映画「寄生獣」見てきました。
ネタバレで感想書きましたので、よかったらどうぞ。
映画「寄生獣」を観ました。前編と完結編ね。
そもそも論なんだけど、最近の邦画で多いこの「前編後編2部作」って作り、どうなんだろう??もちろんビジネスとしてはよく分かる。一本分の労力で2本分売上が上がるわけだからね(簡単にいうと、ね)でもさぁ、映画って「始まって、終わる」ものでしょ?それをさ前編で「始めて」、後編で「終える」ってのはいろいろ大変よね。そもそも後編だけ見る人のために後編のあたまに前編のダイジェスト入れて置かなければいけないわけだし。どうしても後編が「終わらせる」ためだけのものになってしまう。1、2、3の三部作ってのとちょっと違うからねぇ。。4時間の一本の映画にしてチケット代倍にして途中に休憩入れるとかでも僕はいいよ。でもそれだと観る人減っちゃうからなぁ。
さて、映画「寄生獣」前編のネタバレの感想。
寄生獣の原作はもちろん僕は読んでいた。リアルタイムではなかったと思うけど、単行本でまとめて読んだ。
そういう漫画原作を映画化する場合、そりゃもちろんメリット(原作ファンが観てくれる、とか)もあるけどデメリットもいろいろある。原作を読んだ人なりのイメージがあって「この俳優はイメージ違う!」ってのが出てくるだろうし、全10巻くらいある長い話を2時間程度(今回の場合は前後編だから4時間)にまとめるってのも大変だろう。
何を足して、何を引くのか、どこを変えてどこを変えないのかってことがポイントになるんだろうけど、そこが前編は良かったと思う。
まず何が良かったって主演の染谷将太だよねぇ。もともと「この人、タダもんじゃないな」と思ってたけどこの映画で「おお!」と思った。「ヒミズ」も良かったし、「永遠の0」でも良かった。
やっぱり前編と言われると対島田戦のあの弓矢を引くシーンのアップを思い出す。あそこいいシーンだったなぁ。今でもあのシーン思い出すと全身が総毛立つ感じがする。いわば「十三人の刺客」の「みなごろし」のシーンみたいなね。
染谷将太のいいところってあの「目」なんだよね。何か闇があるような目。ぜひジョジョ映画化の時には吉良吉影をお願いしたい。(ちなみに吉良吉影は北村一輝がいいのでは、という意見もあるけど僕としては北村一輝にはDIOをオファーしたいと思ってる。高笑いとかが似合いそうだから)
ただ、この映画の染谷将太で一点だけ「うーん、ここはなぁ」と思う点がある。それは髪型。やっぱり寄生獣のシンイチは覚醒したあとは原作通りオールバックみたいな「キリッ」とした髪型にして欲しかった。ここはとても大事な点だと思う。つまり原作では真ん中分けの髪型からオールバックにしたことで「泉新一」が「シンイチ」になったということを象徴している。だから映画でもそこは踏襲して欲しかったなぁ。
ちょっと話がずれるけど、昨今の日本の映画・ドラマにおける「俳優の軟弱髪型」って僕は気になってる。なんか変なパーマかけたようなふわふわサラサラの髪型。もちろん、役としてそれが説得力あればまったく問題ない。例えば「桐島、」におけるパーマのあいつ(笑)とかね。あれはああいう役じゃん。でもさ、例えば今回の寄生獣で言えば國村隼演じる刑事さんの若い相棒いたでしょう?山中崇という俳優さんで、僕はこの俳優さんは好きですが。それがさぁーなんか軟弱な髪型しているわけですよ、刑事なのに。「てめぇちゃんと髪切れ!」って思った、後編では。(実は前編では気になってなかったんだけどね)
話戻して弓矢の話。とにかくこのアイディアは本当に良かった。これは原作「寄生獣」の大事なポイントである「バディ感」の象徴になっていると僕は思う。
「バディ感」ということについて説明しておくと、映画にはよく「バディ物」と呼ばれるひとつの「話の形」があります。バディというのは「相棒」のことで、すごく簡単に言ってしまうと「文化や考えの違う二人がぶつかったり協力したりもするけど、いろいろなことを経て大事な相棒になっていく」というストーリーです。映画で言うと「ミッドナイト・ラン」とか「リーサル・ウェポン」とか。いわば「シャーロック・ホームズ」だってワトソンとホームズのバディ物といえる。
シンイチとミギーという考えもそもそも生物としても違う二人が最初はまったく理解し合えないけど(映画ではシンイチが「価値観違いすぎるんですけどー」って言ってたね)、寄生生物との戦いなんかを経て相棒になっていく、という点が寄生獣の肝のひとつである。少なくとも僕はそう思う。その点が前編では非常にうまく描けていたと思う。それはポイントとなる戦いを振り返ってみればよく分かる。
まず最初の戦い、中華料理屋での最初の戦い。この時、シンイチは何もしていない、ミギーが戦っているだけ。その次、母親との戦い。これは逆にミギーは何もしていない(寝てる)、ミギーの細胞が入って体がパワーアップしたシンイチだけで戦っている。と、こう来て対島田戦。ここで原作ではミギーとシンイチが協力して石を投げる。それを映画では弓矢に変えた。これはねぇ、僕は驚きましたよ。「この手があったかー!!」とね。20年以上前の漫画にこんなに新しいアイディアがあったのか!とびっくりしましたよ。これは本当に素晴らしかった。
完全にシンイチとミギーが「バディ」になった瞬間です。つまりこの映画の作り手たちは原作「寄生獣」の重要な要素としてこの「バディ感」を感じ取り、それを最大限増幅させるためにこの「弓矢」というアイディアを思いついたんでしょう。憶測ですが。これが素晴らしい。
それから前編を思い出すときに良かったなと思うのはなんと言っても東出昌大。素晴らしかった。あの整った顔立ちがいかにも寄生生物っぽいんだよね。「やぁ」とか「いーち、にーい、」とかは何度でも真似したくなるね。
最後にちょろっと出てきた浅野忠信も素晴らしい。描かれ方としてさ、他の寄生生物は確かに人を食っているんだけど、それはあくまで栄養補給としてなんだよね。ただガブガブと食べてるだけ。でも浅野忠信演じる「後藤」はちゃんと料理してナイフとフォークで食べてるんだよね。「あ、この人、食べるのを愉しんでる、、」と絶望しましたね。
それからもちろん北村一輝も良かった。原作読んでいればわかるんだけど、この市長は寄生生物ではないんだよね。だから他の寄生生物と話している時もこの人だけ視線が動いている。(つまりしゃべっている人のほうを見ている)寄生生物同士は脳波でわかるので相手を見ない。これが非常にうまい。なかなか漫画では表現しきれないよね。話者が変わるたびにその人がそっちを見ているコマを入れちゃうと「あ、なんかあるな」って思ってしまう。映画だと気づく人には気づく、この人が人間だと分かった後に見れば「あ、この人、話者のほう見てる」と分かる。僕だってこの役の人が寄生生物では無いと分かっていなければ気づかなかったと思う。
あと「あ、ここをちゃんと描くのは偉い」と思うのは、やっぱりお母さんの天ぷら鍋のシーンね。これはとってもとっても大事。
あのね、ちょっと内田樹の唱える「忠臣蔵の大事なポイント」の話しますね。忠臣蔵ってのは日本人にとても愛されている物語で歌舞伎にもなってるし講談にも能にもなってる。もちろんテレビ、映画、小説にも。(落語には無いんだけど何故無いのかは立川談志がスカッと説明してるので割愛)
いろいろなバージョンがある分、それぞれ少しずつ違っている。松の廊下のシーンが無い場合もあるし、場合によっては討ち入りシーンが無い場合もある。他のバージョンには無いのに付け加えた、というものだってたくさんある。内田樹は「であれば、どのバージョンにも必ずあるものこそが忠臣蔵の本質である」と書いている。それが、これが無ければ忠臣蔵が成立しないという要素である、と。それを前提にすると実はどのバージョンの忠臣蔵でも絶対にカットされない場面がある、それは、、というのはこちらで読んでください。→「忠臣蔵のドラマツルギー」
さて、寄生獣に話を戻すと、僕は原作を読み、この映画版を観、そしてついでにアニメ版も途中まで観てみた。もちろんそれぞれすべていろいろ変化がある。例えばアニメ版では泉新一はメガネをかけているし、映画版で新一の父親が存在しない。でも、どのバージョンでも「子供の頃、新一を守るために母親は天ぷら油で火傷した」という話はある。つまりここは「寄生獣」という物語を成立させる大変大事な要素のひとつである、と言える。
とにかく、寄生獣前編は大変おもしろかった。おそらく前編を観て「後編どんなふうになるのかなー」と思っておくのが一番良い観方だと思います。
ネタバレで感想書きましたので、よかったらどうぞ。
映画「寄生獣」を観ました。前編と完結編ね。
そもそも論なんだけど、最近の邦画で多いこの「前編後編2部作」って作り、どうなんだろう??もちろんビジネスとしてはよく分かる。一本分の労力で2本分売上が上がるわけだからね(簡単にいうと、ね)でもさぁ、映画って「始まって、終わる」ものでしょ?それをさ前編で「始めて」、後編で「終える」ってのはいろいろ大変よね。そもそも後編だけ見る人のために後編のあたまに前編のダイジェスト入れて置かなければいけないわけだし。どうしても後編が「終わらせる」ためだけのものになってしまう。1、2、3の三部作ってのとちょっと違うからねぇ。。4時間の一本の映画にしてチケット代倍にして途中に休憩入れるとかでも僕はいいよ。でもそれだと観る人減っちゃうからなぁ。
さて、映画「寄生獣」前編のネタバレの感想。
寄生獣の原作はもちろん僕は読んでいた。リアルタイムではなかったと思うけど、単行本でまとめて読んだ。
そういう漫画原作を映画化する場合、そりゃもちろんメリット(原作ファンが観てくれる、とか)もあるけどデメリットもいろいろある。原作を読んだ人なりのイメージがあって「この俳優はイメージ違う!」ってのが出てくるだろうし、全10巻くらいある長い話を2時間程度(今回の場合は前後編だから4時間)にまとめるってのも大変だろう。
何を足して、何を引くのか、どこを変えてどこを変えないのかってことがポイントになるんだろうけど、そこが前編は良かったと思う。
まず何が良かったって主演の染谷将太だよねぇ。もともと「この人、タダもんじゃないな」と思ってたけどこの映画で「おお!」と思った。「ヒミズ」も良かったし、「永遠の0」でも良かった。
やっぱり前編と言われると対島田戦のあの弓矢を引くシーンのアップを思い出す。あそこいいシーンだったなぁ。今でもあのシーン思い出すと全身が総毛立つ感じがする。いわば「十三人の刺客」の「みなごろし」のシーンみたいなね。
染谷将太のいいところってあの「目」なんだよね。何か闇があるような目。ぜひジョジョ映画化の時には吉良吉影をお願いしたい。(ちなみに吉良吉影は北村一輝がいいのでは、という意見もあるけど僕としては北村一輝にはDIOをオファーしたいと思ってる。高笑いとかが似合いそうだから)
ただ、この映画の染谷将太で一点だけ「うーん、ここはなぁ」と思う点がある。それは髪型。やっぱり寄生獣のシンイチは覚醒したあとは原作通りオールバックみたいな「キリッ」とした髪型にして欲しかった。ここはとても大事な点だと思う。つまり原作では真ん中分けの髪型からオールバックにしたことで「泉新一」が「シンイチ」になったということを象徴している。だから映画でもそこは踏襲して欲しかったなぁ。
ちょっと話がずれるけど、昨今の日本の映画・ドラマにおける「俳優の軟弱髪型」って僕は気になってる。なんか変なパーマかけたようなふわふわサラサラの髪型。もちろん、役としてそれが説得力あればまったく問題ない。例えば「桐島、」におけるパーマのあいつ(笑)とかね。あれはああいう役じゃん。でもさ、例えば今回の寄生獣で言えば國村隼演じる刑事さんの若い相棒いたでしょう?山中崇という俳優さんで、僕はこの俳優さんは好きですが。それがさぁーなんか軟弱な髪型しているわけですよ、刑事なのに。「てめぇちゃんと髪切れ!」って思った、後編では。(実は前編では気になってなかったんだけどね)
話戻して弓矢の話。とにかくこのアイディアは本当に良かった。これは原作「寄生獣」の大事なポイントである「バディ感」の象徴になっていると僕は思う。
「バディ感」ということについて説明しておくと、映画にはよく「バディ物」と呼ばれるひとつの「話の形」があります。バディというのは「相棒」のことで、すごく簡単に言ってしまうと「文化や考えの違う二人がぶつかったり協力したりもするけど、いろいろなことを経て大事な相棒になっていく」というストーリーです。映画で言うと「ミッドナイト・ラン」とか「リーサル・ウェポン」とか。いわば「シャーロック・ホームズ」だってワトソンとホームズのバディ物といえる。
シンイチとミギーという考えもそもそも生物としても違う二人が最初はまったく理解し合えないけど(映画ではシンイチが「価値観違いすぎるんですけどー」って言ってたね)、寄生生物との戦いなんかを経て相棒になっていく、という点が寄生獣の肝のひとつである。少なくとも僕はそう思う。その点が前編では非常にうまく描けていたと思う。それはポイントとなる戦いを振り返ってみればよく分かる。
まず最初の戦い、中華料理屋での最初の戦い。この時、シンイチは何もしていない、ミギーが戦っているだけ。その次、母親との戦い。これは逆にミギーは何もしていない(寝てる)、ミギーの細胞が入って体がパワーアップしたシンイチだけで戦っている。と、こう来て対島田戦。ここで原作ではミギーとシンイチが協力して石を投げる。それを映画では弓矢に変えた。これはねぇ、僕は驚きましたよ。「この手があったかー!!」とね。20年以上前の漫画にこんなに新しいアイディアがあったのか!とびっくりしましたよ。これは本当に素晴らしかった。
完全にシンイチとミギーが「バディ」になった瞬間です。つまりこの映画の作り手たちは原作「寄生獣」の重要な要素としてこの「バディ感」を感じ取り、それを最大限増幅させるためにこの「弓矢」というアイディアを思いついたんでしょう。憶測ですが。これが素晴らしい。
それから前編を思い出すときに良かったなと思うのはなんと言っても東出昌大。素晴らしかった。あの整った顔立ちがいかにも寄生生物っぽいんだよね。「やぁ」とか「いーち、にーい、」とかは何度でも真似したくなるね。
最後にちょろっと出てきた浅野忠信も素晴らしい。描かれ方としてさ、他の寄生生物は確かに人を食っているんだけど、それはあくまで栄養補給としてなんだよね。ただガブガブと食べてるだけ。でも浅野忠信演じる「後藤」はちゃんと料理してナイフとフォークで食べてるんだよね。「あ、この人、食べるのを愉しんでる、、」と絶望しましたね。
それからもちろん北村一輝も良かった。原作読んでいればわかるんだけど、この市長は寄生生物ではないんだよね。だから他の寄生生物と話している時もこの人だけ視線が動いている。(つまりしゃべっている人のほうを見ている)寄生生物同士は脳波でわかるので相手を見ない。これが非常にうまい。なかなか漫画では表現しきれないよね。話者が変わるたびにその人がそっちを見ているコマを入れちゃうと「あ、なんかあるな」って思ってしまう。映画だと気づく人には気づく、この人が人間だと分かった後に見れば「あ、この人、話者のほう見てる」と分かる。僕だってこの役の人が寄生生物では無いと分かっていなければ気づかなかったと思う。
あと「あ、ここをちゃんと描くのは偉い」と思うのは、やっぱりお母さんの天ぷら鍋のシーンね。これはとってもとっても大事。
あのね、ちょっと内田樹の唱える「忠臣蔵の大事なポイント」の話しますね。忠臣蔵ってのは日本人にとても愛されている物語で歌舞伎にもなってるし講談にも能にもなってる。もちろんテレビ、映画、小説にも。(落語には無いんだけど何故無いのかは立川談志がスカッと説明してるので割愛)
いろいろなバージョンがある分、それぞれ少しずつ違っている。松の廊下のシーンが無い場合もあるし、場合によっては討ち入りシーンが無い場合もある。他のバージョンには無いのに付け加えた、というものだってたくさんある。内田樹は「であれば、どのバージョンにも必ずあるものこそが忠臣蔵の本質である」と書いている。それが、これが無ければ忠臣蔵が成立しないという要素である、と。それを前提にすると実はどのバージョンの忠臣蔵でも絶対にカットされない場面がある、それは、、というのはこちらで読んでください。→「忠臣蔵のドラマツルギー」
さて、寄生獣に話を戻すと、僕は原作を読み、この映画版を観、そしてついでにアニメ版も途中まで観てみた。もちろんそれぞれすべていろいろ変化がある。例えばアニメ版では泉新一はメガネをかけているし、映画版で新一の父親が存在しない。でも、どのバージョンでも「子供の頃、新一を守るために母親は天ぷら油で火傷した」という話はある。つまりここは「寄生獣」という物語を成立させる大変大事な要素のひとつである、と言える。
とにかく、寄生獣前編は大変おもしろかった。おそらく前編を観て「後編どんなふうになるのかなー」と思っておくのが一番良い観方だと思います。