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浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

A Small, Good Thing. - ささやかだけれど、役にたつもの

2020-07-21 15:06:06 | 
どうもなかなかいろいろ大変ですね。。

最近は家にいることが増えて、料理をすることがいつもより増えました。

特に「まぁこういう機会だから」とちょこちょこやっていたのがパン作り。「何を作ろうかな」とネットを調べていたら意外とものによってはそんなに大変ではなく作れそうで。ということで時間があるときにいくつか作ってみた。

まずトライしたのがベーグル。元々、ベーグル好きだし。これは本当に、思っていたより簡単で美味しく出来た。焼き上がったもので食べ切れなければ冷凍もできるしね。

ベーグルを作る工程で特徴的なのは途中で茹でることなんだけど、このときに入れるもので焼き上がりの色が変わる。本格的にはモルトパウダーを入れるそうなんだけど、さすがにそれは手に余るのでまずは蜂蜜で。

これが4月、僕が初めて自分で焼いたベーグル。このときはもちろん「オー!」と感動していたけど、今見ると色もそんなにきれいじゃないし何より形がねー、穴が空いてないもんね。

次にメープルシロップを入れて茹でてみたもの。メープルシロップ1Lを実家からもらってしまったのでどんどん消費したいんです。

これはなかなか良いですよね。やっぱりある程度たっぷり入れて、しっかり焼く(うちのオーブンは弱いのでレシピに書いてある時間より長めに焼く必要がある)と美味しそうな色味になる。

更に、重曹を入れるとプレッツエルぽくなるとのことでやってみる。

たしかにね、色が濃くなって更に外側が固めになる。

サンドウィッチなんかにしてもそれなりの見栄えになる。

今のところ、僕の感覚としていえばメープルシロップが一番いいかな、なにせたっぷりメープルシロップがあるから。


これは更にチョコチップを入れてみたもの。

気持ちがなんとなく落ち着かない時、一心不乱にパン生地をこねているとなんとなく解決した気になりますね、実際にはまったく解決していなくても(笑)

レイモンド・カーヴァーの短編で「ささやかだけれど、役にたつこと」、原題はA Small, Good Thing.ってのがあった。それは多分、焼きたてのパンのことだった(という記憶がある)。

確かにパンってそういうものですよね。

歌丸ばなし

2018-07-04 12:17:32 | 
桂歌丸が亡くなった。

(個人的な考えなんだけど、僕は極力、落語家に「師匠」とつけず、とびっきりの親愛と心からの敬意を込めて呼び捨てにしたいと思っている。そもそも僕は入門したわけでもないし、落語がなんたるかもわからない門外漢なんで僕なんかが「師匠」と呼ぶ資格はないと思う。だからどうか呼び捨てにすることをお許し頂きたい。もちろん、他の人(落語家でない人)が敬意を込めて「師匠」と付けることを否定するつもりは毛頭無いです)

僕は落語はそれなりに好きだけど、それでも「生で高座を見た落語家」というと数えるほどしかいない。桂歌丸はそのうちの一人。

いつみたのかな、と思ってこのブログを読み返すと2011年の正月の浅草演芸ホールだった。→「そうだ、寄席に行こう」
(しかし、過去を振り返るのにブログってのは本当に便利だ)

この時、桂歌丸はトリで、「鍋草履」というネタをやった。これがまたすごくてねぇ。。もちろんネタ自体は、鍋に草履が入ってる、という決して大ネタというわけではないんだけど、やっぱり彼の持つ芸のすごみ。ぐぐっと圧倒されてしまうような芸ではなくて、ホール中に桜吹雪が舞うような、おめでたいという概念が形になったような。。あの雰囲気だけは忘れられない。とにかく「いやぁ、正月から良いもん見せてもらったなぁ」と心底思った。

生で見る前に、彼の「ねずみ」という噺も動画で見たことがあったんだけど、これもとっても面白かった。おそらく、桂歌丸という方は、とてもキッチリされた方なんだろうと思う。この「ねずみ」という噺には大工の左甚五郎が登場する。この左甚五郎の職人気質というかきっちりとした感じが桂歌丸本人によく合っていて、僕はこの噺がとっても好き。

機会があれば、もう一度みてみたいと思っていたけど(少なくとも現世では)、それは叶わなくなってしまった。それは残念。


ところで、「地獄八景亡者戯」という噺があります。これは主に上方(関西)で演じられることが多い噺で、死んだ人間が死者の国に行く場面が出てくる噺。この噺のおもしろいところは、その年亡くなった人の噺なんかをどんどん放り込めるところ。

例えば2013年に僕がきいた桂雀々の高座では、

「ちょうど今、マンデラ元大統領も着いたとこですわ、ああ、なんか変な手話の人もついてるなぁ」(覚えてます?)

みたいなこと言ってた。ちょうどマンデラ元大統領が亡くなった年だったからね。

この噺の中で、地獄の一丁目は繁華街で映画館から歌舞伎座から寄席まで何でもある。「アイドルグループの公演はYKB49が大人気、焼き場四十九日ね、のどが渇いたらカフェもあります、ハカーバックス、略してハカバ」なんて感じ。

歌舞伎座では市川團十郎が初代から十二代まで全員集合でやってるし、寄席では昭和の四天王と志ん朝、談志、大名人が揃ってる。そこに桂米朝の張り紙、「おい、米朝はまだ生きてるがな」「へい、前売り券で」というのがお決まりだった。(まだ米朝が生きている頃ね)

今年の年末には誰か「地獄八景亡者戯」で桂歌丸ネタを入れてくれないかなぁ。。「そろそろ笑点の時間ですよ、大丈夫、まだ司会しか来てませんが」とかね。

あっちの世界で、また機会があったら生で観たいな、と思ってます。

そういえば、以前読んだこの本も面白かった。

「歌丸ばなし」

愛と悲しみの喫茶店学から。「頭の良さとはなにか?」という話

2018-06-19 15:25:42 | 
(以下、敬称略)

文筆家・平川克美がオーナーの喫茶店「隣町珈琲」の話は少しした。基本的には喫茶店で夜は不定期に「火鉢バー」というバーになり、更に不定期にトークイベントが開かれている。

そのトークイベントの中で僕が一番と言っても良いくらい好きなのが、平川克美と精神科医・名越康文の「愛と悲しみの喫茶店学」というシリーズです。これは喫茶店を愛する二人が喫茶店について語る、、というお題目は80%くらいウソで平川克美の縦横無尽な思いつきを「なんでも拾う」名越康文がほんとになんでも拾って拾った上に広げて更に観客に放り投げるという抱腹絶倒の二人芸(と言っても失礼ではないと思う)です。

このトークライブの面白いところは実は「枕」というか、録音の始まる前、なんです。お二方は前に居て、開始時間の始まる前も話している。で、実はこの録音始まる前のトークが実はその日のテーマであり、約2時間のトークは結果として、開始前のトークにつながる。アドリブといえばアドリブなんだけど結局、しっかり落ちる、という素晴らしい話術だと思う。

先日(5月28日)の回に、開始前にお二人が話していたのは「頭の良さ」について、だった。

例えば先日、解任された財務省の事務次官なんかはめちゃくちゃ頭が良いと言われていたらしい。その頭のよい人がああいうことで事件になる。じゃあ頭の良さとは何なのか、という話をしていた。もちろん結論のある話じゃない、そもそも開演前の無駄話なわけだし。

それでも、なるほどな、と思うことが2つあった。

一つは、頭の良さとは「メタロジックで考えられること」ということ。メタというのは「高次元」という意味で、例えば「AとBどちらが良い?」という問題があった時に「そもそもAとBどちらかを選ばなければいけないのか?」と考えるようなこと(簡単にいうと)。確かにね、それは理解できる。

もう一つは、平川克美が「自分が感じる、頭の良い人というのはある種の"深さ"を持っている。その深さはどこから来るかというと"あきらめたものの多さ"ではないか」ということを言っていた。うむ、これは理屈ではうまく説明できないけど、実感として「おお!」と思うところがある。

ということで、僕も「頭の良さ」について考えた。

もちろんいろんな考えがあるだろうけど、僕が思う「頭の良さ」は「きちんと返答できること」だと思っている。

なにか質問を受けた時にきちんと答えられること。質問者が「ああ、この人はちゃんと私の質問に答えてくれた」と思うこと、思わせること。これが重要なんじゃないかな、と思う。

逆にいうと、現代を生きていると、「質問に答えない人」って本当にたくさんいるのよ!

それは、都合が悪いことには答えない、という意図的に答えない人もいるし、大変残念だけど読解力なんかがあまり高くなくて「自分が何を聞かれているかわからない」から答えないという人もいるけど、そのどちらも合わせてね。

テレビなんか観てると結構いるでしょ?特に国会周りなんてそういう人ばっかりじゃないですか。ほら、最近言われてる「ご飯論法」というやつ。

Q「朝ご飯は食べましたか?」
A「いえ、食べてません(パンは食べたけどご飯は食べてない)」
Q「常識的に考えればパンも朝食ですよね?」
A「いや、そうかも知れませんが急いでいたのでパンを飲んだのです。だから食べてないと答えました」

みたいなやつ。これこそまさに「質問にちゃんと答えてない」というやつですね。

もちろんああいう人たちは良い学校出て難しい試験を通ったはずなので、地頭は悪くないのかも知れない。同じペーパーテストを受けたら僕なんて足元にも及ばないだろう。だけど、その地頭を「なんとかして質問に答えない」ということに使っている、という時点で「なんて頭悪いんだろう??」と思ってしまう。

一方で、「質問にきちんと答えることができる頭の良さ」というのは僕は、けっこうラジオの人生相談なんかで「そうそう、これだよ」と思うときがある。

例えばTBSラジオに「生活は踊る」という番組があって、その相談コーナーがあるんだけど、聞いてみるとメインパーソナリティのジェーン・スーという人が的確に答えていて「頭良いよなぁ」と思うときがある。

それから隣町珈琲界隈の人だと例えば内田樹はGQという雑誌でお悩み相談コーナーを持ってたりするけど(こちら→「内田樹の凱風時事問答館])これなんか読んでると「ちゃんと質問に答えてるなぁ」と思う。

こういうのが頭の良さだよなぁ、と僕は思います。なので僕もちゃんと質問には答えていこうと思っています。

というかそもそも論としてさ、ちゃんと質問に答えてくれない(答えられない、じゃなくて答えてくれない)って人はそんなに信じちゃいけませんね。

上を向いてアルコール

2018-05-01 12:32:06 | 
お酒はよく飲む。

お酒って特に日本だとすごく簡単に買えるし、俗に言う「飲みニュケーション」も頻繁だから、ふと気づくと「あれ、ここ数ヶ月、飲まなかった日無いな」と思うことがある。

特に僕みたいな仕事だと、夜に人と会うと「ま、とりあえず飲みながら話しますか」ってことも多いから。

そういう時ふと「あれ、自分、アル中なんじゃないだろうか?」と怖くなってお酒を断ってみたりする。いまのところ何の問題も無い。

例えば、飲みたくて飲みたくて仕方ない、と思ったりしないし、当然、手が震えたり幻覚を観たりなんてしない。ありがたいことに健康診断の数値もガンマGDPという肝臓が悪いと上がっちゃう数字も今のところ正常値。

と言っても僕は全然安心出来ない。

たぶんね、アルコール依存症ってもっと静かな、もっと恐ろしい病気だと思うから。

こないだこの本を読んだ。


「上を向いてアルコール」


コラムニストの小田嶋隆という人が自身の依存症体験を書いたもの。本としてはかなり面白くて(interestingでもあるんだけど、funnyでもある)ところどころ思わず吹き出してしまう。だけどこの「滑稽さ」がやっぱりちょっと怖いと思うんだよね、この依存症ってやつは。。

考えてみると、日本って意外とアルコールにはゆるい社会なんじゃないかなと思っている。

身分証明書無しで自己申告でお酒が買えるし、しかもコンビニで気軽に24時間買える。最近は「ストロング系」と言ってアルコール度数の高い、9%とかのチューハイ、が流行ってる。そりゃそういうお酒があっても良いけど、あまりに高アルコール飲料がカジュアルすぎるような気もするけどどうなんだろう?

ということで日本って一生懸命、禁酒や断酒をしようとしている人には結構ツライ社会なんじゃないだろうか。

そりゃもちろん「本人の意志次第だよ」と言われるかも知れないけど、僕はそれはちょっと違うんじゃないかと思っている。

例えば、僕はもう煙草を止めて10ヶ月くらいになるけど、煙草だってこれニコチンという物質への依存症だと思う。今回では無いけど、昔、少し煙草を止めた時(すぐ断念した)は、寝ていて煙草を吸う夢すら見た。これって「意志」の問題じゃなくて完全に病気なんじゃないかと思う。

アルコールもそういうところがあるんじゃないかなぁ、、僕は専門家では無いから断言は出来ないけれど。

アルコール依存症の事例を読んだりしていると、これもう素人(友人や家族、周りの人ね)にはどうしようも無いよなぁ、と思う。

お酒は楽しく適度に、というのが大前提だけど、もしなにか問題あったらすぐ病院に行ったほうがいいと思うよ。

無人島に持っていく一冊

2018-04-16 10:27:12 | 
よく「無人島に本を一冊持っていけるなら」という質問があるじゃないですか。

そもそも無人島なら食料や生活用品を持っていったほうがいい、という野暮な答えはおいておいて。

これもなかなか難しい質問だと思う。いくら自分が好きな本でも結構飽きちゃうんじゃないかなとも思うしもし読んだことない本を持っていってそれがつまらなかったらがっかりしてしまう。

たまに「自分なら何を持っていくかな」とすこーしだけ、考える。

で、そのテーマである時、けっこう新基軸な答えを聞いた。ある有名なソングライターの人の答えだったと思う。(ごめんなさい、うろおぼえなんです)

その人はアメリカのヒットチャートの一覧の本を持っていく、と。それだとだいたい聞いたことがあるから、曲のタイトルを読んだけで頭の中でその曲を再現できる。更にその曲が入っていたLPの他の曲のことを思い出したり、その曲を聞いた頃の思い出を考えていたら退屈はしないだろう、と言っていた(のを、読んだ覚えがある)。

そういう視点で、僕はこのシリーズを持っていくかなと思う。


ゼロ年代アメリカ映画100 (アメリカ映画100シリーズ)

タイトルどおりの本でその年代(つまり10年間)のアメリカ映画の100本が紹介されている。その映画の紹介を読んで、その映画を頭から思い出していればかなり時間はつぶせると思う。もし観てなかったとしてもこの本での紹介を見ながら、どんな映画か想像も出来るしね。

ゼロ年代、90年代、80年代、70年代、60年代と出てるけど僕はゼロ年代を持ってくかなー。

「彼ら」の話ではない

2018-03-28 18:20:29 | 
「実験」というのは、僕みたいな「科学の門外漢」にとっても楽しいものです。例えば小学校や中学校でちょっとした実験をやるのは確かった覚えがある。

でも、何においてもとりあえず実験をすれば良い、というものではない。例えば仮に、言語学において「人は言語を知らないとどのような人格になるのか」という疑問があった場合、すごい簡単な話は、子ども一人を実験台にして、完全に隔離された場所で過ごさせる、10年くらい。10年後、彼(あるいは彼女)はどのような人間になるのか、を見れば良い、、いや、もちろん良くない。彼(あるいは彼女)の人権はどうなるんだ?という最大の問題がある。

つまり、実験というのはとても大切なことだし、百の理論より一の実験ということは言えるけども、そんなになんでもかんでも実験すれば良いというわけではない、ということ。

しかし、仮に、その「実験」が全く問題無く、法的にも許されるものだったら? つまり、まだそれに対応する「法」が出来ておらずやりたい実験をすべて出来る状況だったら? 確かに実験後、問題は起きるかも知れない、でも起きないかも知れない、分からない。しかし実験によって今までの疑問が晴れる、理論が正しいか誤っているかは確実に分かる、としたら? もしその理論が正しいければ全人類を救うかも知れない。

その実験をあなたはやりますか、やりませんか?

これが、この本に書かれている「闇」の一つ。


闇に魅入られた科学者たち―人体実験は何を生んだのか


今では禁忌になっていたり犯罪になっていたり、あるいは歴史の汚点になっている様々な科学実験や研究、またそれらに携わった研究者のルポルタージュ。大変に面白かった。

例えば、とある16世紀の科学者は墓を掘り起こして死体を解剖することで人体の仕組みを解き明かした。当時、その実験は違法ではなかった。その科学者に後輩科学者がある悩みを打ち明けた。悩める後輩にその科学者は言った。

"Why think? Why not to try?"
(なぜ考える? なぜ試してみない?)

背中を押された後輩科学者はずっと考えていた実験を行ってみる。実験台は、彼の息子。。

この科学者が誰で結果がどうなったかは本書を読んでいただくとして。

このような科学者がこの本で紹介されている。

彼らが全員、邪悪だったのか? あるいは被験者の気持ちが分からない冷酷な人間だったのか? 僕は違うと思う。むしろ「これは良いことなのだ」と思っていたようにも思える。

この本の最後の章に「スタンフォード監獄実験」が紹介されているのが特徴的だと思う。

スタンフォード監獄実験というのは、数人を囚人役と看守役に分けて、それぞれを演じさせたところ、囚人役はどんどん奴隷的になっていくし看守役はどんどん残虐になっていった、という実験。これを企画した心理学者は決して邪悪な科学者だったわけではない。ただ「人の心理や性格は、生まれつきのものではなく、状況によって決まる」という仮説を実験したかっただけだろう。

つまりこの本に描かれている闇に魅入られた科学者たちは、「状況」に応じただけだろう。

ということはつまり、彼らだけでなく、我々だって状況によっては「闇に魅入られる」ことだってありうるんだろう。

AIとAI技術ー書籍「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」から。

2018-03-14 11:28:05 | 
(今回は先日読んだ本について書くけど、申し訳ないんですが、その本を人に上げてしまいまして手元にありません。だから細かい所間違っているかも知れません、ごめんなさい。でも興味深い本だからぜひその話をしたいんです。ご容赦ください)

先日、この本を読んだ。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

著者は「AIが東大に合格できるか?」、つまり人工知能がセンター試験を受けて東大合格レベルの点数が取れるか、ということを実験している方。前半は今のAIがどういうレベルなのかということ、そして後半はその実験をするために行った小中学生に対する読解力テストの結果とその分析が論じられている。

僕が非常にすっきりしたのは始まりの始まり。つまり「AI」とはなにか、という点。もちろん、AIとは「Artificial Intelligence」の頭文字でつまりは「人工知能」ということは知ってる。でもなんだか昨今、なんでもかんでも「AI、AI」って感じじゃないですか?僕はなんとなく違和感があった。それがこの本で前提として書かれていたのが「真のAIとAI技術は違う」ということ。

つまり、「真のAI」というならばそれは完璧な人工知能であって、人間の知能と全く同一のものであるべきだよね。そんなもの現時点で出来ていない。なぜなら人間自身がまだ自分たちの「知能」が何かをわかっていない、から。知能とはなにか?記憶だけが知能なのか?それとも記憶は知能の一部なのか?もしそうだとすると知能を成り立たせている記憶以外の要素はなにか、、、そういったことがまだ完璧にはわかっていない。わかっていないものを作れるはずが無い、ということ。

では何故、いま、例えば家電やPCが「AI搭載」と言えているかというとそれは、ここで言う「AI」とは「AI技術」のことであり「AI技術搭載」というのが面倒なのでわかりやすく「AI搭載」と言っているだけ。(それもどうかと思うけど。。)

「AI技術」というのは「学習」「認識・理解」「予測・推論」「計画・最適化」など、人間の知的活動の一部の技術。なるほど、それなら分かる。例えば画像認識に関しても一々、人がプログラムしなくても「この画像は人が写ってるな、これは違うな」と「学習」すればそれはまぁ「AI技術」と言える。

なるほど、そういうことか。確かになぁ。

こういう前提で語られる「AIにセンター試験を受けさせる実験」は大変興味深い。あと何よりこの本の白眉は読解力テスト。これほどのまでに読解力がない、はっきり言ってしまうと「話が通じなくなっている」のかと驚きます。

ぜひどうぞ。

「なぜ嘘つきばかりの世界になってしまったのか」内田樹・平川克美トークショーから

2017-06-23 11:44:07 | 
内田樹氏と平川克美氏のトークショーがあったので行ってきた。

内田樹については何度も書いてるので割愛して、平川克美という人は内田樹の古くからの友人で何冊か本を出されている。僕は内田樹の本を通じてこの人の本も読むようになった。


「移行期的混乱」以後 ──家族の崩壊と再生

内田樹については、僕は著作を愛読しているし、出演されてるラジオも愛聴し、僕が合気道を始めるきっかけにもなった人でありながら、生で観るのは初めて。

前に「9条どうでしょう文庫化記念ライブ」というのがあって、それはチケットも取っていたのに仕事の都合で行けなかった。。後で音声データを購入して聴いたんだけど、とんでもなく面白くてつくづく後悔している。

その時の話はこちら→「「9条どうでしょう」文庫化記念「ライブ!9条どうでしょう」から。

さて、今回のトークショー。大変面白かったよ。

テーマはもちろん、昨今の様々な政治状況やこれからの日本の話がメイン。

面白かったのは、なぜ日本の国会、政治家、官僚はこんなに嘘つきばかりになってしまったのか、という話。

聞きながらメモした内容に基づき、僕なりの理解を書いておく。

"Honesty pays in the long run."という言葉がある。簡単に訳せば「長い目で見れば正直者が得をする」という意味。

この言葉を逆に取れば「短期的には嘘つきが得をする」と言うことになってしまう。確かにそうだよね、例えば今この瞬間だけで考えれば、失敗を正直に話して怒られるよりも嘘ついて「私はやってません」と言えば、とりあえず「今日は怒られない」ということは多々あるだろう。

ライブの中で内田樹が例に出して、僕もハッとさせられたんだけど、昔、例えば僕の子供時代って「未来予想図」というものがたくさんあった、雑誌とか本とかで。今となっては絵空事なんだけど、ほら、「21世紀はこうなる!」とかさ。

なんかみんな銀色の服を着て、車は空を飛んでて、場合によっちゃ背中にジェットエンジン背負って空飛んでたりしてさ、そういう未来予想図ってあったでしょ?逆に未来は公害ばっかりになって核戦争が起こって人類は滅亡の危機に、、って暗い未来予想図もあった。

でもさ、現代ってそれあんまり見ないよね。

「21世紀」という近未来がもう来ちゃって、次の「22世紀」はあまりにも遠すぎる。たぶん今生きている我々は22世紀にはほとんど死んでる。だから予想もしない、ってはひとつあるだろう。

もうひとつは、あまりにも先の事が分からなすぎて予測不能ってのもある。例えば来年、日本の総理大臣がまだ続いてるかどうかだって分からない。来年どころか半年後だって分からない。総理大臣がコロコロ変わるのは日本じゃいつもったって、今となっちゃアメリカの大統領だって来年どうなってるか分からない。

つまり、「長い目で」なんて誰も見られない。長い目で見たって未来なんて分かんない。だから、とりあえず短期的に今目の前の状況をやり過ごすしか無い。で、やり過ごすために一番良いのは「嘘をつく」ことなのではないか、という話だった。

なるほど。

ただ、僕は思うけど、やっぱり嘘をつくのは長期的に観て「身体に悪いだろうなぁ」と思う。特に衆人環視の中で、つまりTVに映る状況とかで嘘をつくのは本当に身体に悪いと思う。特に自分に子供がいる人はね。子供は絶対にバカじゃないから、TVで自分の親が嘘ついてたら分かるだろう。日頃、自分に「嘘をつくのは悪いことだ」と言っている自分の親がいけしゃあしゃあと嘘をついている、そういう状況を目にした子供の非常に屈折した思いというのは絶対に巡り巡って親に来ると思う。嘘をついて今目の前をやり過ごすことと、自分の子供に非常に屈折した思いを与えることの2つを比べれば、こんなに割に合わないことは無い。

だからまぁ、ホントに嘘つくのはやめたほうがいいと思うけどねぇ。。

今回のライブはまたラジオデイズというサイトで販売されると思うのでよろしければ是非。

あと、ちょうど内田樹氏の新刊が出たばかりだったのでサインを頂いた。読み終えたけど面白かったのでこちらも是非。


日本の覚醒のために──内田樹講演集

大阪京都

2017-04-20 20:16:52 | 
沖縄良かったなー。もうちょっと居ても良かったかもね。やっぱりビーチってのは素晴らしい。

で、土曜に沖縄から福岡に戻ってきて月曜から大阪京都にドッピオさんと行きました。

福岡から大阪に新幹線で行ってまずはお気に入りのラーメン。

福島駅「みつ星製麺所」の濃厚ラーメン。ここはね、濃厚ラーメン、和風ラーメン、つけ麺と3種類メニューがあっていつも本当に迷う。

サクッと仕事をして、さすが大阪の教育関係だけあって最近話題のあの国有地の噂なんか色々聞いて(あ、そだったんですかー)、ドッピオさんと合流。

男二人で新世界へ。


串かつ屋でおみやげに持ってきた沖縄の北谷長老。

(もちろん、お店の人には事前にお断りして持込料をお支払させていただいております。)

梅田でピザ。

この店でピザ2枚とデザートにんかホットサンドも喰ったなー、お腹いっぱいですわ。

もうこのへんになると何話したか覚えてない(何せ北谷長老一本空けてるんだもの)けど、まぁいつもドッピオさんと横浜で飲んでるときとおんなじ話でしょう。あ、映画「秘密」の話したか。この映画についてはね、こんどちゃんと書く。

そして京都へ。

僕ね、京都で一番好きな場所は建仁寺かもしれないなー。

こういう縁側に座って、庭を見ながら、少し入ってくる風を感じていると「ああ、ここに住みたいなー」とすら思う。

京都は桜も少し散りかけ、そのせいかそんなに人も多くなかった。お陰で庭と、その先の部屋にある雷神風神の屏風までも独り占め。うーむ、眼福。


建仁寺というのはね、禅寺で、栄西禅師が開いたと言われている。栄西禅師の言葉として「大哉心乎」というものが伝えられている。曰く、「大いなる哉、心や」、つまり「心とは大いなるもので、とても自由だ」と。あくまで僕の受け取り方ですが。それを感じられるお寺ですねぇ。

昔、このお寺に来たときがあって。とっても暑い、京都特有のうだるような暑い夏だった。畳の部屋に扇風機が置いてあって、観光客が寝っ転がって、中には居眠りしていた。僕も、内心「いいのかな、寝ちゃって」と思ったけど寝っ転がってた(なにせあっつい日だったから)、で立ち上がろうとしたらお寺のお坊さんがいて「すいませんね、寝っ転がっちゃって」とお詫びしたら「いえいえ、皆さんに休んでもらうのがお寺ですから」と言われたの。こういうところがとても好き。

順路通りに歩いていくと、






こういう感じに見えていくのも素晴らしいんだよねー。

次の日は金閣寺。



あのね、こういう風に真正面から観る金閣寺はもちろん素晴らしい。

だけど、順路通りに歩いていって、裏側に回って、義満が手を洗った泉だとかお茶のための水を通った泉とかを抜けて、ちょっと階段を上がって、ふと振り返って見ると。

美しい!百万倍美しい!!


で、立命館大学の学食でカツカレー。これはSなんだけどもうSでお腹いっぱいですわ。。

いいね、京都は。

『困難な結婚』と『逃げ恥』

2017-04-05 14:20:32 | 

困難な結婚/内田樹


この人はだいたい「いつも同じ」ことを言っている。

「いつも同じことを言っている」人って僕は意外と嫌いじゃない、「おお、筋が通っているな」と思うから。例えばマーティン・スコセッシという監督は「いつも同じ話」の映画ばっかりだし、村上春樹だって言ってしまえば「いつも同じ話」でしょう。「いつも同じ話」って意外といいもんです。創作者であれば「いつもの同じ話」ってのがある意味「作家性」なんだろう。

さて、この本もまぁいつもと同じ話でさ「結婚とは安全保障である」ということなのね。一人で生きていくのは楽だけどもし体悪くして倒れてしまったりしたら、その時点で収入が無くなり生活が成り立たなくなるかもしれない。それが二人でいればどちらかが倒れてもどちらかが働けば良い。

あとね、この人がたぶんこの本ではなかったと思うけどどこかで書いていたのが「風邪引いて寝込んでるときに優しくされちゃったりするとほろっと結婚しちゃう」みたいなこと。

さて。

それまでプロの独身としてやってきた男性が風邪ひいて寝込んだ時に結婚するってことになって、なんだかんだあって二人して「結婚とは安全保障」みたいな話、って最近ありましたね。

そうです、例の『逃げ恥』です。

福岡にいると暇なんで「そうそう話題のドラマ『カルテット』でも観てみるかいね」と思ってTBSオンデマンドに入ってみた。TBSの番組がネットで観られるやつね。2週間無料なんで「ま、2週間でカルテット観終えて解約すりゃ無料かー」と思っていたのだけど案の定解約し忘れた。こういう「初月無料」戦略にまんまとハマる自分が嫌ですね(笑)

つうことで後一ヶ月は契約が残っているので「じゃ、逃げ恥でも観るんかいさ」と思って観たんだけど面白いね!これはねー、当たると思う(今更)

で、観ててさ「なんだなんだ、『困難な結婚』そのまんまじゃないか」と思うところがあった。

はい、ここでネタばらしをしましょう。

内田樹がやってる「辺境ラジオ」(出演者は内田樹、名越康文、西靖)というラジオ番組がありましてね。


辺境ラジオ


書籍にもなってる。

たぶん第二回か第三回だと思うんだけど、この番組に「うめきた大仏」というメールを出したリスナーがいる。「大阪の梅田駅北ヤード(通称、うめきた)にビルだの建てるくらいならどーんと大仏でも建てればいいのに」みたいな内容。これが出演者3人に大層受けて、公開収録の際にこのリスナーが登場していた。これがなんと『逃げ恥』の原作者、漫画家の海野つなみ先生。はい、ここで繋がった。いや、別にどうってこと無いんですが辺境ラジオ好きとしては嬉しくてね。

もちろんドラマ『逃げ恥』には大層なオリジナリティもあってそこがこれだけ大ヒットした理由でもあるんだろう。でもこのドラマを「内田樹」といういわば補助線を引いて観てみると「ううむ、なるほど」と思うところが多い。

例えば辺境ラジオでこんな話があった。出演者の一人、西靖が結婚して、奥さんに対して「たいがいよくやってもらっている、だけどリビングの携帯電話置くところのコードがいっつもビヨーンとなっててすごく気になる。何回か言ったけどぜんぜん片付けてくれない」という話をした時。内田樹が「そういうのは絶対言っちゃダメ、黙って自分で片付けるべき。夫婦で最後まで一致しあえないのは『部屋の清潔度』なの。食べ物の趣味、服の趣味なんてのは一緒に暮らしてればだいたい合ってくる。だけど清潔度だけは絶対に分かり合えない」と答えていた。

この件さ『逃げ恥』でも出て来るよね。みくりさんが働きだしてひらまさが「風呂の鏡が磨かれてない」とか言い出す時。これね、僕観てて「ああ、ダメダメそこ言っちゃあ。。」と思ったですよ。

そういうところもねー、面白いよ『逃げ恥』、みんなも観たほうがいいよ(今更)


逃げるは恥だが役に立つ Blu-ray BOX

サピエンス全史

2017-03-30 23:20:11 | 
あのね、とっても面白かったです。ずいぶん売れている本なようで色んな書店で平積みされている。


サピエンス全史(上) 文明の構造と人類の幸福

僕自身は世界史とか地理とかそんなに知識が無い。北京原人とクロマニヨン人がどう違ってて、それらがどう今の人類につながってるのか、というのも実はあまり良くわかっていない。(つくづく、ちゃんと勉強しとくべきだったよな)

特に、この本の最初のほうが興味深かったです。

この本によると、ホモ・サピエンス(つまり我々)の歴史には大きく3つの革命があったと。それは「認知革命」「農業革命」「産業革命」の3つ。農業革命と産業革命はなんとなく分かるけど、認知革命ってなんだよ、って話になるよね。その部分がたいそう面白かった。

言葉、あるいは言葉的なコミュニケーションを出来る動物は結構いる。(本当は「口頭言語」と書いてあるけどまぁ分かりやすく、「言葉」で) 例えばある種の猿は「気をつけろ、ワシだ!」という意味の鳴き声を出すことが出来るらしい。そして「気をつけろ、ライオンだ!」という鳴き声も出すことが出来る。「ワシだ!」「ライオンだ!」という鳴き声を録音しておいて、その猿の群れに聞かせると「ワシだ!」と言われた時は上を見上げ、「ライオンだ!」と言われたときには周囲を見回すらしい。

つまり「言葉自体」はホモ・サピエンスの専売特許ではない。では、ホモ・サピエンスしか出来ないことは何か。それはつまり「虚構」を組み立てられるということ、もっと簡単に言うと「嘘をつける」ということ。

つまり「気をつけろ!ライオンだ!(ライオンが実際にいる)」ということは猿でも言える。だけど「ライオンは我が部族の守り神だ」はホモ・サピエンスしか言えない。後者はある意味、「嘘」だから。で、更に言うとこの「虚構」のポイントは、「言ってる本人もそれを信じている」というところにある。

例えば先程のある種の猿は「気をつけろ!ライオンだ!」と嘘をつくことも出来る。その嘘をついて他の猿が逃げ出した後にそこにあったバナナを独り占めするために。この場合、嘘をついた猿は自分で「嘘だ」と分かっている。だけどホモ・サピエンス独特の「虚構」のポイントは「言っている本人もその嘘を信じている」という点。この本の中では「想像上の現実」と言っている。

空想上の現実とは、例えば、「天国と地獄」とか「神は実在する」とか。もっと言ってしまうと「お金」や「会社」というものだってある意味「想像上の現実」のひとつ。「小さな紙一枚に1万円の価値がある」というのは現実には嘘(実際の紙1枚の価値は印刷代含めても何十円程度)、「会社という組織」だって目に見える形では存在しない、目に見える例えば「社員」や「オフィス」自体は「会社」ではない。

ホモ・サピエンスが発明した大きなものの一つに「貨幣」があるのでそれを例に取るけど、「1万円札が実際には数十円程度の価値しか無い」というのは誰でも分かっている。だけど「これには1万円の価値がある」という虚構、つまりある意味「嘘」を全ての人が信じている。だって町で1万円払って相手が「ちょっとまってよ、これ数十円の価値しか無いでしょ。もっとちゃんと価値あるもん(なんだろ、リンゴとか貝殻とか?)ちょうだいよ」とか言い出したらもうなんか無茶苦茶になっちゃう。

こういう「想像上の現実」を作り、信じ、広げる力がホモ・サピエンスの特徴、、という話。

なるほどねぇ。


あと、この本の良いところをもう一つ、特筆しておきたいのだけど、翻訳が素晴らしいと思います。原文はもちろん読んでないから分からないのだけど、こういう系の本ってなんか難しかったり読みづらかったりするじゃん。だけどこの本はすごく読みやすい日本語でサクサク読み進められた。その点でもオススメです。

不機嫌な長男・長女

2017-03-21 16:40:19 | 
僕はあまり「血液型診断」ってものを信じてない。いくらなんでも数億人の人間たちが、血液の因子だけで4タイプに分けられる、ってのはどう考えても雑駁すぎないかい?と思うところがあるから。

ただ、「血液型による性格の違い」という点においては「刷り込み」はあるだろうな、と思っている。

A型の人が「君はA型だから几帳面だよねー」と言われ続けると、「そうか、自分はA型だから几帳面なのか」と思い込む、という点はあると思う。僕の知り合いで、物心つくまでずっと自分はA型だと思っていて、20歳近くなってちゃんと調べたら実O型で、分かった瞬間けっこうがさつになった、って人もいる。

「血液型占い」も同様。僕は蠍座なんだけど、蠍座がみな「ミステリアスな冒険家」って訳でもないだろうと思う。

ただ一方で「兄弟(姉妹)構成による性格の違い」ってのは結構あるかもな、と思っている。

例えば。

小中高大を通じてこの年になっても仲良く付き合っている同い年の男友達って僕も含めて長子(一番上っこ)が多い。また、同じく僕が仲良くしている同じく女友達って末っ子が多い。もちろん長子・末っ子じゃなきゃ友達になれない、ってわけではない。結果として、って意味ね。これまた例えば、僕の先輩(年上)で仲良くさせていただいている人って男性は末っ子が多く、女性は一番上っ子が多い。変な話になるけど、今まで付き合ってきた女性は、長子・中間子(上と下に兄弟・姉妹がいる人)・末っ子・一人っ子といたけど、それぞれ、うんまぁゴホンゴホン。ま、その話はいいか。

ちょっと正確なデータは忘れてしまったけど、「日本の公立学校の先生は長子の確率が高い」というのを聞いたことがある。子供の頃から下に誰かがいてある意味面倒を見なくてはいけなかったので、その結果、「人に教える」ということを好む、あるいはあまり苦にしないという傾向が高いのかもしれない。またある時のサッカー日本代表の選手の内、かなり高い確率で「兄がいた」というのも聞いたことがある。小さな頃から自分より身体の大きい兄を相手に練習したことにより技術が高まったのかもしれない。

とにもかくにもこの兄弟姉妹構成理論というのは何の科学的根拠も無いのでま、そのおつもりで聞いて欲しいのだけど。加えて海外の事情もよくわからないからあくまで日本の話としてね。

お酒飲んだ時なんかに僕はよくこの兄弟姉妹構成理論についてだらだら語ったりする。

僕の両親はふたりとも末っ子。我が親ながら「末っ子だなー」と感じることがある。僕には2人妹がいて、つまり彼女たちは「中間子と末っ子」ということになるけど、2人を見ていても「真ん中っ子だなー」とか「末っ子だなー」と思うことがある。上の妹が旦那(この人は末っ子)と結婚し娘が生まれて、僕にとっては初めての「姪っ子」ということになるわけだけど、その姪っ子がカワイイのはもちろん、「おお、やっと一番上っ子の仲間が出来た」とちょっと嬉しかったのを覚えている。その気持は特にその姪っ子に妹(僕にとっての二人目の姪っ子)が生まれた時に更に強くなった。それまで彼女は「一人っ子」だった訳だけどこれで完全に「長子」となり「やった!完全に仲間だ!」と思った。今は下の妹(旦那さんは末っ子)にも娘がいるけどそっちはなにせ「一人っ子」だからねぇ。

もちろん「男3人兄弟の」とか「女・男・女3人の」とか性別による違いもあるだろうけど、そこは一旦置いておいて。あくまで長子・中間子・末っ子・一人っ子で結構正確は違うものではないかと思っている。

あ、そうそう、これはまったく普遍性無いと思うし、あくまで僕の半径3mくらいで調べた結果だから一般論として取らないでほしいのだけど「パンチラ」ってあるでしょ?ほら、おパンツがチラッと見えるやつ。(なんだこの説明は?(笑))それに興味がある男性と「別にそんなの嬉しくないなぁ」という男性がいるんだけど、前者は「男性のみの兄弟の中で育った」って人が多い。あくまで僕調べね。ま、その話すると長くなるので割愛。もちろん、別にパンチラが好きだって構わないと思いますよ。それは個人の嗜好ですから。

兄弟(姉妹)構成で、僕がよく言うのは「長子」というのは人生のどこかのタイミングで大きなパラダイム(ものの見方)の転換を迎える。つまり、長子というのは最初は「一人っ子」として生まれ、その後、下に子供が生まれることで「長子」になる。それまで親や周囲の視線や愛を一身に浴びていたのが下に子供(弟/妹)が生まれたことでいきなり「兄・姉」である「長子」になる。「中間子」も同様。最初は「末っ子」として生まれその後「兄であり弟でもある/姉でもあり妹でもある」という「中間子」になる。この転換というのは人格形成に意外と大きな影響を与えているんじゃないかな、と思う。

一方、「末っ子」「一人っ子」は原則的に生まれてから死ぬまで転換はしない。

※念のため言うけど、どっちがいい悪いという話じゃないからね。あと戸籍上の話も別。戸籍上で言えば僕は今は一人っ子なんだから(妹二人が結婚して家の戸籍から出たので)。

こういうことを理解しておくとたまに「ああ、だからか」と思うときがあくまで僕の個人の印象としてある、ってだけ。

例えば以前「アナと雪の女王」という映画があったけど、あれは姉エルサと妹アナの話でしたよね。僕自身、子供の頃に二人姉妹(僕自身の妹2人)を見ていたから映画を見ててとても良くわかった。そうだそうだ、上の妹の娘2人も二人姉妹で、彼女たちのことを小さな頃から見ていた、ってこともある。エルサはまさに「姉」だったしアナはまさに「妹」、というか「末っ子」でした。あの話、もしエルサが妹でアナが姉だったらあんな話にはなってないと思う。

こういう話するたんびに人によっては結構面白がってくれて、「おお、いつか新書にでもまとめようかなー」と思っていたのだけど先を越された。(←妄想)


不機嫌な長男・長女 無責任な末っ子たち 「きょうだい型」性格分析&コミュニケーション

まさに僕が考えていたような「兄弟・姉妹構成による性格の違い」の話。

まぁ詳しくは読んでいただくとして、特に僕が「おお」と思ったのは長子・中間子・末っ子・一人っ子それぞれとの巧い付き合い方の項目がある。そこに「長子を誘う時に上手くいく言葉」というのがある。

長子を誘う時に上手く行く言葉、それは。。

「みんな待ってます」

そう!それなんだよ!長子が求めている言葉は!!(笑)

「なんだよー、結局オレが行かなきゃダメなのかよー。ちょっと面倒だけど、なに?みんな待ってるの?じゃあしょうがないかー」と長子は満面の笑みですぐ向かうね(笑)

新聞読み比べ

2017-03-16 02:34:41 | 
9時の飛行機に乗ろうと思って空港に行ったら「機材整備のため12時に遅延」だってさ。

まぁ、仕方がない、LCCだからねー。

空港で3時間空いてしまった時、僕はラウンジに行く。どの空港も待合ラウンジみたいなのがあって、特定のクレジットカードを持ってたりすると入れたりする。そういうラウンジってだいたい飲み物が飲み放題で新聞雑誌が置いてある。

で、コーヒーを飲みながら新聞の読み比べをする。

新聞の読み比べの面白さってのはこの本を読めば面白さが分かる。


芸人式新聞の読み方

これは、東京ポッド許可局というラジオ番組をやっている人の一人であるプチ鹿島さんという芸人さんが出した本。このプチ鹿島さんという人は、各種新聞(主要新聞に加えて各種スポーツ新聞も)を全部読み、それらが何をどう語っているのか、ということを語ることを芸にしている。

と、言うとすげー堅苦しいように感じるかも知れないけどそうじゃない。

つまりこの人はある種の「野次馬」(褒めてます)であって、それを面白く語る、というのが芸になっている。そしてこの人のおかげでひとつの事件が立体的に「事実」となって浮かび上がってくる。

ほら、「群盲象を評す」って言葉があるじゃないですか。

--
ある時、盲目の人たちが象を触った。ある人は足を触り「これは柱です」と言い、ある人は尾を触り「これは網です」と言い、ある人は腹を触り「これは壁です」と言い、鼻を触った人は「これは枝です」と言った。
--

つまり何が言いたいかと言うと、色々な人の意見その一つ一つは、もちろん間違ってはいないけど全体を表してはいない。その意見すべてを足したものが正しい、と。

もちろん我々も全ての新聞を読んで、それで判断するのが正しいのだろう。だけど現実的にそんなこと毎日は出来ないでしょう?僕だって今日、朝日・読売・産経・日経・日刊スポーツを読んだんだけどそれだけでなんだかんだ2時間くらいかかりましたよ。

そんなの遅延した飛行機待ちという特殊な時間でしか出来ない。

それをプチ鹿島さんは毎日6誌くらいを読み比べしてそれを語ってくれるわけでありがたい。

空港のラウンジって新聞はまぁたくさんあるから。こういう時にしか読み比べは出来ないからねー。

結果的に今日の飛行機は欠航。まーいいけどねー。

「騎士団長殺し」が身体に来た個人的なみっつの事柄。

2017-03-05 19:57:59 | 

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編


騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読んだ時にも思ったけど、やっぱり、とんでもない小説だよな、と思う。話の筋だけを思い返せば「あのさ、貴方いったい何を言ってるの??」という話なんだけど、やっぱりぐいぐい「読ませる」、村上春樹の小説にそういうことを言うのも今更ながらほんとにに失礼な話だけど。とにかく、読ませる、脳というか身体に来る(気がする、僕はね)。

前に書いたとおり、かなり前からAmazonで予約注文をしていたのだけどしばらく家を留守にしていたせいで発売日には受取る事ができず、手に入れたのは3月2日だった。「まぁせっかくだからちょびちょび読もうかな」と思っていたんだけどやっぱり読み始めたら一気に読んでしまった。少し出かけるときがあったりすると「ああ、早く家に帰って続きが読みたいな」と思うくらい。(家でゆっくり読みたかったので外出するときには持ち歩かなかった)

小説の内容とはまったく関係無いけど、「身体に来たなぁ」と思うことがみっつあって、まずひとつ目。

僕は最近、家に居るときにはラジオばかり聴いている。ラジオだと普通に音楽を聴くのと違って人の喋り言葉が多いから、「ラジオ聴きながら本なんて読めないよ」という人もいる。でも、僕は大丈夫。ラジオかかっていても本は読める。だけど、この本のときには一切ラジオがダメだった。もちろん、ラジオが気になってしまうくらい本の内容が云々という訳じゃない。ただダメだっただけ。なので、ラジオをとめて音楽を聞こうとしたけどいわゆる「歌声のある曲」もダメだった。そしてインストゥルメンタルでもジャズはダメ。幾つかの種類の音楽を試してみて結局、交響楽がしっくり来たのでこの小説を読む時はずっとそれをかけていた。そんな種類の音楽、僕は日頃、ほとんど僕は聴かないのに。不思議なものです。

ふたつ目。とにかく読みながら、腹が減った。腹が減ったというより何かを口に入れたかった。最近、ほとんど間食をしないのだけれどそれでもこの小説を読んでいる間はとにかく何かを口に入れたくて、読み進めたいのに、何かを口に入れたいという欲求が高まって、開いた本を家のテーブルに置いたまま、スーパーに行ってスナックを買ってきて、家に戻り、スナックの封を開けてまた読み進める、ということをやっていた。

みっつ目。読みながらとにかく村上春樹の過去作を読み返したくなった。特に「ねじまき鳥クロニクル」と「ダンス・ダンス・ダンス」。読み返したいのだけど、待て待て、と。とりあえず今、この小説を読み進めようよ、と思ったけど、読み返したくて。耐えきれずちょっと寝る前に少しだけ読んでみたりした。改めて読み返してみると「ダンス・ダンス・ダンス」ははっきり言って「ギャグ小説」だよな、と思った。軽いとか馬鹿げてるという意味じゃなくて。思わず「プッ」と吹き出してしまうところばかり目についた。

というのがみっつ。とても個人的な感想でまったく他の人に同意してくれるとは思えないけど。

繰り返しになるけどやっぱりとんでもない小説だと思う。

非常に偉そうな言い方になるのでどうか許してほしいのだけど、「多崎つくる、」の時も思ったけど「この話をちゃんと理解出来るのは世界で僕だけなんじゃないか?」と思う。もちろんそんなことはない。むしろ僕はこの小説についてほとんど何も理解していないだろうと思う。でも「この小説はもしかしたら世界で僕だけのために書かれたんじゃないだろうか?」と思う。もちろんそんなことあるわけない。でもそう思う。数百万人がこの小説を読んで、たぶん同じように感じるんじゃないかな、と思う。

ゴールデンカムイについての個人的考察

2016-12-19 12:55:22 | 
面白い面白いと評判の漫画ですが、実際読んだら評判以上に面白かった。


ゴールデンカムイ 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

簡単にあらすじを。時は日露戦争直後(西暦1910年くらい?)、二〇三高地戦の生き残り、杉元佐一は「アイヌ埋蔵金」の話を聞き、アイヌの少女アシリパと共にそれを追う。そこに実は生きていた土方歳三、更に陸軍第七師団が絡み、三つ巴の争いになる、、、というもの。

どこがどう面白いのか、というのは読めばわかるとして、僕なりの「うーん、この漫画の設定がうまいな」と思う点。

この漫画が面白いのはストーリーやキャラクターの魅力があるとして、その前提として僕は「時と場所」が巧いと思っている。

時というのは1910年という時代設定。ちょうど100年ほど前、現代を生きる我々にとってギリギリ、ほんとうにギリギリ地続きの時代だと思う。例えば、僕の母方の祖母がちょうど生まれた頃。このように、ギリギリ3代前、4代前の先祖が生きていた時代ということになる。事実、この作品の主人公「杉元佐一」の名は作者の曽祖父の名から取っているらしい。

歴史的な事実で言えば、夏目漱石が「三四郎」「それから」を出版したり、アメリカではライト兄弟が飛行機を発明し、自動車(T型フォード)なんてのが出ている時代。

作中では出来たばかりの札幌ビールを飲みながらカレーライスを食べるシーンも出てくる。

このように、非常に「現代」に近い。

一方で、昭和ほど我々に「近すぎない」ので、ある程度「嘘はつける」時代でもあると思う。例えば主要登場人物として「土方歳三」が出て来る。史実では土方歳三は五稜郭で戦死しているわけだけど、それが実は生きていたという設定。これもこの時代なら「まぁあるのかもな」と思える絶妙な時代だと思う。実際、新撰組の原田左之助は戊辰戦争を生き残り、満州に渡ったという伝説もあるくらいだから、あの時のドタバタならなんとかギリギリ、通る設定じゃないかと思う。

もう一つは「場所」、つまり「舞台が北海道」であるということ。

作中では殺し合いも起こるし、山中でヒグマに襲われたりもする。僕は北海道に多少いたことがあるのですごく感じるんだけど(もちろん人殺しだのそういうのは無いよ)、北海道の夜の山中などを通っていると「もしかしてここで死んでもしばらくは発見されないかも知れないな」とは思った時があった。ヒグマについても本州の人間よりも、北海道の人間は意外と近く感じる。「昔、ここでヒグマに襲われて○人亡くなった」なんて話は歴史的事実として頻繁に聞くし、現代においても「札幌市内のどこどこにヒグマが降りてきて警察が出動した」なんてニュースはたまに聞く。

北海道は本州に住む人が考えるよりももっとずっと自然は深い。しかも明治の北海道であればそれはもっと深かったのではないかと思う。

「明治時代の北海道」というのはある意味、アメリカにおける「西部開拓時代の西部」と言ってもいいんじゃないかなと思う。一攫千金を狙う有象無象の人々が集まる場所、みたいな。そうそう、そういえばこの漫画も少し「西部劇」っぽいところもあるよね。茨戸の攻防戦なんて完全にマカロニ・ウェスタン的だった。もちろんそれはマカロニ・ウェスタンがインスパイアされた黒澤明の「用心棒」的要素があるからなんだけど。


さて、面白いのは保証付きのこの作品、更に掘り下げて、最近、僕が考えている「悪の論理」と「FOOD理論」から書いてみます。

以降はかなりのネタバレなのでぜひ作品を読まれてから読むことをおすすめします。


まず「悪の論理」というのは最近、僕が考えていることなんだけど、作品における「魅力的な悪役」というのはその人なりに一本筋が通った「論理」がなくてはいけないのではないか、ということ。

例えばね、作品に出てくる悪役として「世界征服をしてやるー」という悪役がいたとしましょう。よし、世界征服が目標ならそれはそれでいい、でもさ、その人は世界を征服した後のビジョンがあるの?世界を征服するのは出来るかもしれない、でも征服した後は大変ですよ~。経済はどうするの?税金は?各国、民族が違うんだけどそれをどう統一するの?そういうビジョンもなしに「世界征服じゃー」なんて言うのはそりゃずいぶん短絡的じゃあ無いのかい?と思うんです。

そもそも、世界征服しようと思ったら部下が必要なわけだけど、そんなビジョンも無い上司に部下がついていくと思いますか?世界征服じゃなくてもいいよ、例えば「たんまり金儲けがしたいんじゃー」という悪役がいたとして、そんな人に部下がついていきますか?行かないでしょう?

こういう悪役には魅力が無い。悪役に魅力がなければ結果として作品にも魅力が出てこない。

魅力的な作品というのは、悪役が魅力的で、もちろん主人公も魅力的で、その二者それぞれに筋の通った論理があり、どちらも正しい2つの論理がぶつかり合い、結果、主人公が勝つから、そこにカタルシスや爽快感が生まれる、というものだろうと僕は思う。

例えば「ジョジョの奇妙な冒険」の悪役DIOには明確な論理があった。それは有限の生しか持たない人間という存在を超え、永遠の命を獲得すること。しかし、ジョナサンは永遠の命よりも「人としての死」を選んだ。これが人間賛歌ッ!いや、ジョジョの話は止めよう、長くなるから(笑)

繰り返しになるけど、悪役には悪役の一本筋が通った「論理」、部下や、場合によっては読者すらをも引きつける魅力的な論理が無いと、その悪役が魅力的に映らない、ということ。

「ゴールデンカムイ」に話を戻せば、物語上、主人公と対するのは鶴見中尉率いる第七師団(帝国陸軍の一部隊)と、土方歳三の一味。

鶴見中尉のこの作品における「動機」、つまり埋蔵金を追う理由は作品の中で明確に、本人の口から語られている。

曰く、

「軍事政権を作り、私が上に立って導く者となる」

鶴見中尉は日露戦争において、自身は反対していたものの無能な上層部により無茶な作戦に参戦させられた。結果として部下を無駄死にさせ、戦争に勝ったにもかかわらずろくな恩賞も得られなかった。無駄死にした部下のためにも、同じように部下を無駄死にさせないためにも、自身が上に立ち、北海道の豊富な資源を使い、産業を発展させ、軍事政権を作る。そうすれば少なくとも自分がさせられたような無謀な作戦で兵士が無駄死にすることは無くなる。発展した産業は兵士の家族に仕事を与えることになる、そうすれば兵士が戦争に行ったとして家族は飢えない。なるほど、それは筋が通っている。だからこそ、忠実な部下である月島は鶴見中尉の指令にも従っているのだろうと思う。(あくまで僕の印象だけど鶴見中尉がこのことを宣言するシーンはレーニンに重ねられていると感じる)

また、同じく土方歳三一味も「北海道を独立国にする」という目的のために金塊を追っている。これまた筋が通っている。なぜなら彼らは一度は「蝦夷共和国」として北海道を独立させたから。(歴史的解釈は色々あるだろうけども) 江戸幕府のために明治政府と最後まで戦い続けた土方歳三がまたそれを続ける、というのは筋が通っていることだろう。

このように、この作品において第七師団と土方歳三は主人公に対する敵役ではあるんだけど、この2者の論理の筋が通っているからこそ魅力的に見え、それが作品を魅力的にしていると思う。


そしてもうひとつ「FOOD理論」。これはお菓子研究家の福田里香さんという方が唱えている理論で、一種の「キャラクターの描き方」の話。

基本的な「FOOD三原則」というのがあって、それは、

1,善人は食べ物を美味そうに食べる。
2,悪人は食べ物を粗末に扱う。
3,正体不明者は食べ物を食べない。

というもの。

単純にね、例えば作品の中である男が出てきて、炊きたてご飯の上にタバコの吸殻をギュッて入れたら、それ以降、そのキャラクターのことを好きになれないでしょう?あるいはどんぶり飯を美味しそうに食べている人がいるとしたら少なくともその人は悪い人ではないんじゃないか、と思う、そういうキャラクターの描き方の話。

このゴールデンカムイ、グルメ漫画でもあってとにかく料理を作って食べるシーンが出て来る。



例えば、こんな風に食べ物を美味しく食べている人たちは確実に「いい人達なんだろうなー」と思える。

それが敵役でも一緒なんです、実は。

例えば土方歳三は「お茶漬けに刻んだたくあんを載せたやつ、と松前漬け」を食べるシーンがあるし、鶴見中尉は小樽名物花園団子を食べるシーンがある。鶴見中尉は少し頭のネジが外れた、人間離れしたキャラクターではあるけど、その彼が「スィーツを食べる」という描写が非常に興味深い。ちなみに鶴見中尉の苦手なものは「酒類」とある。残虐なんだけど酒はやらず甘党ってのは、、歴史上いろいろいますね。例えばヒトラーは酒タバコをやらず菜食主義者で甘党(チョコレート大好き)だったそう。

このように、敵役も「食べ物を食べる、血の通った人間」として描かれている。ここがやはり「敵役のキャラクターも魅力的に描かれてる」という所以なのではないかと思う。

この漫画は確実に「食べ物に関する話」でもあると思っている。

例えば、「食うか食われるか」という言葉があるけど、ヒグマとの戦いなんて本当に、文字通り「食うか食われるか」の戦いなわけだし。実際、食われちゃう人もいるし、ヒグマ取って食べてるしね。

実際、第一話の3コマ目で既に食べるシーンが描かれている。つまりこれって「この漫画は食う話ですよ」ということだろう。


そのうえで僕は考えるのだけど、この作品のメインキャラクターたちのキーワードは「過去」なのではないだろうか。この作品の軸は「金塊を追う三者の三つ巴の戦い」なわけだよね。三者というのは杉元&アシリパ、土方歳三、第七師団(鶴見中尉)。この三者は実は共通する動機があって、それは「過去に囚われている」ということ。

杉元は故郷に残してきた思い出に、土方歳三は自分が所属していた新撰組、というかいわば「もう既に時代遅れとなってしまった武士社会」に、鶴見中尉は報われることの無かった日露戦争で散った部下たち、いわば「軍人としての後悔」に、囚われている。そういう点では三者とも「過去の奴隷」とも言えて、結局同じ存在なのだ、とも言える。

そして、主人公である杉元だけが「未来」を味方につけている。未来とはそう、アイヌ語で「未来」を意味する名を持つ「アシリパ」のことです。アシリパの存在こそが彼を主人公たらしめていると僕は思っている。

アシリパはアイヌの娘なわけだから最も古い「過去」を背負っている存在とも言える。杉元より土方歳三より鶴見中尉より昔からアイヌは北海道に居たわけだからね。でも彼女自身は過去に囚われることなく(アイヌの伝統は大事にしているけども)、自分自身で「私はアイヌの新しい女だ」と言うように未来に向かっている。

三者(杉元、土方歳三、鶴見中尉)の男が過去に囚われていて、女性のアシリパだけが未来を観ている、というのはとても現代的だとも思うけど。

ということで、おすすめです、「ゴールデンカムイ」。