浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

汁屋

2011-10-29 21:58:18 | 食べ物
こないだドッピオさんとかと山梨に行きました。

途中、小田原城に寄ったら三連休ということで広場でお祭りをやっていた。出店も出ていて特に全国各地のおでんが出てた。

僕らはそれぞれ別々のおでんを買ってちょこちょこ食べてた。

あんまりよく覚えてないんだけど、静岡おでん、小田原おでん、長崎おでん、あたりかなぁ。

いい年した我々がおでんを立ち食い(人が多くて座る席が埋まってた)しながら結局言ってたのは「汁うまいね」ってこと。

おでんってさ、僕好きだけどやっぱりメインは汁だよね。

そこから「汁だけの店あったら入るよね」って話になって2時間ほどその話してた。


汁だけの店、つまり汁屋はこんな感じの店。

まず入ると寸胴にざまざまな汁が入ってる。おでんの汁、牛すじ煮込みの汁、豚バラ角煮の汁、キムチ鍋の汁、アクアパッツァの汁。。。

それらを選び、飲み方を決める。

基本はストレート。ストレートだとそれらの汁をカップに入れてくれる。それをクイッとやる。あったまりそうでしょ。

タンブラーなんか持ち込んで持ち帰ることも可能。冬のスポーツ観戦なんかに重宝するんじゃないかと思う。

「割」も可能。豚バラ角煮の汁なんてストレートじゃちょっと濃いもんね。「何で割るか」というのも色々考えられるね。基本は「昆布だし」「鶏がらスープ」「とんこつスープ」あたりだろうけどここはバリエーション豊富にしたい。

角煮のスープをあっためた薄めのトマトスープで割ったりしたら面白そう。

加えて「中身」もおいてある。

うどんやそばやラーメンをそこでさっと湯がいてその汁に入れてくれる。もちろんご飯もあるのでご飯に汁ぶっかけることも可能。

トッピングももちろん豊富。海苔、刻みチャーシュー、シラス、ワンタン、味付玉子、など。

テーブルには様々な薬味。刻みネギ、揚げ玉、揚げたニンニクスライス、辛みそ、からし、柚子コショウ、などなど。

どうすか?

もうバリエーションは無限ですよ。

僕が食べたいなぁと思うのは、牛スジ煮込みの汁でうどん、トッピングは味付玉子、そこにネギたっぷり。

スタバ風に言うと「トール・牛すじうどん・コン・エッグ」って感じかね。

ということで今日の晩御飯は牛すじ煮込み。

汁を楽しむために昆布だしメインで味付けは塩のみ。

うまいよ!

煮込みながら旨すぎて味見が止まらなくなった。

王様、軍人、学者、職人

2011-10-28 00:23:14 | 日記
むかーし、何かで「人を王様、軍人、学者、職人の4タイプで分ける」という性格診断というかタイプ分類があった。

ふと、最近思い出してて「あれなんだったけかなー」と思って調べたら見つかった。

週刊誌のSPAで連載されていた岡田斗司夫の「人生の取り扱い説明書」というコラムだった。

サイト見てみたら97年に連載されてたとある。

僕が大学生の頃か。その頃ってSPA読んでたかなぁ。後で単行本で読んだのかな。ま、いいや。

改めて読んでみて面白かったんでちょっと書いておきます。

まず、すべての人が4つのタイプに分けられる。これはその人の求める「欲求」による分類。

王様タイプ>人に担がれる、目立ちたがり屋
軍人タイプ>リーダーシップを発揮する、勝ち負けがすべて判断基準
学者タイプ>知りたい、学びたい
職人タイプ>口より行動、技術に優れる

という4タイプ。

ちなみに言うと大人の場合これを「技術」でやってる場合もあるから注意が必要。本当は王様タイプなんだけど仕事で仕方なく軍人らしくリーダーシップを発揮している、ということだってある。

根本的には「その人が何をしているときに一番うれしいか」ということが大事。

そしてこのそれぞれは憧れと見下しでつながっている。

軍人は、すべての勝ち負けから自由で好きなように生きている学者に憧れ、
学者は、口ではなく技術で人から評価される職人に憧れ、
職人は、技術がなくても人から好かれる王様に憧れ、
王様は、目的のために一直線で生きている軍人に憧れ、ている。

逆に考えると互いが見下している。

軍人は、自分がいないと何も出来ない王様を見下し、
王様は、技術はあっても人から好かれない職人を見下し、
職人は、口ばっかりで技術のない学者を見下し、
学者は、命令に従うばかりで自分で考えない軍人を見下し、ている。

見下す、と言うと言葉がきついかも知れないけど場合によっては「可愛がってる」とも言える。「俺がいないとダメなんだよな、コイツは」と思ってる場合だってあるだろうしね。

それに加えて、対角線の関係は相容れない。

軍人⇔職人、は軍人は職人のことを「単にわがままなヤツ」と思うし、職人は軍人を「勝負にしかこだわらない美意識のないサラリーマン」と思う。
王様⇔学者、は王様は学者のことを「単に屁理屈をこねているヤツ」、学者は王様のことを「空気読まないで好きなことばっかりやってるヤツ」と思う。

ということでその関係を図にしたのがこれ。


説明長かったけど。

さてと。

我々はそれぞれどのタイプなんだろうねぇ。

グループとかをざっと見回して「あの人は王様タイプかなぁ」とか思うことはあるんだけど、結局、自分が何タイプかがよくわかんないだよね。

人に言われるのと自分で思ってるのと違うときもあるしね。

僕個人は「自分は王様、学者的なところはあるけど、軍人、職人ではないだろ」と思ってても結構「軍人じゃない?」って言われたりするから。

プリンがすごい、まじで。

2011-10-20 23:21:12 | 
ファミレス、という業態は70年代に生まれたはず、と思う。

団塊の世代(戦後すぐ生まれの人々)が結婚し家庭を持ち、外食する場所として、少しアメリカのにおいがするおしゃれな郊外の飲食店として。

いまとなってはだいたいそのファミレスも下火になり、昔のファミレスブームを牽引していた店舗は閉店しているか低価格化している。

ロイヤルホストは結構いま大変だろうし、すかいらーくはガストとなり更にカフェガストだのSガストだのに変わっている。

その中で成長しているファミレス、というとそりゃもちろんサイゼリヤだろうなぁ。

いまはどうか知らないけど僕が大学時代には札幌には無くて、東京に出てきてから「やけに色んなところで見るなぁ」と思うようになった。

僕、好きですよ、サイゼリヤ。

なんたって安いしそれなりに美味しいし。

ワインが安いのが何よりいいね。本当かどうか知らないけどいま日本の企業で一番多くイタリアンワインを輸入しているのはサイゼリヤらしいですね。

なんたってワイン500mlが400円しないくらいでしょ。安いよねぇ。

たまに日曜の夜なんかに仕事しながら食事したいな、と思うときはサイゼリヤに行って飲みながらパソコンで仕事してたりします。適当にテーブル広いし。

ワイン500ml、つまみに生ハム、食事にグラタン、くらいの感じで結構酔うし会計は1000円ちょっとくらい。コストパフォーマンスは文句のつけようがない。

あとサイドメニューというか「つまみ」になるメニューが豊富なのもいい。

一度「サイゼリヤ飲み」をやってみたくてこないだ友達と日曜の昼下がりに行ってみた。最高でしたよ。

ポップコーンシュリンプ、サラダ、エスカルゴなんかをつまみつつワイン、そしてピザとパスタ。昼間っから男二人で酔っ払って一人2000円行かないんだもん。

あとね、みなさんイタリアンプリン食べてます?これ最高よ。僕の人生の中でもこの値段でこの美味しさ、ってのはなかなかな無いレベルのプリンだと思っています。

ということで、サイゼリヤ創業者の人の本読んだ。



はっきり言って至極真っ当な、当たり前のことしか書いてない。

もちろんこれだけの店舗数があれば仕入れ価格も下げられるしチェーンのスケールメリットも色々あろうだろう。だけど、この人が言っているそれ以外のことは、非常に真っ当でたとえ一店舗の飲食店でも真似できることが書いてあると思う。

至極真っ当な、誰にでも出来ることを、誰にも出来ないほどの情熱でやる、ってことがすごいことだと思うんだよね。

プリンにしたって、ファミレスなんだから適当なプリンを出されてもまずくなければそんなに誰も文句言わない。でもここでこういうディティールの部分にしっかり手間隙かける、というのは本当にすごいよ。

男と女とメールと絵文字

2011-10-19 23:06:52 | 日記
続き。

男と女、と性別で分けたい訳でなくて、男性的な絵文字の使い方、と女性的な絵文字の使い方があるなぁと僕は思っています。

もちろん男性でも女性的な絵文字の使い方をしている人はいるし、その逆もいる。

じゃあ男性的な絵文字の使い方とはどういうことか。

ちょっと例文をご覧ください。

---
【例文1】
天気いいね
今日は朝からゴルフ
行ってきます
---

いかがでしょうか?僕はこういう絵文字の使い方は男性的な典型だと思っています。
つまり、この使い方というのは「書いた文章の補足説明」あるいは「文の等価」として絵文字があるもの。
天気→太陽マーク、ゴルフ→ゴルフは文と絵文字が同じ意味を示している。
行ってきます→車、もバスや電車じゃなくて車で行く、という補足説明になっている。

この例文を女性的な絵文字の使い方に翻訳してみると
---
【例文2】
天気いいね
今日は朝からゴルフ
行ってきます
---

簡単に言ってしまうと、この場合の使われ方というのは「その文における自分の感情」を示している。
「天気→キラキラ」はうれしいという自分の感情。
「ゴルフ→zzz」は朝早くて眠いということ。
そして「行ってきます→ウサギ」にはほぼ意味がない、ただ可愛いから。

「ほぼ意味がない、ただ可愛いから」という使い方は本当に女性的絵文字の使い方の特徴だと思う。

こういう絵文字の使い方をする人は僕の感覚では女性に多く、男性でこんな使い方をする人はほぼいない。

面白いのは、絵文字を使わず例文2に含まれている意味(含意、と言います)をすべて表現しようとすると文が多くなってしまう。多くなるだけでなく回りくどくなってしまう。
例えばこう。

---
【例文2-1】
天気いいね。いい天気だとうれしいよね。
今日は朝からゴルフ。朝早く起きたのでまだ眠いです。
行ってきます。
---

一方、例文1は絵文字の含意と文が等価だから絵文字がなくても文全体の意味が変わらない。

これは、面白い使われ方だと思うなぁ。

もし女性から例文2のような絵文字を受け取ったときには返信の仕方として色々考えなくてはいけないと思う。

例えばこの2つの文。

【例文3-a】今日は会社の飲み会です
【例文3-b】今日は会社の飲み会です

違いは矢印の向きだけなんだけど、明らかに含意が違う。

想定するとおそらく3-aは楽しい飲み会なんだろう。一方3-bは嫌な上司がいたりあるいは行きたくもない飲み会なのかも知れない。

ついでこの例文3を男性的に翻訳するとこうなる。

【例文4】今日は会社の飲み会です

「飲み会」という言葉と「ビール絵文字」が等価。

女性的絵文字の含意を汲み取って返信しないと大きなミスを犯す可能性がある。例えば3-bに対して「飲み会いいね!」なんて返信じゃダメだよね。

そんなミスね、僕とドッピオさんはいっぱい犯してきたよ[イ]



Q:文中[イ]に当てはまると思われる絵文字を下から選べ。

 2 3 4

絵文字の言語学

2011-10-18 22:03:36 | 日記
こないだドッピオさんとかと旅行に行ったときにバーミヤンで酒飲みながら盛り上がった話。

(しかしさ、わざわざ山梨まで行って晩飯がバーミヤンってのもすごいね。個人的には最近ファミレス飲みを探求してるから楽しかったんだけど)

僕は仕事で学校に行くことも多くて、例えば生徒たちが手書きで書いた感想なんかを見ることもたまにある。

その時に「ああ、すごく特徴的だなぁ」と思うのは手書きの文なのに絵文字が入っているんだよね。

例えばこんな感じ。

『今日の授業はすごく楽しかったです(^o^)/~』

もちろん僕だってネットやメールにおいては絵文字を使うけど、なかなかまだ手書きの文にまでは入れたりしない。

あ、本当は絵文字と顔文字って違う文字だけど面倒なのでここでは二つあわせて絵文字、と言っておきます。

絵文字を使うことが当たり前になってしまった今の生徒たちに取っては何か感情を表現したいときに絵文字が無いと難しいんだろう。

これは日本語学においてもとても興味深い現象だと思う。

振り返ってみれば昔、日本語において「言文一致」という一大ムーブメントが起こった。そもそも日本語と言うのは書き言葉と話し言葉があってそこに大きな乖離があった。
その乖離を三遊亭円朝というのが落語界においてまず無くし、それを見ていた二葉亭四迷という作家が小説にも取り込んだことで日本語において書き言葉と話し言葉が一致し、書き言葉はほぼ滅んだ。この話するとすごく長くなるので割愛。

そのムーブメントと同じくらいのムーブメントが今、日本語に起こっているんじゃないかと個人的には思っている。

たぶん100年後くらいの日本語学者は「2010年頃、日本語において書き言葉とメール文を一致させた動きが起こった」なんて言っているんじゃないかと思うんだよね。

既にその動きは「中高生の手書き文」という局地ではあるものの確実に起こっている。

彼ら彼女ら、手書き文にも絵文字を入れる世代が育てば、その中から小説を書く人も出てくるだろう。そのうちの何人かは文の中に絵文字を入れるはずだと思う。

たぶん彼ら彼女らは絵文字で気持ちを表現することが当たり前になってしまっているので、絵文字がなければ「どうも言葉が足りない」とすら思うんじゃないかと思う。

それが一般的になれば、国語のテストで

---
Q:この文に合う絵文字を以下の4つから選べ。
1(~o~) 2(ToT) 3(^-^)4(^m^)
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なんて問題が出てきてもおかしくない。

これ、僕けっこう本気で言ってます。

だって言文一致前の日本人は数十年後に話し言葉だけで書かれた小説が教科書に載るなんて想像していなかったはずなんです。ということは今の数十年後に、こんな問題が国語のテストに出るということだってありえない話じゃない。

絵文字と書き言葉の融合というムーブメントってそれを僕らが好んでいるかどうかなんてぜんぜん関係なく、今既に起こりつつあるムーブメントであると思っています。

この話、続きます。

次回は「男と女とメールと絵文字」

企画力とは

2011-10-17 11:51:31 | 
秋本康って人を「大好き」という人ってそんなにいないと思う。

いたらごめんなさい。

どうもイメージとしては抜け目ない、あざとい仕掛け人、という感じだもんね。

特に僕らくらいの年代だとこの人にめぐりめぐってお金を払ってきている人って多いと思うよ。

僕だって個人的にこの人のこと大好き、と思っているわけじゃないけど、一人の仕事人としては絶対に無視できない。僕の仕事はまぁマーケティングも関わることだから。

ということで人に薦められてこの本読みました。



なんかのテレビ番組で秋元康にインタビューしたものを再構成したものらしい。

まず冒頭からグッと来た。

---
私が企画について話をするとこのように言う人がいる。『秋元さんのお話は大変参考になるのですが私の仕事は秋元さんのように企画に関係する仕事ではありませんから…』 たとえばその人がお茶汲みだったとする。普通の人は言われたとおりお茶を入れるだけかも知れない。でもここに企画力を加えてみたらどうなるか?入れる相手の体調を考えて「ちょっと今日は薄めにしておこうかな」とか「いつも日本茶じゃつまらないから今日は紅茶にしてみようか」とやることが変わるだろう。これこそ企画である。そしてどうせお茶を入れてもらうのであれば企画力を持った人に入れてもらったほうがうれしいだろう。つまり、企画とは「自分の居場所を作る」ことでもあるのだ。
(適当に略して抜粋)
---

その通り!そこなんだよね~。どんな仕事だって、少しの企画力を加えればもっと素敵になる。いいこと言うじゃないか、秋元康。

それからちょっと僕が以外だったのはこの人の企画立案法。

イメージ的に時代の先を読んでマーケティングをして先を見通して、、って感じだと思っていたんだけどどうもそうではないらしい。

彼の話からよく出てくる言葉が「心のリュックサックに入れておく」というもの。

ジャンル問わずとにかく面白そうなことがあったら記憶に留めておく、これが「心のリュックサックに入れておく」ということ。そして何か企画を立てる必要があった場合には心のリュックサックの中にあるものを出して、それらを組み合わせて企画を立てるそう。

これって僕はすごく納得が行く。

先日、亡くなったスティーブ・ジョブズも何となく同じこと言っていたんです。

彼の、伝説となったスタンフォード大での講演の中で、「Conecting the Dots」、つまり「点をつなげる」ということを言っていた。

概要としては、とにかく色々な体験をし、それを振り返ってそれらをつなげて、新しい物を作れ、という話しだった。

こういう話を聞くと、どうも寄り道ばっかの人生だなぁ、と思っても「それはそれでいいのかな」と思えて勇気がわいてくるね。

過去は

2011-10-14 23:27:39 | 
誤解を招くかも知れないけど僕は「いいから黙ってこれやれ!」って教育があってもいいと思ってます。

よくドッピオさんと話すんだけど。

日本的な教育の基本というのはこれでしょ?

だいたい弟子入りするとまずは雑巾がけとかなわけじゃないですか。

で、「俺は空手を習いに来たんだ、掃除しに来たわけじゃない!」と弟子が反発しても師匠が「いいからやれ!嫌なら帰れ」ですよね。

そして弟子が嫌々ながら雑巾がけしつつ「そうか、これは単に雑巾をかけてるわけじゃなく足腰の鍛錬なんだ」でもいいし「そうか、こうやって道場をきれいにすることで心の鍛錬になってるんだ」と弟子本人が気づく、これが本当に大事。

振り返ってみると僕自身「これを勉強するとこういう効果があるよ」と言われて勉強したことより、意味はよく分からないけどやらせているうちに「あ、これってこういうことか」と気づいたことのほうが心に残ってる。

もちろん「あれ、ほんと意味なかったよなぁ」と思うことだってたくさんあるんだけど。

つまり「いい弟子」というのは師匠から何を言われようと勝手に「あ、これはこういう意味か」と気づくことが出来る。それが完璧になったらもうその人は何からでも学べるよね。「我以外皆師」の境地。

そういうことを思ったのはね、こないだある研修を受けたんですよ。

講師は一部では超有名人、原田隆さんという方。

元々僕がこの人を知ったのはこの本を読んだから。



どういう人かと言うと、大阪の公立中学校の体育の先生だった人。荒れに荒れていた松虫中学校という中学校の陸上部の顧問となり日本一にした。その方法が解説されている。

公立中学校の部活というのはかなり不安定なんだよね。

公立だから陸上のいい生徒を集めるということが出来ない、入って来た生徒たちでなんとかするしかない。公立でも高校ならまだ「陸上やるためにあそこに行こう」と入ってくる生徒もいるだろうけど中学は地域で分けられてしまう。

顧問は陸上の専門家とは限らない。教員なんだからメインは授業。

更に、いい顧問がいても教員だから定期的に転勤してしまう。いくらいい顧問がいて強くなってもその先生が転勤してしまえばゼロからスタート。

そういう状況な上に松虫中学校というのは当時非常に荒れていて部活どころか通常の学校生活もままならないほどだった。

まさに「スクール☆ウォーズ」の世界。

そこでこの原田先生と言う人は数年で陸上部を変え日本一にさせた。更に言うと原田先生が転勤して数十年経った今でもここの陸上部は強い。一昨年が全国大会二位で今年が一位だったかな?たぶん。

つまりこの人は単に自分が陸上部を鍛えただけでなく、自分がいなくなっても続く「仕組み」を作った。

その仕組みとはどういうものか、ということがこの本に書かれている。

僕が読んだのはたぶん5年ほど前だけど非常に興味深かった。

色々な方法があるけどその一つが「心を磨く」ということ。荒れている生徒たちを前向きにさせるためにいろいろモチベーションをかけるわけだけど、それに加えて「小さい約束」を徹底的に守らせた。たとえば「毎日必ず家で皿洗いをします」と決めた生徒にはたとえ合宿所でも合宿所の皿を洗わせた。

一見、「そんなことが陸上と何の関係があるんだ?」と思うけどやっぱり半年間毎日皿洗いをした生徒は陸上でもしっかり成果を出す。

おそらくだけど陸上の試合でしんどいときに「でも、俺は半年毎日皿を洗ったんだ」と自信になったんだろう。それこそ最初は「先生がやれって言ったから」嫌々やっていたんだろうけど、それでもやってるうちに「これだけやってるんだから俺は負けない」と気づいたのかも知れないね。

この人がいま教職員や企業向けに研修を行っていて、その研修を受けたんです。

色々、気づきの多い研修でねぇ。

原田先生自身はちょっと怖い人かな、と思っていたら腰の低い明るい元気な真っ当な人でその人の話聞いてるだけで楽しかった。

終わった後に「よっしゃ、がんばろ」と思える研修はいい研修だね。

その中で小さいけれど衝撃だったのが、過去についての話。

僕自身は「他人と過去は変えられない、変えられるのは自分と未来だけ」と思っているんだけど、研修でも原田先生が出席者にこう尋ねた。

「過去は変えられません。じゃあ過去はどうしたらいいでしょうか?」

出席者が口々に「忘れる」「気にしない」とか言ってたら先生が大きくこう言った。

「過去は無視!無視です!関係ない!完全無視!」

あはは。いいね。

そう、無視ですよ、やっぱね。

De mortibus et verbis(死と言葉について)

2011-10-13 18:46:20 | 日記
たぶん僕は人よりも「言葉」への信頼性が高いほうだと思ってます。

元々、言葉が好きだから大学でも最終的には言語学を楽しんで勉強していたわけだし、そもそも何となく「まぁ、なんでも話せば分かるんじゃないかなぁ」と思うところもある。

言葉習うの嫌いじゃないしね。

大学では第二外国語でロシア語もやった。ほとんど覚えてないけど。ロシア語で覚えているのは「エッタ・ニエット・カランダーシ(これは鉛筆ではありません)」だけ。かなり使用機会が限定されるので使う機会がない。
そういえば大学では古典語としてラテン語もやった。こちらもぜんっぜん覚えてないけどね。今日のタイトルだけラテン語にしてみた。
数年前にはイタリア語を勉強した。

それもこれもすべて言葉という道具が増えれば言えることも増えるはず、と信じているから。

もちろん、言葉では言い表せないこともたくさんあるんだろうけど、それって僕の日常とはあんまり関係ない、例えば宇宙や医学の専門的なことなんじゃないかな、と思ってた。

でも今年は、改めて「言葉は無力だ」と感じる出来事が多い。

なんとなく「35歳が転機になるんじゃないかな」と昔から思っていたんだけどとにかく今年は色んなことがありすぎた。いろんなことが無い年なんてそりゃないんだけどとにかく今年はすごかった。

ハッピーなことより、「すげえなこれ」と呆然としちゃうことばっかりまぁ起こった。

前半だけでも長めに付き合ってた人とも別れたし、3月にはあの地震でしょ。すごかったなぁ。

とにかく「ああ、俺に言えることなんて何もねーや」と思ったのはとくにあの地震だね。もちろんテレビに映る悲惨な光景にも何も言えないし、叔父も亡くしたことについてもちゃんとした言葉がない。

それ以上に何も言えなかったのは釜石の親類の家に行ってハトコに会ったとき。仲のいいハトコだから釜石に行ってすぐ「よし、二人で散歩しようや」と言って昔、彼がまだ子供だった頃、よく連れてった公園に二人で行った。

で、「大変だったねぇ」と話を聞いていたんだけど、そこで初めて彼が震災で彼女を亡くしていたことを聞いた。

彼はまぁ笑いながら喋っていたけど、笑いながら「まぁ正直、こうなると泣けないっす」と彼が言うのを聞いて「ああ、俺には何も言えないなぁ」と心底思った。

あの地震の後、いろいろあって僕も体の調子も悪くなったりしたし、仕事も色々あった。

そしてその後、夏くらいから祖母の具合が悪くなった。

母方の祖母で今年94歳。寿命といえば寿命で、僕が大学の頃から正月とかに会うと「まぁ来年は会えないと思うから」と本人が言ってた。それが10年近く続いたんで「とか来年も言うんでしょ」というのがお決まりのパターンになってた。

とはいえ、ここ1年ほど見る見る衰えてきて夏を越えたあたりからほぼ自宅で寝たきり、少し具合が悪いと入院、そして退院、を繰り返すようになった。

もちろん僕は東京にいるわけでそういう状況は実家にいる主に母からメールで聞いていた。

祖母の介護は近くに住んでいる娘である僕の母とその姉(つまり僕の叔母)が交代でやっていた。夜、ついていなければいけないので二人は交代で泊り込んでいた。

こういうのを聞くとさ、ほんとに「うーん、言葉にならないなぁ」と思うんだよね。

どうも「大変だね、がんばってね」というのも違うような気もするし、他にいい言葉が見つからない。

先月かな、小学校のタイムカプセル発掘があって実家に帰った時に祖母に会いに行った。いよいよ最後だろうなぁと思っていたので。

実家に着いてすぐ会いに行ったときには既に意識が混濁しているようで何も分からない状態だったけど、帰る直前に会った時には少しだけ僕のことが分かるような感じだった。既に話せないし動けない状態だけど僕を見ると(そして聞こえるほうの耳に名前を大声で言うと)こちらに手を伸ばして来たから。

本当にこういうのって言葉がない。

そして先週末、母から祖母が亡くなったという連絡を受けた。

もちろん悲しいし残念だけど、とはいえ享年94歳。第二次大戦、戦後の復興、高度経済成長、バブル期、そして今年の大震災を生き抜いた。子供5人、孫11人、そして僕もちゃんと数えたことがないくらいのひ孫に囲まれていた。

突然わっと亡くなってしまったわけじゃなく、徐々に寿命が尽きていくのを本人も周りも認識していた。だからさよならを言う時間は、どこまで行っても十分なんてことはないだろうけど、それなりにあった。

安易な言葉だけどさ、大往生と言っていいんじゃないかと思う。

祖母の姿で一番覚えているのは叔母の葬式の時のこと。

祖母の子供(つまり僕の叔父叔母)は5人兄弟なんだけど、長女が病気で数年前に亡くなった。つまり母である祖母は娘を先に亡くした。

そのとき、僕は仕事先から直接告別式の会場に行ったんだけど祖母の姿が見当たらなかった。うちの地元の風習なのかどうか分からないけど、子供を亡くした親は通夜や告別式には参加してはいけないらしい。(連れて行かれてしまうかもしれないから、とのこと)

亡くなった叔母の家に子供・孫一同で戻ると仏壇の前にほんとに憔悴した祖母がいた。憔悴する、ってこういう状態のことなんだなぁ、と僕は初めて分かった。子供たち親族全員が葬式に出かけている中、娘のいなくなった娘の家でたった一人で娘が亡くなった事実と向き合わなきゃいけないのはそりゃしんどいだろう。

その後、祖母を慰めるためにも孫たちで酒を飲みつつ話して、祖母も少し元気になった様子だった。

今頃、たぶんその叔母と、そしてそれよりかなり前に逝った夫(つまり僕の祖父)と会っていることだろう、と思う。

興隆期と衰退期

2011-10-05 23:27:27 | 
何度か言っているけど、『ローマ人の物語』の話。

既に単行本で15冊ほど出ていて、今は毎年文庫本で刊行されている状態。

それをずっと読みたいなと思っていたんだけど、僕は2007年から読み始めた。その時点で刊行されていた1から10まで、文庫本にして約30冊を一気読みし、後は毎年9月に刊行されるのを待って読んでいた。

そして今年の9月、文庫での最終シリーズが出た。つまり5年続いた個人的な9月の風物詩もこれで最後、ということになる。


ああ、淋しいなぁ。なんたってタイトルが『ローマ世界の終焉』ですよ。終わっちゃうんだね。

文庫のシリーズの表紙には舞台になった時代のコインが掲載されている。そして、文庫を開いて1ページ目には作者によるそのコインの解説文がある。これは文庫版のみの特典。

つまり、文庫版を読む場合、まず最初に目にするのはこの解説文、ということになる。

これがね、また今回は淋しいんです。

引用します。

”亡国の悲劇とは、人材の欠乏から来るのではなく、人材を活用するメカニズムが機能しなくなるがゆえに起る悲劇、ということである。

人材は、興隆期だけに現れるのではない。衰退期にも現れる。

しかもその人材の質は、興隆期には優れ衰退期には劣るわけではないのだ。

興隆期と衰退期の人材面での唯一のちがいは、興隆期には活用されたのに衰退期には活用されない、ということだけである。”

これはよーく分かる。

仕事柄色々な会社を見てきたけども会社も一緒なんだよね。衰退していく会社はもちろんいい給与を払えなかったりするので確かに人材はなかなか集まりづらい。でも社内に良い人材がまったくいない、というわけではない。

問題はそれら良い人材がまったく活用されない、ということ。

そしてもちろん活用されないわけだからその人々は去っていく。そうすると更に会社は衰退していく。

これって鶏が先が卵が先か、の問題だね。

ステッドラー

2011-10-02 21:38:50 | 日記
前も書いた(「文具話・序章」)けど文具好きです。

仕事で外回りしていてちょっと時間が空くと本屋に立ち寄るんだけどだいたい文具コーナーとかもあるんでそこで時間を潰したりしている。

で、新商品があるとついつい買っちゃったりしてね。

そんな感じで買った文具類の中でも最近のスーパーヒットはステッドラーというドイツブランドの蛍光ペン。

商品名「テキストサーファー・ゲル」。


これはねー、はっきり言うけど蛍光ペンの中で超衝撃的ですよ。出来ればもう実際に触ってもらって書き味を試していただきたい。

蛍光ペンはなんだかんだでよく使う。

でもさ、普通の蛍光ペンってペン先がスポンジになっててそれにインクが染み込んで書く、というものでしょ。そういう蛍光ペンの弱点はちょっとほっとくと乾いて書けなくなっちゃう、ってとこ。ずっと蛍光ペンで書いている、ならいんだけど普通そうじゃないじゃないですか。

大体、ボールペンでコリコリ書いてて気になるところがあったら蛍光ペンで線引いて、またボールペンに持ち替えて、、ってやるわけですよね。このたびにキャップを開け閉めすることが非常に面倒くさい。更に言うとたまに手についちゃったりするし。

その面倒くささを解決したのがこれ。なんとこのペン、簡単に言ってしまうと「蛍光色のクレヨン」なんです。

ペンのお尻をぐりぐり回して中のクレヨンを出す。

当然のことながらクレヨンなので乾かない! 商品説明を見るとキャップをしなくても2、3日は平気とのこと。

なもんだからちょっとした書き物をしている間はキャップ無しでまったくOK。ペンケースに入れるときに他のを汚したら嫌だからキャップするくらいだね。クレヨンなんで手にもつきづらい。

もちろん書き味は最高。この書き味たるやスゴイよー。なんかニヤーッとしちゃうよ。

ほら、クレヨンっぽいでしょ。この年になるとクレヨンの書き味が懐かしくていい。

更にね!!奥さん!!

なんとこのペン、1本150円!!!

まー驚きですわ。

文房具屋で見つけて値段見ずに「300円くらいかなぁ」と思ってたら会計のときにびーっくりしたもの。

もうね、蛍光ペンはこれじゃなきゃダメ。

見かけたらぜひ一本買ってみてください。

もらい物でフリクションの蛍光ペン(お尻のゴムでこすると消える蛍光ペン)もらった時も衝撃的だったけどそれ以上。




ステッドラーというブランドは今回初めて知ったけどHPみたらすごいわー。押し出し式の鉛筆なんて衝撃的ですよ。

ウォペックス鉛筆

従来の鉛筆は、芯を木の板に並べ、上からもう1枚の板ではさんで接着し、1本ずつカットし塗装している為、断面を見ると張り合わせ面があります。ウォペックス鉛筆は押し出し式に成型しているので張り合わせの面がありません。

な… 何を言ってるのか わからねーと思うがおれも何をされたのかわからなかった…頭がどうにかなりそうだった…催眠術だとか超スピードだとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…

25years

2011-10-01 16:48:44 | 日記
今年、夏が始まるくらいのときに友達からメールが来た。

小学校のときに埋めたタイムカプセルを掘り起こすので出欠を教えてくれ、とのこと。

言われて見ると「ああ、あったなぁ」と記憶が蘇ってきたんだよね。

僕が小学校5年の頃、通っていた小学校が100周年ということで記念にタイムカプセルを埋めた。当時の在校生は全員が「25年後の私へ」というテーマで作文を書き、その中に入れた。

たまに小学校の同級生と飲んでるときなんかに「あれ?タイムカプセルっていつ掘り起こすんだっけ?」という話になるんだけどだいたいみな正確なことはわからないのでそれきりになっていた。

それを掘り起こす。

まぁほんと埋めたときは25年後なんて遠い遠い話だったけど実際に来ちゃうもんですねぇ。

ということで先週、実家に帰ってきました。

日曜の午前中に掘り起こすというので土曜の夕方に帰り、夜は相変わらずのメンツで酒を飲む。

痛飲しふらふらの状態で朝8時に小学校の体育館に集合。

家が近いということで準備を頼まれたの。校庭を駐車場にするためライン引きしたり体育館にいす並べたり。

で、10時に一応式典的なものがスタート。

25年前に小学校5年男子だった人たち。

式典って言ってもまぁだらだらしたものなんだけどね。当時の先生たちも来ていて一言ご挨拶、みたいな感じ。

タイムカプセルを開けたら色んなものが入ってたよ。

まず当時の新聞。
 
昭和61年11月27日のもの。レーガン、ゴルバチョフ時代ですよ。いやー、年代物だねぇ。

それから一人一言ずつ吹き込んだカセットテープ。25年前のカセットテープなんて再生出来るの?と思ったら出来たんで驚いた。保存状態良かったんだな。
テープの問題よりも再生させる機械を探すのに一苦労しましたよ。学校の先生に視聴覚室みたいなところにわざわざラジカセを取りに行ってもらった。

当時から考えるとさ、カセットテープを再生する機械がよっぽど探さないと出てこないという状態になるなんて驚きだよね。あの頃ってたぶんCDもまだなかったんじゃないかな?

メインの25年後の自分に当てて書いた作文はそんなに面白くなくてね。僕の作文はずっと事実を羅列してあった。いま流行ってるテレビ番組は○○で、人気のある芸能人は○○で、、とか。こういうのは今となっては調べれば分かるんでもっと当時の気持ちを書いておくべきだったよなぁ。


とにかくまぁタイムカプセル本体よりも卒業以来会っていない同級生に会えたのが楽しかったね。25年も経ってるとさすがに「あいつ誰?」ってのが多くて。


そして何より驚いたのが実はタイムカプセルはもう一つあったこと。(船は2台あった!)

もう一つのタイムカプセルを開けるのはなんとこれからまた25年後。僕らが61歳の時だってさ。

なんかその発掘責任者になっちゃったんだけどそもそも生きてるのかねぇ。