映画評論家・町山智浩氏のイベントがあって行ってきた。
今回のイベントは「國民の創生」という映画を同時解説付きで見る、というもの。
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最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』 から 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 まで
↑
この本の発売記念イベントでした。
「國民の創生」という映画は1915年公開、つまり今から100年前の映画。100年も経っているので「パブリック・ドメイン」という、つまり「著作権フリー」になっている。自由に上映していいし、なんなら勝手に編集してもいい、というもの。
なものだから、今回もスクリーンに上映して、途中で止めて解説入れたり、場合によってはちょっと早回ししたりしていた。
この「國民の創生」という映画は映画史上最大の「問題作」でもある。
まず、映画史において非常に大きな「発明」がされた映画なんです。(下記は僕の素人解説なので間違いがあったらごめんなさい)
そもそもこの時代は映画というものが発明されてまだ10年。この頃の映画ってのは4,5分のものだとかそのレベル。まだまだ「芸術」とはほど遠い。それを3時間半にして、しっかりとストーリーを描いた「長編映画」ってだけでも珍しかった。なんと予算は現代の価値に換算すると900億円という話もある。今のハリウッド超大作だって200億円!だとかで超大作なんだからこの製作費だけでもすごい。
今となっては当たり前のテクニック、例えば「クローズアップ」もこの映画の監督が発明した。例えば登場人物が手紙を受取り、ぱっと手紙がアップになり、手紙の内容が読める、とか。
例えば移動撮影。馬がバーっと走っていくシーンを、前から、車に載せたカメラで撮る、とか。
それからこれはとても大事なんだけど、「クロスカッティング」。例えば家の中で襲われそうになってる女性がいる、パッとカットが変わってそれを助けようとするヒーロー、カット変わって襲われそうな女性、カット変わって走るヒーロー、カット変わって女性が危ない!もうすぐ悪者の手が!カット変わってヒーローが女性の居る家を見つける、間に合うか?間に合うのか?なんてシーン。こういう手法を初めて使ったのもこの映画。
あと、パンフォーカス。これは難しいので簡単に言いますが、手前に人がいる、そのままカメラを横に動かすと遠くに(1キロくらい)に大軍団が行進している、など。今やったって1億円くらいかかる大掛かりな撮影。てか今ならCGでやっちゃうだろうけど。それを、当時はメガフォンも無線も無い。今なら無線で「よーいスタート」と言えば済むけど、この時代は手旗信号で指示を出していたらしい。
いや、これさ、今なら「あの映画でああいうシーンがあったからな、ちょっとあの映画のとおりにやってみよう」となるけど、この時代、そもそもそんなシーンが過去に無かったんだよ!それを考えて実際にやる、ってのはやっぱりすごいですよ。。
しかし、この映画が「問題作」なのはこの「技術」だけじゃない。最も問題なのはその「思想」。
この映画、どういうストーリーか。
簡単に言ってしまいましょう。
舞台はアメリカの南北戦争時代(1861年~1865年)。アメリカで史上唯一と言っていい、アメリカ人同士が戦い合った内戦。主人公はアメリカ北部に住むストーンマン家と南部に住むキャメロン家。ストーンマン家の主、オースティンは議員であり、奴隷解放推進派。一方のキャメロン家は南部で綿花牧場を営んでおり、黒人奴隷を使っている。家族ぐるみで仲が良かった2つの家族を南北戦争が引き裂く。キャメロン家とストーンマン家は南北戦争で望まずも同じ白人同士殺し合うことになる。
南北戦争が終わり、奴隷を使用出来なくなったキャメロン家は落ちぶれる、一方、ストーンマン家には奴隷解放の結果、議員となった混血の黒人サイラス・リンチが近づいてくる。サイラス・リンチは黒人の権利拡大を訴えたことにより、議員のうち3分の2が黒人となる。黒人たちは議会で黒人有利な法案を可決させ、白人たちは家から出ることも出来なくなる。これに業を煮やしたキャメロン家の長男ベンは自警団を結成する。黒人の家を焼き、殺し、選挙に行こうとする黒人を妨害する。その結果、黒人の権利が南北戦争前に戻る。見事、白人は復権。ベン・キャメロンはストーンマン家の娘、エルジー・ストーンマンとハネムーンに出かける。めでたしめでたし。
めでたくないよ!!!サイテーだ!
最後のシーンでこの映画の考える「天国」のイメージが映し出されるんだけど、中心に神がいて、そこで静かに穏やかに暮らす人々。当然ながらその人々は全員、白人。。サイテーだ!
つまり、この映画の根底に流れる思想は「黒人奴隷を開放しようとした結果、白人同士が殺し合う南北戦争が起き、黒人の権利が拡大した結果、世の中は悪くなった。南北戦争前に戻しましょう」ということなんです。
ひどい話だ。。
更にヒドイ話が、ここでベンが結成する自警団というのが「クー・クラックス・クラン(KKK)」、これは「白人至上主義団体」と言われ、有色人種をリンチしたり場合によっては殺したりした最悪の団体。つまりこの映画はKKKの誕生を肯定し、むしろ人々を救う正義の団体として描かれている。
もうね、観ながら「最低だ、、」と思いましたよ。
そして何より問題なのは、この映画が「映画の出来としてはかなり高い」ということ。
例えば黒人の脱走兵がキャメロン家の娘に惚れ、森で追いかけるシーンがある。こんなん、黒人をちょっとモンスター的に描いていて、最低ですよ、人間扱いしてないんだもの。でもね、映画としてはこのシーンだけ観れば「面白い」の、困ったことに。
追いかける脱走兵、逃げる少女、少女を救うために森を走る兄、少女が逃げる先は崖だ!危ない!追いかける脱走兵、兄は少女の帽子を見つける、振り返ると崖の上に少女、ここからでは間に合わない、脱走兵の手が少女に、、そして少女が、、助かるのか?間に合うのか?どうなるんだ!?
と、もうねタイムサスペンスの基本をきっちり押さえているんですよ。
一方で、3時間半の長い映画なのにところどころきちっとギャグも挟み込んでいる。この時代なのに照明を工夫したりしてきっちり女優さんを綺麗に見せたりもしてる。
いやぁ、まいったね。
最低の思想の映画でも、しっかり脚本練って、映画技術駆使してしっかり演出すれば面白い映画になってしまう、ってのはちょっと恐ろしいことだ。
とはいえ100年前の無声映画なので、ただ観ろと言われたらさすがにしんどかったろうと思う。そこは町山智浩氏がずっと解説し続けてくれたので飽きずに見ることが出来た。
(しかし、改めてこの方のトーク力ってのはすごいと思った。都合4時間、トイレ休憩も無くずっと話続けていた。僕の方が途中、トイレに抜けましたよ)
で、この映画の監督がD.W.グリフィス。映画創世記の巨匠。
今回の解説で色々思うところがあった。
まず、悲しい出自。彼自身はアメリカ南部に1875年(だから南北戦争終後10年後)に産まれた。家は貧乏で大変苦労したらしい。南北戦争前は彼の家は農場を経営しており、奴隷も使い裕福だった。しかし南北戦争後零落した。。。
と、言うのは彼の父の「嘘」だったらしい。
彼の父は単なる怠け者の大酒飲みで、自分の家が貧乏なのを南北戦争の性にしていただけ。しかしグリフィス自身は父を信じ、自分が貧乏なのは南北戦争、もっと言うと奴隷解放のせいだと思っていたらしい。これはちょっとグリフィスもかわいそうだよなあ。
また、グリフィス自身の中に「黒人差別意識」があったかというとそうとも言い切れない。彼自身はこう言っている「黒人は子どものようなものだ、守るべき存在だ」、、うーむ、差別意識が無い差別意識ってのもタチが悪い。。
で、更に言うと、グリフィスは映画の天才だから、「悪役をより悪役らしく、ヒーローをよりヒーローらしく」描いただけ、とも言える。女優もこの時代にしては非常に美しく撮られているしね。ただしもちろん「黒人=悪、白人=ヒーロー」と描いたことはやっぱり問題あると思うよ。
しかし、結果としてこの映画によって実質的にはその時代存在していなかったKKKが、この映画の姿(三角頭巾に白いマント)を真似してアメリカに登場した。彼らはこの映画のように、というか映画を参考にして、黒人をリンチし、選挙で投票する黒人を妨害した(場合によっては殺害した)。少なくともこの映画が無ければKKKに黒人が殺される、ということは無かった、あるいは、少なかったはず。
その点でこの映画はとても罪深い映画だと思う。
でも、それでも僕は、ちょっとグリフィスだけを断罪出来ない。だって、この映画が出来たのって映画自体が発明されて10年後よ。まだ映画ってものがまだまだ認知されておらず、それを観た観客がこれだけ映画に影響を受ける、なんてのが想像も出来ない時代。グリフィスはその時代に「なんとか面白いものを作ろう」と思っただけのような気がする。
もちろん、だからといってグリフィスを全て肯定するわけでは無いけども。
なかなかに、芸術、そしてその芸術が与える影響というのは難しいものです。
そして今回の解説ではこの映画から今のアメリカ大統領選までつながり、非常に興味深かった。
おそらく追って動画がアップされると思うのでぜひどうぞ。
今回のイベントは「國民の創生」という映画を同時解説付きで見る、というもの。
最も危険なアメリカ映画 『國民の創生』 から 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』 まで
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この本の発売記念イベントでした。
「國民の創生」という映画は1915年公開、つまり今から100年前の映画。100年も経っているので「パブリック・ドメイン」という、つまり「著作権フリー」になっている。自由に上映していいし、なんなら勝手に編集してもいい、というもの。
なものだから、今回もスクリーンに上映して、途中で止めて解説入れたり、場合によってはちょっと早回ししたりしていた。
この「國民の創生」という映画は映画史上最大の「問題作」でもある。
まず、映画史において非常に大きな「発明」がされた映画なんです。(下記は僕の素人解説なので間違いがあったらごめんなさい)
そもそもこの時代は映画というものが発明されてまだ10年。この頃の映画ってのは4,5分のものだとかそのレベル。まだまだ「芸術」とはほど遠い。それを3時間半にして、しっかりとストーリーを描いた「長編映画」ってだけでも珍しかった。なんと予算は現代の価値に換算すると900億円という話もある。今のハリウッド超大作だって200億円!だとかで超大作なんだからこの製作費だけでもすごい。
今となっては当たり前のテクニック、例えば「クローズアップ」もこの映画の監督が発明した。例えば登場人物が手紙を受取り、ぱっと手紙がアップになり、手紙の内容が読める、とか。
例えば移動撮影。馬がバーっと走っていくシーンを、前から、車に載せたカメラで撮る、とか。
それからこれはとても大事なんだけど、「クロスカッティング」。例えば家の中で襲われそうになってる女性がいる、パッとカットが変わってそれを助けようとするヒーロー、カット変わって襲われそうな女性、カット変わって走るヒーロー、カット変わって女性が危ない!もうすぐ悪者の手が!カット変わってヒーローが女性の居る家を見つける、間に合うか?間に合うのか?なんてシーン。こういう手法を初めて使ったのもこの映画。
あと、パンフォーカス。これは難しいので簡単に言いますが、手前に人がいる、そのままカメラを横に動かすと遠くに(1キロくらい)に大軍団が行進している、など。今やったって1億円くらいかかる大掛かりな撮影。てか今ならCGでやっちゃうだろうけど。それを、当時はメガフォンも無線も無い。今なら無線で「よーいスタート」と言えば済むけど、この時代は手旗信号で指示を出していたらしい。
いや、これさ、今なら「あの映画でああいうシーンがあったからな、ちょっとあの映画のとおりにやってみよう」となるけど、この時代、そもそもそんなシーンが過去に無かったんだよ!それを考えて実際にやる、ってのはやっぱりすごいですよ。。
しかし、この映画が「問題作」なのはこの「技術」だけじゃない。最も問題なのはその「思想」。
この映画、どういうストーリーか。
簡単に言ってしまいましょう。
舞台はアメリカの南北戦争時代(1861年~1865年)。アメリカで史上唯一と言っていい、アメリカ人同士が戦い合った内戦。主人公はアメリカ北部に住むストーンマン家と南部に住むキャメロン家。ストーンマン家の主、オースティンは議員であり、奴隷解放推進派。一方のキャメロン家は南部で綿花牧場を営んでおり、黒人奴隷を使っている。家族ぐるみで仲が良かった2つの家族を南北戦争が引き裂く。キャメロン家とストーンマン家は南北戦争で望まずも同じ白人同士殺し合うことになる。
南北戦争が終わり、奴隷を使用出来なくなったキャメロン家は落ちぶれる、一方、ストーンマン家には奴隷解放の結果、議員となった混血の黒人サイラス・リンチが近づいてくる。サイラス・リンチは黒人の権利拡大を訴えたことにより、議員のうち3分の2が黒人となる。黒人たちは議会で黒人有利な法案を可決させ、白人たちは家から出ることも出来なくなる。これに業を煮やしたキャメロン家の長男ベンは自警団を結成する。黒人の家を焼き、殺し、選挙に行こうとする黒人を妨害する。その結果、黒人の権利が南北戦争前に戻る。見事、白人は復権。ベン・キャメロンはストーンマン家の娘、エルジー・ストーンマンとハネムーンに出かける。めでたしめでたし。
めでたくないよ!!!サイテーだ!
最後のシーンでこの映画の考える「天国」のイメージが映し出されるんだけど、中心に神がいて、そこで静かに穏やかに暮らす人々。当然ながらその人々は全員、白人。。サイテーだ!
つまり、この映画の根底に流れる思想は「黒人奴隷を開放しようとした結果、白人同士が殺し合う南北戦争が起き、黒人の権利が拡大した結果、世の中は悪くなった。南北戦争前に戻しましょう」ということなんです。
ひどい話だ。。
更にヒドイ話が、ここでベンが結成する自警団というのが「クー・クラックス・クラン(KKK)」、これは「白人至上主義団体」と言われ、有色人種をリンチしたり場合によっては殺したりした最悪の団体。つまりこの映画はKKKの誕生を肯定し、むしろ人々を救う正義の団体として描かれている。
もうね、観ながら「最低だ、、」と思いましたよ。
そして何より問題なのは、この映画が「映画の出来としてはかなり高い」ということ。
例えば黒人の脱走兵がキャメロン家の娘に惚れ、森で追いかけるシーンがある。こんなん、黒人をちょっとモンスター的に描いていて、最低ですよ、人間扱いしてないんだもの。でもね、映画としてはこのシーンだけ観れば「面白い」の、困ったことに。
追いかける脱走兵、逃げる少女、少女を救うために森を走る兄、少女が逃げる先は崖だ!危ない!追いかける脱走兵、兄は少女の帽子を見つける、振り返ると崖の上に少女、ここからでは間に合わない、脱走兵の手が少女に、、そして少女が、、助かるのか?間に合うのか?どうなるんだ!?
と、もうねタイムサスペンスの基本をきっちり押さえているんですよ。
一方で、3時間半の長い映画なのにところどころきちっとギャグも挟み込んでいる。この時代なのに照明を工夫したりしてきっちり女優さんを綺麗に見せたりもしてる。
いやぁ、まいったね。
最低の思想の映画でも、しっかり脚本練って、映画技術駆使してしっかり演出すれば面白い映画になってしまう、ってのはちょっと恐ろしいことだ。
とはいえ100年前の無声映画なので、ただ観ろと言われたらさすがにしんどかったろうと思う。そこは町山智浩氏がずっと解説し続けてくれたので飽きずに見ることが出来た。
(しかし、改めてこの方のトーク力ってのはすごいと思った。都合4時間、トイレ休憩も無くずっと話続けていた。僕の方が途中、トイレに抜けましたよ)
で、この映画の監督がD.W.グリフィス。映画創世記の巨匠。
今回の解説で色々思うところがあった。
まず、悲しい出自。彼自身はアメリカ南部に1875年(だから南北戦争終後10年後)に産まれた。家は貧乏で大変苦労したらしい。南北戦争前は彼の家は農場を経営しており、奴隷も使い裕福だった。しかし南北戦争後零落した。。。
と、言うのは彼の父の「嘘」だったらしい。
彼の父は単なる怠け者の大酒飲みで、自分の家が貧乏なのを南北戦争の性にしていただけ。しかしグリフィス自身は父を信じ、自分が貧乏なのは南北戦争、もっと言うと奴隷解放のせいだと思っていたらしい。これはちょっとグリフィスもかわいそうだよなあ。
また、グリフィス自身の中に「黒人差別意識」があったかというとそうとも言い切れない。彼自身はこう言っている「黒人は子どものようなものだ、守るべき存在だ」、、うーむ、差別意識が無い差別意識ってのもタチが悪い。。
で、更に言うと、グリフィスは映画の天才だから、「悪役をより悪役らしく、ヒーローをよりヒーローらしく」描いただけ、とも言える。女優もこの時代にしては非常に美しく撮られているしね。ただしもちろん「黒人=悪、白人=ヒーロー」と描いたことはやっぱり問題あると思うよ。
しかし、結果としてこの映画によって実質的にはその時代存在していなかったKKKが、この映画の姿(三角頭巾に白いマント)を真似してアメリカに登場した。彼らはこの映画のように、というか映画を参考にして、黒人をリンチし、選挙で投票する黒人を妨害した(場合によっては殺害した)。少なくともこの映画が無ければKKKに黒人が殺される、ということは無かった、あるいは、少なかったはず。
その点でこの映画はとても罪深い映画だと思う。
でも、それでも僕は、ちょっとグリフィスだけを断罪出来ない。だって、この映画が出来たのって映画自体が発明されて10年後よ。まだ映画ってものがまだまだ認知されておらず、それを観た観客がこれだけ映画に影響を受ける、なんてのが想像も出来ない時代。グリフィスはその時代に「なんとか面白いものを作ろう」と思っただけのような気がする。
もちろん、だからといってグリフィスを全て肯定するわけでは無いけども。
なかなかに、芸術、そしてその芸術が与える影響というのは難しいものです。
そして今回の解説ではこの映画から今のアメリカ大統領選までつながり、非常に興味深かった。
おそらく追って動画がアップされると思うのでぜひどうぞ。