間の不可侵条約撤廃」でした。不可侵条約が結ばれている間に彼がローマを攻めれ、親ローマ派が未だ多くいるカルタゴ本国すら彼の敵になりかねないのです。
ハンニバルはカルタゴの王ではなくあくまでカルタゴからヒスパニアの自治権を任されている身、カルタゴを敵にしてしまえば自治権すら取り上げられ、自身の地盤すら危うくなってしまいます。
では不可侵条約を撤廃するにはどうしたらいいか?
それはローマ自らが撤廃するようにさせればよいのです。
そのためにハンニバルはあえてサグント攻めを長引かせたのです。もしすぐにサグントを攻め落としてしまっていたら「同盟国のひとつくらい仕方がない」とローマも諦めがついたかも知れません。しかし、長引けば長引くほど、サグントが攻められていることは他のローマ同盟都市にも伝わり「本国ローマは同盟都市を見捨てるのか」という世論が広がります。
またカルタゴ本国でも「サグントをここまで放置しておくということはローマ本国は今は同盟都市を助ける余裕がないのでは?今こそローマと再度戦うべきなのでは」という世論の形成を助長することが出来ます。
ハンニバルは単に戦争がうまいだけの戦争屋ではありませんでした。人の心の動きを読める人でした。更にいえば人の心を動かすもの、「情報」というものの重要性をしっかりと認識していた人でした。
だからこそ、サグントという小さな都市を攻めるだけで大国ローマを動かすことが出来たのです。
ローマが宣戦布告したことでとうぜんのことながらローマ側から不可侵条約は撤廃。これでハンニバルはローマ本国を攻める大義名分を手に入れたことになります。
打倒ローマを幼き頃から誓った彼は常々、父ハミルカルにその戦略を聞かされていました。父が敗北した第一次ポエニ戦争はシチリアといういわばローマの外での戦いでした。当時から「ローマは兵站で勝つ」と言われるほどに有名だったローマ軍の補給能力、つまりはローマの外でいくら戦ってもローマ軍はすぐに補給軍を調達しいつまで経っても勝てないのです。
ローマを本当に倒すのであればローマ本国を叩くしかない。これがハンニバルが幼い頃から心に決めた打倒ローマの戦略でした。
スペイン半島の端で旗を上げたハンニバル。そこからどれだけ目を凝らしても同じ海の対岸にあるローマ本国の影は見えません。
ならばカルタゴ本国を通りイタリア半島の南、シチリア側から攻めるか? この作戦も既に第一次ポエニ戦争の時に失敗しています。
彼に残されたルートは史上誰も思いつかず、思いついても「そんなことは不可能だ」と一笑にふされるであろうルート。
ただ、ハンニバルだけにはそのルートが輝いて見えていました。
…to be continued...

今回は史上最高の戦術家ハンニバル。
かっこいいですねー。
そうそう、こちらのこの彫像の頭部を拡大すると右目の上に傷があることがわかると思います。

彼は隻眼だったんですね。さて、何故彼は目を失ったのか。
彼はローマ人では無いんですがタイトルが「ローマ人列伝」なのはもう続きものと思ってあきらめてください。クレオパトラ、ヴェルチンジェトリックスの時もそうでしたしねー。
更に言うと今回めちゃくちゃ長いです。加えて笑いどころほとんど無いです。歴史がお好きでない方はお暇なときに斜め読みでもしていただければ幸いです。
で、今まで書いてきた列伝の多くはユリウス・カエサルと同時代の人たちかカエサル以後の人たちでした。今回のハンニバルはカエサル以前。出来れば時代背景をご理解いただくために「プロローグ」を読んでいただけると嬉しいです。
1000年続いた古代ローマ史において「もっともローマを恐れさせた武将」にハンニバルの名を上げる人は少なくないでしょう。
更に、古代において有能な戦術家を5人挙げよ、と言われれば彼の名は必ず入るでしょう。興味深いのは同じ問いに彼のライバル、スキピオも挙げられるであろうこと。
彼は如何にローマに勝ち、そしてローマに負けたのか。
幼き日に父と共に「打倒ローマ」を誓った少年ハンニバルはスペインの広大な土地ですくすくと成長します。特に彼が好んだのは操馬術。
まだアブミが発明されていなかった当時、馬に乗るためには相当の訓練が必要でした。
アブミ(鐙)というのはつまり鞍にぶら下がってて足をかけられる器具です。

↑
これですね。
これが発明されていない、ということは馬を御するためには腕はもちろん、太ももでしっかりと馬の胴を固定しなければいけませんし、ましてや両手を離して弓矢を射る、なんてのは並大抵の訓練では出来ませんでした。
ちなみにこの鐙、中国で最も古い遺物は北魏時代のものとされていますから、それより100年前の三国時代には無かったとされています。そんな時代に自在に馬を駆った三国志の武将たちはやっぱりすごかったんですねー。あれ?そういや蒼天航路でばっちり鐙が書き込まれてたな、考証ミス??ま、いいや。
子供の頃から馬に親しんだハンニバルは青年になる頃にはじゅうぶんに馬を操れるようになっていたのです。
ハンニバル18歳の時、父ハミルカル・バルカは打倒ローマの夢をかなえることなく死亡、ハミルカルの後を継いだのはハシュドゥルバル。ハミルカルの娘婿でした。
ハシュドゥルバルは特に外交面において才能があったようで義父ハミルカルの遺志を継ぐかのようにカルタゴ・ノヴァの建国に力を注ぎます。そしてその外交手腕でもって本国カルタゴと交渉を成功させカルタゴ・ノヴァとしてのヒスパニア自治権を獲得します。
更には来るローマの脅威を押さえるためにローマ本国との間に「カルタゴ・ノヴァはエプト河の北には攻めない。対してローマはエプト河の南には攻めない」という不可侵条約を結びます。

ここで歴史がハシュドゥルバルの役目を終わらせるかのように彼は暗殺され、ヒスパニア自治権はバルカ家の直系であるハンニバルに移ることとなります。当時、ハンニバル26歳。
彼の心にあるのは亡き父から継いだ「打倒ローマ」の遺志。とはいえ当時の世情はあくまでカルタゴとローマは同盟国であり、厳しい協約の元にありおいそれとローマに戦争を仕掛けることは出来ません。
ましてやハンニバルはカルタゴ本国で力を持っているわけではなく、あくまで辺境の地であるヒスパニアの自治をカルタゴ本国の承認により任されているだけです。親ローマ派が多数を占めるカルタゴ本国から疎まれればいつ自治権すら取り上げられるか分からない状態なのです。
彼はまず、ローマの同盟都市「サグント」に目をつけます。
ハンニバルの前ヒスパニア自治者、ハシュドゥルバルは存命中、ローマ本国との間で「エプロ河の北には攻め入らない」という不可侵条約を結んでいました。しかしサグントはローマの同盟都市でありながらエプロ河の南側にあったのです。

つまりサグントはグレーゾーン。ハンニバルはここに目をつけたのです。
攻められたサグント市民は当然のことながらローマ本国に助けを求めます。
いつものローマであれば同盟都市が攻められていれば一も二もなくかけつけその都市を守るところです。
そもそもローマというのは同盟都市との信頼関係によって成り立っている国です。税収をローマに払う代わりに何かあればローマ本国の屈強な兵士団に守ってもらう、そういういわば「契約関係」によって本国と同盟都市は成り立っていました。
しかし、同盟都市を守るにしても、ローマにとって今は時期が悪すぎました。イタリア北部への防衛線やその他の公共設備のためあまりに兵が足りません。加えてサグントを攻めているのがカルタゴ本国であればまだ用心をしたかも知れませんがカルタゴとローマは既に同盟関係にあり、カルタゴももはやローマと本気で戦おうなどとは思っていないはず。ここでローマはとりあえずサグントに停戦の使節を送るだけの処置とします。
サグントについた使節は停戦を依頼しますがもちろんそんなものは飲む気のないハンニバル。ハンニバルの答えを聞いて使節はカルタゴ本国にも向かいますが本国も昔よりは裕福になっていたのでローマの要望をはい、そうですか、と聞くレベルではありません。「あそこはハンニバルに自治権を任せているので」と言ったきり使節を帰します。
小さいとは言え同盟都市を攻められ続けているローマ。このままでは他の同盟都市に動揺が広がりかねません。しかしローマにとっては時期が悪すぎる。
そんな状況から世論は「サグントを見捨てる」あるいは「サグントのためにカルタゴと再度戦争をする」の真っ二つに分かれました。
ローマの市民集会でそれが討論されているとき、「サグント落城」の知らせが届きます。
この知らせが決定打となり、ローマはカルタゴに対して再度、宣戦を布告します。
第一次ポエニ戦争から約20年。ここに、第二次ポエニ戦争がスタートします。
サグント落城はハンニバルが攻め始めてから8ヵ月後のことでした。ローマの同盟都市とは言えヒスパニアの辺境にあるこの小さな都市の城攻めに8ヵ月もかかったことについて「ハンニバルは広野での戦いを得意としており都市攻めは苦手だった」と評する歴史家がいますが、塩野七生はそれに異を唱えています。
サグントは弱小都市であり稀代の戦術家ハンニバルであればたやすく落とせたはずです。
しかし、ハンニバルの目的はサグント落城ではありませんでした。あくまで打倒ローマ。
その目標のために必要だったものはまずは「ローマ=カルタゴ間の不可侵条約撤廃」でした。不可侵条約が結ばれている間に彼がローマを攻めれ、親ローマ派が未だ多くいるカルタゴ本国すら彼の敵になりかねないのです。
ハンニバルはカルタゴの王ではなくあくまでカルタゴからヒスパニアの自治権を任されている身、カルタゴを敵にしてしまえば自治権すら取り上げられ、自身の地盤すら危うくなってしまいます。
では不可侵条約を撤廃するにはどうしたらいいか?
それはローマ自らが撤廃するようにさせればよいのです。
そのためにハンニバルはあえてサグント攻めを長引かせたのです。もしすぐにサグントを攻め落としてしまっていたら「同盟国のひとつくらい仕方がない」とローマも諦めがついたかも知れません。しかし、長引けば長引くほど、サグントが攻められていることは他のローマ同盟都市にも伝わり「本国ローマは同盟都市を見捨てるのか」という世論が広がります。
またカルタゴ本国でも「サグントをここまで放置しておくということはローマ本国は今は同盟都市を助ける余裕がないのでは?今こそローマと再度戦うべきなのでは」という世論の形成を助長することが出来ます。
ハンニバルは単に戦争がうまいだけの戦争屋ではありませんでした。人の心の動きを読める人でした。更にいえば人の心を動かすもの、「情報」というものの重要性をしっかりと認識していた人でした。
だからこそ、サグントという小さな都市を攻めるだけで大国ローマを動かすことが出来たのです。
ローマが宣戦布告したことでとうぜんのことながらローマ側から不可侵条約は撤廃。これでハンニバルはローマ本国を攻める大義名分を手に入れたことになります。
打倒ローマを幼き頃から誓った彼は常々、父ハミルカルにその戦略を聞かされていました。父が敗北した第一次ポエニ戦争はシチリアといういわばローマの外での戦いでした。当時から「ローマは兵站で勝つ」と言われるほどに有名だったローマ軍の補給能力、つまりはローマの外でいくら戦ってもローマ軍はすぐに補給軍を調達しいつまで経っても勝てないのです。
ローマを本当に倒すのであればローマ本国を叩くしかない。これがハンニバルが幼い頃から心に決めた打倒ローマの戦略でした。
スペイン半島の端で旗を上げたハンニバル。そこからどれだけ目を凝らしても同じ海の対岸にあるローマ本国の影は見えません。
ならばカルタゴ本国を通りイタリア半島の南、シチリア側から攻めるか? この作戦も既に第一次ポエニ戦争の時に失敗しています。
彼に残されたルートは史上誰も思いつかず、思いついても「そんなことは不可能だ」と一笑にふされるであろうルート。
ただ、ハンニバルだけにはそのルートが輝いて見えていました。
…to be continued...
早く続きをщ(゜д゜щ)