浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

ローマ人列伝:プロローグ『残りし名』

2011-03-30 00:12:57 | ローマ人列伝
紀元前264年に始まった、ローマと強国カルタゴの戦い、ポエニ戦役。この戦争は両国の地中海における覇権を争い100年の長きにわたるものでした。

その始まりとなった第一次ポエニ戦争にてカルタゴ軍の誇る象兵に果敢に立ち向かった一人の兵士がいたと伝えられています。

残念ながら彼の名は残ってはいません。

しかし、古代ローマ語で「象」を意味する彼の仇名は以後、彼の家族名となり残ることになります。

そしてその名は一族が生んだ一人の天才により、後の世にも、現代にまで残っています。




「象」、古代ローマ語でカエサル。



…to be continued...

残るのだ、何百年だって

2009-10-05 00:12:55 | ローマ人列伝
上野でやってる「ローマ帝国の遺産展」に行ってきました。


アウグストゥスの立像だのミネルヴァ(ギリシャ語で言えばアテネ)像だのが見られるとあってはそりゃ行くわいな。

少し続いた雨も完全に上がり秋晴れの日曜という芸術鑑賞には最適なお日柄ながら人出はまばら。

今まで上野で色々な企画展見たけどこんなにがらがらなのは初めてかも。

ありがたいこった。

待ち時間0分で入るとロビーではプロモーション的な動画が流れてる。

これがね!個人的にはすごく良かった。

僕が一番、現場で見たいと思っている「平和の祭壇(アラ・パチス)」をレーザー・スキャンで復元した映像。


アウグストゥスの功績をたたえ作られたこの祭壇には、アウグストゥス一家が刻まれてるんですわ。当然、右腕のアグリッパ、養子のティベリウスなど僕の好きなユリウス=クラウディウス家の人々が勢ぞろいなんです。

血にこだわったアウグストゥスにとって紀元9年に出来たこの祭壇は人生至福の時だったんだろうけど、その後の運命を見ると涙無しでは見られない。子や友(アグリッパ)に先立たれたアウグストゥスは70歳まで生きた人生で、この祭壇をどういう気持ちで見たんだろう?

ローマには「アラ・パチス美術館」というこのアラ・パチスだけを展示する美術館があるそうで。一生に一回でいいから見に行きたいなぁ。

で、本編。

ローマの遺産展に入るとまず第一部、帝国の誕生から。

一発目にオクタヴィアヌス(アウグストゥス)の胸像があるんだけど。

なんとなく「ふーん」と思っちゃいそうだけどいやいや、これね!紀元1世紀のものなのよ。

そんなものが、この時代に残り、ローマから上野まで来て、僕の目の前にある、というだけでぐっと来るね。

アウグストゥスだけじゃなくて、アグリッパやティベリウスの像もある。それぞれ初見だけど「ああ、ご苦労様でした…」と声をかけたくなる。

あと良かったのは「ユリウス=クラウディウス一族の若い女性の胸像」。これはネロの妻だったポッペアの面影もあり。男性が強い一族の中でこうやって、名前こそ残らないものの、顔が残る、というのはまだ良いものなのかも知れないね。

それから、コインがよかったなぁ、やっぱり。コインってたぶん使われていた時代には何千人、何万人の手を渡ってきてるよね。そしてそれが更に時代を超えて今目の前にあると、、、ヨヨヨ。ネロのコインもあってそれがまた良かった。「ま、大変だったよなー」とコインに刻まれてるネロの横顔に声をかけたくなる。

あとはポンペイで、ある家にあったモザイクとかもね。綺麗だった。

というわけで、あんまり混んでないです、「ローマ帝国の遺産展」

ぜひどうぞ。

予習として「ローマ人の物語」の「パクス・ロマーナ」を読んでいくと更に楽しめると思います。


とにもかくにもアウグストゥスという一人の凡才(養父ユリウス・カエサルに比べたら誰だって凡才なわけだけど)が作った帝国は、こうやって何百年の後にも人を魅了するものなのだ。それでいいのだ。

ローマ人列伝外伝:四皇帝の一年 2

2009-07-26 21:58:11 | ローマ人列伝
皇帝に就任したオトー。


ローマ本国に育ち、ネロとは遊び仲間でした。ネロが彼の妻ポッペアを見初め彼女を奪うためにネロにより属州勤務を命じられた経緯があります。

普通の男であればその時点でやる気を失い、属州では適当に過ごすことでしょう。しかし彼は属州で以前の彼を知るものがみな疑うような働きぶりを見せます。その彼が皇帝としてローマ本国へ凱旋。ガルバ不人気の反動で元老院とローマ市民は彼を歓迎します。

しかし皇帝となった彼には就任前から火種がひとつありました。それはローマ本国から離れたゲルマニア(今のドイツ)の軍団兵が反ガルバを旗印にヴィテリクスという軍人の皇帝就任を求め反乱を起こしていたこと。

もし今の時代であれば既にガルバが死んだことはすぐに彼らに伝えられたはずですが、これは今から2000年前のローマの話。このようなニュースもすぐには届きません。そしてニュースを伝えようと馬を走らせている間もゲルマニア軍団の反乱準備は着々と整っていくのです。

ゲルマニア軍団兵が反ガルバ、ヴィテリクス擁立を決定したのが1月2日。オトーによるガルバ殺害が1月15日、そしてそのニュースがゲルマニア軍団兵に伝えられたのは1月末のことでした。

ガルバ殺害のニュースが届いた時には残念ながらゲルマニア軍団兵の主張は「反ガルバ」ではなく「皇帝ヴィテリクス誕生」で固まっていました。皇帝がガルバからオトーに替わっていようと主張は変わらないのです。ゲルマニア軍団兵はオトー討伐のためにローマ本国へと進軍を開始します。

皇帝オトーは皇帝となるや否や、皇帝の職務よりも自分の防衛を優勢しなければならなくなってしまったのです。

ゲルマニアの軍勢は総勢10万。たいしてオトーが差しあたって使えるローマ本国防衛軍はたったの1万。これは本来ローマ帝国の軍隊は属州の最前線防備が基本であり、ローマ本国には最低限の軍備しか置かない、という理由によるものです。(カエサルの時代から属州総督はルビコン河からローマよりに軍を率いてはならない、という決まりがありました)

まず、オトーは穏便に済ませる作戦を取ります。ゲルマニクス軍団の旗印ヴィテリクスに対して共同皇帝就任を要請したのです。

ヴィテリクスが冷静に状況を判断できる人間であれば、共同皇帝就任の要請はこれ以上無い結果だったでしょう。しかしヴィテリクスはこの要請を一蹴。このヴィテリクス、10万のゲルマニア軍に担ぎ上げられ既に「このまま行けば自分は皇帝になれる」という野心しかない人間でした。オトーのヴィテリクス懐柔策は失敗に終わります。

圧倒的劣勢の中、オトーにはただひとつだけ希望がありました。それは彼とはまったくかかわりのないドナウ軍団兵10万がオトー支持を表明したこと。これはゲルマニア軍団兵とドナウ軍団兵の不仲によるものであり、ドナウ軍団兵にとってオトーは敵の敵、つまり味方なのです。ドナウ軍団とオトーにはそもそも関わりはありませんでしたが、ドナウ軍団は「オトー支持のためにゲルマニア軍団との戦いも辞さず」と強いオトー支持を表明します。

勝負はどちらが先にローマ本国に到着するか、にかかっていました。

そしてスピード勝負で言えばドナウ軍団兵に利がありました。なぜならゲルマニア軍がローマにたどり着くためには名将ハンニバルも苦戦した「冬のアルプス越え」を行わなければならないからです。一方、ドナウ軍団がローマ入りするためには気候の温暖なアドリア海沿いに進軍すればよく、比較的容易でした。

しかし皮肉。この冬は暖冬でゲルマニア軍はなんなくアルプス越えを果たしオトー軍の元にたどり着きます。決戦を行いますが当然、数に勝るゲルマニア軍の勝利。オトーは追い詰められます。救援のドナウ軍団もすぐそこまで迫っては来ていましたが、オトー、後の歴史家の誰もが「潔い死に様だった」と評する自害を遂げます。オトーの側近は「ドナウ軍団を待つべき」と主張しましたが、おそらくオトーは自分が殺害した前皇帝ガルバの最後を思い起こしていたのでしょう。ガルバの最後は首をさらされ足蹴にされるものでした。そのような最後を遂げないためにあえて死を選びます。

第七代ローマ皇帝オトーの在位は69年1月15日から4月15日までの三ヶ月間でした。

オトーを倒し皇帝になったのはヴィテリクス。

カリグラ、クラウディウス、ネロの時代にうまく出世しただけの男です。残っているエピソードは「大食漢で一度の食事が10万デナリウスもかかった」「オトー征伐の際、兵糧費用を惜しみ途中の村から略奪した」「ガルバが彼をゲルマニア総督に任命したのはゲルマニア軍団が反乱しないよう無能な男をトップにしたかったから」などというものしかありません。皇帝が「実力」で選ばれるのであれば皇帝の座には無縁の男だったでしょう。

皇帝になっても彼は何一つ有用なことはしませんでした。ただ豪勢な夕食にうつつを抜かしていただけ。

当然、元老院、ローマ市民も総すかん。

そしてシリア、ユダヤ、ドナウの属州を味方につけたヴェスパシアヌスという軍人が反ヴィテリクスを表明します。各地でヴェスパシアヌス軍に破れる自軍の報を聞き、ヴィテリクスは自ら皇帝退位を表明。しかし既に時は遅く彼は近衛兵に捕えられ処刑、遺体は皇帝廟どころかローマを流れるテヴェレ河に重罪人の遺体と共に投げ込まれます。

皇帝ヴィテリクスの在位は69年4月15日から12月20日まで。半年間の出来事でした。


ヴィテリクスを処刑したヴェスパシアヌスが皇帝になったことでガルバ、オトー、ヴィテリクス、ヴェシパシアヌスと皇帝が4度も変わった「四皇帝の一年」は終わりを告げます。そして四皇帝の最後の一人となったヴェスパシアヌスの皇帝在位期間は以後10年続くこととなります。

この一年はローマにとってはハンニバルの襲来に勝るとも劣らない危機の年でした。しかもその危機は外敵によるものではなく「ローマの内から」始まったものでした。それもこれも「皇帝システム」の崩壊により、「実力のあるものが皇帝になれる」という状態が生まれたことによります。テロ、というものは常に、一箇所に権力が集中し「それを倒せば権力を得られる」という状態から起こるものです。

アウグストゥスが作った、「血統」という先天的な素質が皇帝に必要な「皇帝システム」は実はテロ防止策だったのかも知れません。たとえ実力により皇帝を殺したとしてもその人間に「血統」が無ければ皇帝にはなれないのですから。

この後、「実力」というノンフィクションと「皇帝の血統」というフィクションを存分に活用したネルヴァという皇帝誕生以降、『五賢帝の世紀』と呼ばれる100年が来ることになるのは、ヴェスパシアヌス皇帝就任から20年後のこと。

その20年の間に皇帝は3人変わりました。

変わらなかったのはヴェスパシアヌス皇帝が建設を開始し5年の月日をかけて建てられたコロッセオの雄大さのみ。



<ローマ人列伝外伝:四皇帝の一年 完>

ローマ人列伝外伝:四皇帝の一年 1

2009-07-24 20:39:56 | ローマ人列伝
ローマ人列伝、第一回スタートが実は2008年1月。1年半くらい続いてる、ってことになりますね。

アグリッパから始まり、最近だとアグリッピナ&ネロ。

ローマ史の僕が好きなところはやっぱりこの辺の時代なんです。(カエサルは別格。)カエサルの死んだ紀元前44年からネロの死ぬ紀元68年までの100年、ユリウス・クラウディウス朝です。やっぱり良かれ悪かれタレントはそろっていたし。

カエサルの活躍がたとえばスターウォーズで言うと「New Hope」(新たな希望、って訳はどうもね)だとするとアウグストゥスが「帝国の逆襲」、ネロあたりが「ジェダイの帰還」ということになるかね?もちろん内容はまったく違いますよ、単なる流れとして。そうなるとハンニバルはエピソード1ということになるわけで。

だからネロで一応第一シーズン終了、という感じです。

もちろんこれからも書くけど。

さて、今回は外伝。

この列伝は基本的に一人の人物について書いていっていますが、ここでちょっと趣向を変えてローマ史における奇妙な一年について書いてみたいと思っています。

それは後に「四皇帝の一年」と呼ばれる紀元69年です。

ユリウス・カエサルがグランドデザインを描き、初代アウグストゥスが形にし、第二代ティベリウスが磨いた「帝政ローマ」。

彼らの血統、ユリウス=クラウディウス朝による「皇帝」というシステムは約100年続きます。途中、第三代皇帝、悪帝カリグラにより一度はそのシステムが揺らぐものの、無事、第四代クラウディウス、第五代ネロと受け継がれます。

受け継がれた、とはいえそこはほとんど政略結婚による血統継承。事実を明らかにしてしまえばアウグストゥスからティベリウスに受け継がれた時点で彼らの間に血のつながりはほとんどありません。しかし、アウグストゥスが得意だったのは「フィクション」。事実はどうあれ体裁を整えるのは天才的でした。

そのフィクションを破ったのは他でも無い第五代皇帝ネロ自身。彼は皇帝につながる血筋を2つ持っていました。ひとつは初代皇帝のひ孫に当たる母アグリッピナ。そしてもうひとつは第四代皇帝の娘に当たる妻オクタヴィア。

ともあれ彼は「初代皇帝のやしゃ孫であり、第四代皇帝の娘婿」であるから皇帝になる資格があったのです。

そのフィクションとはいえ正統性を彼は自ら母殺し、妻殺しによって失います。

「血統が無くても実力があれば皇帝になれる」というノンフィクションに気づき利用をしたのがローマからは最も離れたところ、ガリアに住むローマ人、ヴィンデックスでした。

ローマ人、と言っても民族的にはガリア人の彼、フルネームをガイウス・ユリウス・ヴィンデックスと言います。

かのガイウス・ユリウス・カエサルと名前が似通っているのは偶然ではありません。

もともとローマ人には自らの部下となった人々に自身の名前を与え今後の協力と保護を約束する風習がありました。ですから彼の祖先はおそらくガリア戦争時代にユリウス・カエサルに服従しその代わりに名前をもらったのでしょう。

中心地から遠い土地ほど旧き君主に忠誠を誓い、旧き君主に反する政治を行う現君主の打倒を企てるというのは日本幕末の薩摩藩を見るまでも無く多いことなのかも知れません。

ヴィンデックスはガリアの地で反ネロ、そして旧き良きカエサル時代復興のため自らの皇帝就任をスローガンに反乱を起こします。

しかし残念ながらこの反乱はガリア提督により征伐されます。

おさまったかに見えたヴィンデックスの乱、しかし話はそう単純ではありませんでした。

反乱を収めたガリア提督はローマ帝国への忠誠のためヴィンデックスを倒したのであり、決して皇帝ネロのためではありませんでした。彼はガルバという名門の将軍を擁立し、更なる乱を起こします。


結果、ネロは自殺しガルバが皇帝に就任するのはネロ伝で記載したとおりです。

ネロの死とガルバの皇帝就任が68年のことです。

ガルバ皇帝就任により「血統」による皇帝システムという「フィクション」は終焉を告げ、「実力」のあるものが皇帝に就任する、という「ノンフィクション」が始まります。

そして「実力」で皇帝になったガルバが「皇帝としての実力」を備えていれば問題はなかったのです。

しかし、後の世にガルバの「資質」はこう伝えられています。

「良き資質に恵まれていた、というよりも悪き資質がなかったに過ぎない平凡な人物」

ガルバの「悪き資質のなさ」の露呈はまずローマ市民からの人気を失う出来事で始まります。いや出来事が「あった」というよりも正確に言えば為すべき出来事を為さなかったのです。

当時、ローマでは最高権力者は就任や戦勝のたびに「ボーナス」としてローマ市民に祝い金を配ることが通例でした。だいたい通常の年給の3分の1程度。少なくない金額です。このボーナスは市民からの人気に敏感だったアウグストゥス、カリグラ、ネロはとうぜん行ってきましたし、ローマ市民の人気に一切関心の無かったティベリウスですら行ったことです。つまりそれほどまで「やって当然」のことだったのです。

しかしガルバはこれを行いませんでした。曰く「私に必要なのは金で擦り寄る人間ではない」。いや、それはそうでしょうけどさー。皇帝交代により当然この祝い金をもらえると思っていたローマ市民は落胆します。

更にガルバが行ったことはローマ財政建て直しのために「前皇帝ネロが贈った贈り物はローマに返すこと」という命令を発します。ネロは贈り物が好きな皇帝でした。その贈り先は政治家に限らず当時は身分の低かった歌手、剣闘士にまで至ります。その彼らに「返せ」と要求したのです。短かったとは言え皇帝ネロの在位期間は14年。14年も前にもらった物を返せと言われて困惑しない人間はいません。

この出来事でガルバの人気は凋落します。

更に彼は人事の誤りにより大きな敵を作ることとなります。

皇帝ガルバは右腕にローマ本国では名の通っていない軍団長を指名したのです。

この出来事でガルバは2つの敵を作ることとなりました。

ひとつはローマ元老院。彼らはガルバの家系のよさで彼を選んだにも関わらず彼が指名したのは名の通っていない人間。家系を重んじる元老院は反発します。

そしてガルバが乱を起こしたときに属州の提督の中で一番に支持を表明したオトーという軍人。このオトー、名門の出でこのとき36歳。彼がガルバを支持した理由はひとつしかありません。それはガルバの次の皇帝の座。60歳のガルバが皇帝になれば年齢的にはじゅうぶん狙える話です。それがガルバが皇帝になったとたん、役職的にはほぼ無視されたのです。

紀元68年10月に皇帝になったガルバがオトーにより殺害されたのは翌年1月15日のことでした。いよいよ『四皇帝の一年』、紀元69年の幕開けです。

時にノンフィクションはフィクションより残酷です。「フィクション」というベールに包まれたユリウス・クラウディウス朝はそれでも、最短の在位だったカリグラは別としてもネロですら在位14年、陰の薄いクラウディウスでも在位13年は続いていました。
しかしフィクションのベールが剥がされた瞬間、なんと皇帝の在位は3ヶ月。

後の歴史家はこの皇帝ガルバのことをこう称します。

「もし彼が皇帝にならなければ、彼こそ皇帝にふさわしいと誰もが言ったであろう」

…to be continued...

ローマ人列伝:ネロ伝 6

2009-06-14 15:43:52 | ローマ人列伝
ネロがローマ大火の真犯人と言う濡れ衣を着せたのは当時まだユダヤ教の新興一派だったキリスト教徒でした。

彼は非常に極端な解決策を取ります。

まずは目立ったキリスト教徒を捕らえ、そこから芋づる式にキリスト教徒を捕らえ続けます。捕らわれた場合には裁判は起こせず問答無用で死刑。

このキリスト教徒弾圧により、ネロの名は長く「キリスト教徒の敵」として知られます。新約聖書「ヨハネ黙示録」で「獣の数字」として知られる「666」はネロのことを示しているとされています。

この弾圧により殺されたキリスト教徒の一人がイエス・キリストの弟子たちのリーダー、ペトロ。

彼は逆さ十字の刑により殺されたと伝えられています。彼の死んだローマの郊外には後にヴァチカン市国が作られ、彼の名を取ったサン・ピエトロ(聖ペトロ)大聖堂が建築されています。ちなみにロシアの都市、サンクトペテルブルクも彼の名から。

多くのキリスト教徒の断末魔を聞きながらも太り続けるネロ。

(こんな絵画も残っています。ぜひ大きい画像でどうぞ⇒こちら

残念ながらこのキリスト教徒弾圧は「ローマ大火の真犯人をなすりつける」という本来の目的を果たすことは出来ず、むしろ異教徒とはいえ罪の無いキリスト教徒への残酷な仕打ちによりローマ市民のネロの評判は更に下がる一方でした。

「こんなはずではない」とネロも思ったことでしょう。彼の精神は少しずつ崩れ、そしてその決定打となる出来事が起こります。

反ネロ派によるクーデターの計画が露見したのです。もっとも彼の精神を蝕んだのはクーデターの計画自体ではありませんでした。なんとそのクーデター協力者の名の中に古くからの側近、今では政界を引退し学問の世界に生きているはずのセネカの名があったことです。

もしかするとセネカの名は自分が助かりたいばかりに他の犯人があてずっぽうで出しただけかも知れません。しかしそんなことは関係ありません。幼い頃から自分の家庭教師として、皇帝即位後は一番の側近となった師すらいまや自分の敵。ネロの精神が崩壊するにはその疑惑だけで十分でした。

彼はセネカに自害を命じます。当のセネカ、弁明どころかネロに対する言葉ひとつ残さずこの世を去ります。

残ったのはこのようなローマ市民の揶揄の言葉です。

「弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込んだネロにとって、あと残った殺す相手は師だけだろう」

不幸は続きます。待ち望んでいた妻ポッペアとの間に生まれた女子は1歳になるのを待たずに死亡、続いて妻ポッペア自身も病によりこの世を去ります。

これでネロは愛した人をすべて失いました。今のネロにとって身の回りすべては敵。

彼のナイーブな性格は裏返り単なる残虐さだけが表われます。

猜疑心の塊となった彼は少しでも彼に逆らうものを次々と殺していきます。

そして皇帝ネロの名は地に堕ちました。



堕ちた皇帝、どんな時代も最高権力者が落ちればその地位を狙うものが生まれます。

もしアウグストゥスが巧妙に仕掛けた「皇帝の血統」という「ルール」が生きていれば血統を持たない者が皇帝の座を狙うことは無かったかも知れません。

しかしこの「皇帝の血統」というルールを自ら捨て去っていたのはネロ自身でした。

彼は皇帝につながる血筋を2つ持っていました。ひとつは初代皇帝のひ孫に当たる母アグリッピナ。そしてもうひとつは第四代皇帝の娘に当たる妻オクタヴィア。

どうあれ彼は「初代皇帝のやしゃ孫であり、第四代皇帝の娘婿」であるから皇帝になる資格があったのです。

その正統性を彼は自ら母殺し、妻殺しによって失います。

彼は自らの力を過信し「自分が皇帝であるのは血筋によるものではない。そもそも過去の皇帝も血筋でなったものではないではないか。自分が皇帝であるのは『実力』によるものだ」ということを行動を持ってローマ市民に伝えたのです。

間違いではないのかも知れません。アウグストゥスが巧妙に作った皇帝システムのベールを剥いだだけなのかも知れません。

しかしこれは逆に皇帝であるネロの首を絞めることになります。

つまり、「血統が無くても実力があれば皇帝になれる」ということだからです。


これを利用したのが辺境にいたガルバという軍人。

既に60歳になっていましたが名家の出身で若い頃は初代皇帝アウグストゥス、第二代ティベリウスに才能を認められた男です。

彼は軍団を従え、ネロの処刑と自らの皇帝就任を要求しローマ本国へと攻め入ります。

ガルバ反乱を聞いたネロと元老院、早速ガルバを「国家の敵」と任命し、討伐部隊を差し向けることを計画します。

しかし、元老院にはひとつのトラウマがありました。それは約100年前、同じくガリアからルビコンを越えローマに攻め入った一人の英雄のこと。そう、紛れもないユリウス・カエサルのことです。辺境の軍勢がローマ本国を目指し進軍するのは彼によるもの以来。

ガルバ軍の蹄の音がローマに近づくにつれ元老院に動揺が走ります。が、老練な元老院、きわめて冷静に状況を確認します。

100年前のユリウス・カエサルは元老院を敵としてローマに攻め入りました。結果、元老院主導の共和政は終わり、皇帝を中心とする帝政が始まりました。

一方、今回はどうでしょう? 

ガルバは元老院を敵とみなしているわけではありません。あくまでガルバの要求はネロの退任と自身の皇帝就任。ネロに替わりガルバが皇帝になったところで元老院にとって何か不都合があるでしょうか?

元老院全員、翻って皇帝ネロを見つめます。

考えてみればネロは力を認められて皇帝になった男ではありません。あくまで母アグリッピナの策略の「皇帝家の血統」によるもの。その血統もネロ自身が母殺しという方法で断ち切っていました。『実力』が優れるものが皇帝になることに何の問題があるでしょう。

今、明らかに『実力』を持っているのは、軍備の無いローマにいる皇帝ネロよりも、国境を守る屈強な軍団を従えたガルバ。

元老院はガルバを選択します。

ガルバに対する「国家の敵」宣言を取り消し、返す刀で現皇帝ネロを「国家の敵」とします。

結果、ネロはローマを追われ、逃亡の地で自害することとなります。

ネロの最後の言葉は

「これで一人の芸術家が死ぬ」

だったと伝えられています。享年31歳。



ここにユリウス・カエサルから続いた皇帝の血統「ユリウス・クラウディウス朝」は終焉を迎えます。初代皇帝アウグストゥスの共和制復帰宣言、事実上の皇帝就任から95年後のことでした。

以後、皇帝の座を血統ではなく実力で争い1年間で4人の皇帝が交代し、後に「四皇帝の一年」と呼ばれる一年が始まりますが、それはまた別の話。



「国家の敵」ネロの遺体は歴代皇帝の墓である皇帝廟に埋葬されることは許されず、彼の乳母と一人の女性によって広場の片隅に埋葬されます。その女性は生涯、ネロの墓に花をささげ続けたと言います。

しかし、ネロの墓は到底彼女一人がささげたとは思えないほどの花が常にあふれていたそうです。その花をささげたのは他ならぬローマ市民でした。

確かにネロの最後の称号は「国家の敵」でした。確かに彼は義理の弟を殺し、母を殺し、妻を殺し、師を殺し、多くの罪無きキリスト教徒を殺しました。それは許されるべきことではありません。

が、一人の友人としては決して悪い人間ではなかったのでしょう。事実、若き日、彼には多くの友人がいました。市民にとっても決して悪政を行った皇帝ではありません。どちらかと言えば善政でしたし、たまに市民が思いもつかないような愉快なことを行う若者でした。

もし彼の母が皇帝の血統でなければ、彼は愉快な若者として、もしかしたら本当に彼が望んだとおり一人の芸術家として生涯を終えたのかも知れません。

悲しい人でした。

しかし小さいけれど救いは一つだけあります。

最後に、そしてささやかに。

彼の乳母と共に彼の遺体を広場に埋葬した一人の女性。生涯、ネロの墓に花を捧げ続けた女性。




その女性の名はアクテ。皇帝ネロの初恋の女性。




<ネロ伝 完>

ローマ人列伝:ネロ伝 5

2009-06-13 00:56:23 | ローマ人列伝
多くの人は何かを失ったとき、後悔し、反省します。そのたびごとに「今度そんなことがないようにしよう」と決意します。

イギリスの画家ジョン・ウィリアム・ウォーターハウスによる絵画。

タイトルは「Il rimorso dell'imperatore Nerone dopo l'assassinio di sua madre」。直訳すると「母の暗殺後の皇帝ネロの後悔」。

さて、皆さん、この絵を見てどう思われますか?

後悔し、反省し、何かを決意している姿に見えるでしょうか?

正直、僕にはこの表情からは「あー、めんどくせ」という気持ちしか伝わってきません。そしてその奥底にあるのはおそらく「僕のせいじゃない」という気持ち。

まぁ、ネロの死後1800年も経った後の絵画ですから真実を映しているとはいいがたいですが。

ネロによる母殺しは側近セネカとブルスによって「アグリッピナによる国家反逆罪に対する処刑」と(形式上)されました。こんなあからさまな工作に気づかぬローマ市民と元老院ではありませんが、ひとまずはそれを信じたフリはしました。そもそもアグリッピナは人気がありませんでしたし、皇帝ネロの政治は決して悪いものではなかったからです。それが側近セネカとブルスの力によるものだとしても。

この時点で皇帝ネロは幸福でした。

しかし、多くの場合、幸福は内から崩れていくものなのです。

まず、ネロの精神が壊れかけました。毎晩、亡き母の亡霊を見ることになります。見えぬ悪夢に悩まされる人に人はなんとアドバイスするでしょうか?

少なくない人が「君は疲れすぎているのかも知れない。仕事のことは忘れてゆっくりと趣味でも楽しめばいいじゃないか」とでも声をかけるのではないでしょうか。

ネロにもそのような言葉をかけてくれた友人がいたのかも知れません。以降、彼は彼本来の趣味、ギリシア文化への傾倒、特に詩と歌に没頭することになります。

前代未聞の皇帝によるコンサートが行われた記録もあります。

この時代のネロにはいくつかジョークとも思える出来事が記されています。

歌好きのネロ、コロッセオで独唱会を開催しました。1度目は運悪く歌の途中で地震が起こり観衆が外に出てしまったため、2度目は歌の間、外に出ることを禁じました。あまりにも長い歌だったため途中、出産してしまった女性もいたという記録が残っています。

また、ギリシャ好きのネロはギリシャのオリンピア祭(つまりオリンピック)に出場、1800もの種目で一位を獲得します。中にはネロが出場していないにも関わらずネロが優勝していたものもありました。このギリシャ行きをネロは「遠征」と捉え帰還の際には凱旋式まで行いました。更にはオリンピア祭に対抗するべくローマン・オリンピックとも言うべき体育大会をローマで主催し、当然、自らも出場します。「今回は正々堂々戦う」と。

古株のローマ元老院議員は眉をひそめますが、とはいえそれによりネロの精神は少しだけ平安を取り戻します。

そしてネロの容姿も崩れました。皇帝に即位した若い頃、ネロは精悍な青年でした。圧倒的に美少年だったと言われているアウグストゥス(見た目はハゲでもモテたのはカエサルのほうですが)の血と、肉体的美貌を備えたアグリッパの血を引いた若者なのですからそれも当然かも知れません。
しかし、年を重ねるにつれその精悍さは陰を潜めていきます。彼は年々太りだします。特に首の下の肉がたまり、それを隠すためひげを生やすようになりました。

(歴代の皇帝はひげを剃っているのがマナーでした。皇帝がひげを生やすようになるのは五賢帝以降)

そして次に側近が崩れて行きます。まず軍事を一手に担っていたブルスの死、続いて政治担当だったセネカの政界引退。

これでネロにブレーキをかける人間はいなくなりました。

お目付け役がいなくなったネロ、次々と自分がやりたかったことを行います。

まずポッペアとの結婚。母を殺してまで結婚したかった最愛の人ポッペアですが母の死の後すぐに離婚、結婚ではさすがにローマ市民がどう思うか分からないのでおそらくセネカに止められていたのでしょう。今まで結婚はしていませんでした。
しかしそのセネカはもう居ません。望みどおり、まずは妻オクタヴィアと離婚しポッペアと結婚します。

市民からの人気があったオクタヴィア、彼女との離婚のニュースにローマ市民は離婚反対のデモを行います。ネロはこの市民の反対に恐れをなします。

ここでも、ネロの解決策は極端で短絡的でした。罪をでっち上げ前妻オクタヴィアを流刑にし、そして彼女を死刑にしたのです。

この出来事は単にネロに「妻殺し」の悪名が増えただけではありません。

ネロは自分が「実力」によって皇帝になったのだと勘違いしていました。しかしそれは違うのです。皇帝を任命するのはローマ市民と元老院、彼らはあくまで「アウグストゥスの血統」によって皇帝を決めていたのです。アウグストゥスの血統を持つ母アグリッピナは既に居ません。更にネロは前皇帝クラウディウスの血統を持つオクタヴィアまで手放してしまったのです。

これは後に「アウグストゥスの血統でなくても皇帝になれる」という解釈を生む一因となります。

この爆弾をネロ自らが作ったことにネロは気づいていませんでした。




これほどのことを行ったネロですが、ローマ市民はまだあたたかい目で見ていました。それはローマ市民が求めていたものは「パン(食料)」と「サーカス(娯楽)」だったから。なんであれ自分たちのローマを安全に保ってくれ、食料をくれ、楽しませてくれる皇帝であればよかったのです。幸運なことにローマ周辺では大きな戦争も起きてはいませんでした。だからむしろ市民は「今度の皇帝はずいぶん愉快なことをやってくれるじゃないか」と好意的に取っていたのです。

ただ単に幸運だっただけでなく優良な政策もずいぶん打ったという記録もあります。

このときがネロとローマにとって最も幸福な時代だったのかも知れません。


しかしあるとき、ローマ市内で大火事が起こります。出火の原因は不明ですが、都市区を焼き尽くす大火事だったそうです。


この時もネロは延焼を防ぐべく火の方向の建物を迅速に壊し、食料を配給し、家を失った人に寝場所を確保するなど皇帝として出来る限りのことを行います。

大火が収まったあと、ネロはローマ復興のため焼け落ちた土地に市民のための憩いの場を建設することを計画します。

ローマ市内に広大な緑の公園を造ろうと計画したのです。

これだけであれば皇帝ネロの名を上げこそすれ、非難されるような対応ではありません。

しかしここで、ネロの欠点のひとつが明らかになります。

ネロは市民に向けてこう宣言しました。

「ローマ大火で被害を受けた跡地に『ドムス・アウレア』を建築する。」

『ドムス』というのは『私邸』、『アウレア』は『黄金の』という意味。つまり『黄金邸』。

当時、権力者が自身の私邸を市民に開放することは通常行われていることでした。それらは権力者による社会貢献の意味もありました。

しかし、このときのネロの言葉は市民にとって「ローマ大火跡地を自分のものとする」という宣言にしか聞こえませんでした。

ネロはただ単に純粋に市民のために緑の公園を提供したかっただけなのです。しかし、それならば「市民のための公園を建築する」とだけ言えばよかったのです。

ネロに欠けていたもの。それは「自らの言動が相手からどう取られるか」という『配慮』でした。

何をやっても市民からの人気につながったカエサル、何をやるにしても市民と元老院の批判が生まれないよう考え抜いてやったアウグストゥス、市民のために何でもやったが人気だけのためには何もしなかったティベリウス、自分のやりたいことしかやらなかったカリグラ、何をやっても人気にはつながらなかったクラウディウス、、、歴代の皇帝と比べると非常に興味深いところです。

この一件でローマ市民は「ネロは私邸を建てようとしている」と思い込みます。更に噂に尾ひれがつき「あの大火事は合法的に土地を手に入れるためにネロが起こしたものだった」とまで発展。最後には「大火の時、公邸の窓から大火に向けて満足げな笑顔で竪琴を弾いている姿を見た」とまで言うものまで現れます。

一度、評判が落ちてしまえば市民がネロを攻撃する理由はいくつもあります。母殺し、妻殺し、凱旋式の私有化、コロッセオでの独唱会、、、今まで「ネロは愉快なやつだ」と笑っていた市民のネロを見る目は冷たいものとなります。

ネロはナイーブでデリケートな人間でした。市民の噂と冷たい目を「だからなんだ」と気にせず生きることの出来ない人間です。

追い込まれたとき彼が取る方法は常に短絡的な解決策。

彼に必要なのは噂を打ち消すためのローマ大火の犯人です。真実などどうでも良いのです。母アグリッピナは策略により自らの地位を獲得しました。ネロの皇帝の座も正式な継承理由などありません。自らの母殺しですら「国家反逆罪」と理由をでっち上げてうまく行ったのです。ネロには火事の真犯人を探すつもりはありませんでした。必要なのはただ犯人とでっち上げられる人間でした。

そのネロに耳打ちした人間がいたのでしょう。

「最近、ローマにあやしげな団体が増えてきている。市民も彼らを気味悪がっている」と。

それはローマ第二代皇帝ティベリウスの時代に十字架刑にされた男を崇める人々でした。




…to be continued...

ローマ人列伝:ネロ伝 4

2009-06-11 21:28:24 | ローマ人列伝
カカが行った、と思ったらC・ロナウドも取りますか。お金あるね~、レアル。

えーっとなんの話でしたっけ?

あ、そうそう、ネロの話ね。


好きになれない妻オクタヴィア、付き合うなら結婚してくれというポッペア、とにかくうるさい母アグリッピナに囲まれてネロは悩みます。

そして側近であったセネカ、ブルスに相談することも出来ずに彼が決意した『短絡的な解決策』とは。

まずネロは母アグリッピナに丁重に謝罪を述べ、和解します。更には周囲のものに「どんな母であれ母だから」と和解をおおっぴらに宣伝します。
そしてその陰で少年時代の体育教師であった解放奴隷アニケトスに近づきます。彼はそのとき、海軍基地の長官を務めていました。彼は長年に渡りネロの友人ではありましたが、彼を軽んじたアグリッピナには怨念を持っていました。

ネロはアニケトスに一隻の小舟の作成を命じます。その舟は密かに簡単に沈没するような仕掛けがなされていました。

そしてある夜、ネロはナポリ近くにある別邸に和解の証として母アグリッピナを招きました。美しい星空の下、母子は和解の宴を楽しみ、ネロは海沿いの家に戻る母を抱擁した後、舟に乗り込む彼女を見送りました。

もちろんその舟とはすぐ沈む仕掛けをしてある舟。沖に出た舟は仕掛けが作動しすぐに沈没しました。

すべては予定通りでした。


予定通りではなかったことはたった2つだけ。

ひとつはその日は風の無い穏やかな日で波ひとつ立たなかったこと、そしてもうひとつはネロも知らなかったのですが、アグリッピナは皇帝カリグラの時代に流罪となったヴェントーテネ島(『強風の』という意味)で一年間、水泳を趣味として過ごしたために泳ぎの達人だったこと。


(ヴェントーテネ島。ラツィオ州ラティーナ県にあるんですって。写真だとバカンス地みたいですが、ローマ時代では流刑地だったようです)

夜の海とは言え波の無い海、アグリッピナは舟が沈没するとすぐに泳ぎだしまもなく夜の漁をしていた漁師に助けられ、自分が皇帝の母であることを告げ難なく岸に戻ります。

アグリッピナはネロの陰謀に気づいていませんでした。ただ、息子に手紙を送りました。

「運悪く舟が沈没したが私は少し傷を負っただけで無事だから心配をしないように」

と。


早馬の蹄の音を「暗殺成功」の報せかと思っていたネロは思いも寄らず、それが母からの手紙であることを知ると一気に血の気がひきます。

そして手紙の文面に更に恐れをなします。あえてネロへの批判を書かないことによって、冷酷な宣戦布告と受け取ったのです。

ネロはこの一連の計画を打ち明けていなかったセネカとブルスに打ち明けます。もうなりふりはかまっていられず、彼の相談相手はこの2人しかいませんでした。

ネロの計画、そして失敗を聞いた側近2名は長い間言葉を失いました。

沈黙の後、アグリッピナがすべてを知ったこと、そしてアグリッピナの性格からこれから何もおきない、というわけがないであろうこと、ならばここでアグリッピナを殺すしかないだろう、ということで3人の意見は一致しました。

まずアグリッピナの手紙を持ってきた使者が剣を携えていたことから(夜半に皇帝の母からの手紙を運んで来たわけですから自衛のため当たり前の装備なんですが)「アグリッピナの命令で皇帝を殺そうとした」と言う罪を着せ、問答無用で斬首に処します。

追って舟沈没作戦を行ったアニケトスに失敗を償わせるべく、数名の部下を率いさせアグリッピナの家に向かわせました。

寝室に侵入してきたアニケトスを見てもアグリッピナは寝床から起きること無く「息子からの見舞いならば心配ないと伝えよ」とだけ言い放ちました。

しかし武器を手にしたアニケトスと部下が寝床を囲んだとき、アグリッピナはすべてが終わったことを悟りました。

そして、息子ネロが本当に『乳離れ』したことを知ったのです。


彼女が「殺すならネロが宿ったここを指せ」と腹部を指し示すや否や全身に剣が刺さりました。

皇帝ネロの母離れは「母殺し」という極端で短絡的な方法でしか成し得なかったのです。


(若き皇帝ネロとその母アグリッピナが彫られたコイン)

ここに、ローマ最高の忠臣であるアグリッパの名を継いだ女の命が終わりました。未だにローマ帝国史上最高の忠臣として名を残すアグリッパに対し、『アグリッピナ』は悪女の代名詞となり、以後、歴史にその名が挙がることはありません。

残されたアグリッパの血統は皇帝ネロのみ。

そしてまた、そのネロの名も末代まで悪名として残ることとなります。もうひとつの極端で短絡的な解決策によって。


…to be continued...

ローマ人列伝:ネロ伝 3

2009-06-10 23:08:02 | ローマ人列伝
ネロは本質的にはナイーブでデリケートな人間でした。心も決して強い人間ではありませんでした。

そもそも彼は非常にデリケートな男、アウグストゥスの血をひいているのです。(非常にタフな男アグリッパの血もひいてはいますが、それはアグリッピナという女性を通して、というのも興味深いのですが) ネロは基本的には繊細でデリケートな男だったのでしょう。

友人たちと街で騒ぐことも好みましたが、彼が最も愛したものはギリシャ芸術です。決して知性も劣っていたわけではありません、いやむしろ当時のローマ人の中では高いほうだったはず。

そういう人間は物事を即断即決するタイプではありません。が、しかし、追い詰められて危機になったときにパニックに陥り最も極端な、『短絡的な解決策』に走ってしまうこともあるタイプです。

セネカ、ブルスの力を借りて当初は決して悪帝ではなかった皇帝ネロの名。しかし後にその名を地に落とすことになるいくつかの事件はすべてそんな彼の「短絡的な解決策」によるものでした。

残念ながらアクテとの初恋は母アグリッピナの猛反対により終わっていました。アクテとの恋は異母弟ブリタニクスの死、いや、ネロによる暗殺という犠牲すら伴っているものでした。

しかし、若き男性の恋心はそんな犠牲でおさまるものではありません。20歳になったネロ、彼は新たな女性に恋をしていました。

名をポッペア。アクテと違い身分もそれなりの女性でした。美貌も名高く明るく聡明でした。

もちろんネロには妻がいます。いわずと知れたオクタヴィア。母により政略結婚させられた前皇帝の実娘です。しかしネロはオクタヴィアを愛することが出来ませんでした。それは決して母に強引にさせられた政略結婚だからというわけではなく偏におとなしく地味なオクタヴィアの性格によるものです。

ポッペアはオクタヴィアとは違っていました。明るく、聡明で、しかも血統も申し分ない。そして、何よりも地位と名誉が好きでした。そう、アグリッピナのように。

ここで陳腐ながら「男は母に似た女性を求める」という言葉を思い出さずにいられません。

ネロは彼女に恋に落ちます。

しかし、ポッペアとの付き合いにはいくつか障害がありました。

まず彼女には夫がいました。ネロの友人でもある軍人オトーです。

皇帝ネロにとってこの障害の排除の仕方は簡単です。早速、軍部に手を回しオトーを遠い属州の担当にと配置換えをしました。
(この出来事は遊び人だったオトーの性格を変え、以降、彼は軍人として職務に励むこととなります。結果、皇帝の座を狙い『四皇帝の一年』と呼ばれる年の主役の一人になることになりますが、それはまた別の話。)


(オトー)

これで障害が消えたと考えたネロ、ポッペアに愛人になるよう迫ります。

そうです、彼女に夫がいる、という障害以上にネロにも妻がいるのです。

ネロからの求愛にポッペアは承知しませんでした。彼を愛していなかったからでも、今は辺境の軍人となった夫を愛していたからでもありません。アグリッピナに似て野心のあった彼女は「皇帝の愛人」という2番目の立場には納得がいかなかったのです。

困り果てたネロはオクタヴィアとの離婚を画策します。これに猛反対を示したのがはい、当然、母アグリッピナ。

母アグリッピナにしてみれば「可愛そうなオクタヴィア」は自らの人気を維持するための重要なカード。更には息子ネロが前皇帝の娘と結婚している、という事実はネロが正当な皇位継承者である証明でもあったのです。

もしネロとオクタヴィアが離婚などしようものならオクタヴィアは単なる「可愛いオクタヴィア」となりどこかの貴族と結婚し、自分にとっては何の意味も持たなくなるでしょう。そして皇帝ネロの地位も危うくなります。アグリッピナは前皇帝の妃とは言え、今ある彼女の地位はすべて『現皇帝の母』というもの。もし万万が一ネロが皇帝で無くなれば彼女は単なる女性です。

更にはネロがポッペアと結婚しようものなら。

アグリッピナは既にポッペアの性格を見抜いていたのかも知れません。ポッペアはネロと共に邪魔者、つまり自分を追い落とすでしょう。

自分の半生をかけて勝ち得た「皇帝の母」の座をむざむざ渡すわけにはいきません。アグリッピナは強く反対します。

現妻との離婚したいネロ、そして自分との結婚をせがむポッペア、顔をあわせれば強く叱責してくる母アグリッピナ。

デリケートなネロが選んだ解決策は最も極端で短絡的なものでした。


…to be continued...

ローマ人列伝:ネロ伝 2

2009-06-09 23:04:41 | ローマ人列伝
ネロの母に対する始めての反抗、それはネロの初恋から始まりました。

ネロの妻は母に強引に結婚させられたオクタヴィア。しかし彼女のことをネロは気に入りませんでした。もともとネロは単なる兄ちゃん、友人たちも皇族よりも若い兵士たちや身分の高くない平民ばかり。そんな彼が見初めたのはアクテと言う女性。皇室育ちでおとなしいオクタヴィアに比べ、彼女は街中で一緒に楽しめるような明るく、心安らぐ女性でした。

普通であれば母の策略によって結婚したオクタヴィアを別れアクテと結婚すればいいだけの話でしょう。しかしそううまくは進みません。問題は二人の身分。

ネロは既に大ローマ帝国の皇帝でした。もしアクテがどこぞの元老院議員の娘などであれば話は簡単でした。しかし、残念ながら彼女の出自は違いました。彼女は解放奴隷だったのです。解放奴隷というのは元々は辺境の蛮族の出身でローマ人の奴隷だった人々が、雇い主の恩赦あるいは金によって解放された奴隷あるいはその子孫のことを言います。

一応、ローマ市民権は持っているものの、皇帝の交際相手として適切ではありません。

この2人の恋を知った母アグリッピナは烈火のごとく怒り、ネロを呼び寄せ強く叱責します。曰く「お前が皇帝になれたのはだれのおかげか!?」 ネロを強く叱り、更には相手アクテの身分を厳しい軽蔑の言葉を投げました。

常に母の言うことを聞き、そのとおりにしてきたネロ、母からの叱責は生まれて初めてのこと。加えて自分の愛した女性にいくつもの軽蔑の言葉を投げかけられたことによってネロはネロ自身も母から軽蔑されたように思ったのです。

以後、ネロは母との関係性において非常に屈折した複雑な感情をいだくようになります。

(余談ですが現代心理学上の仮説のひとつにこのアグリッピナの名を冠した「アグリッピナ・コンプレックス」というものがあります。)

残念ながらネロは普通の男として母離れが出来ぬまま皇帝となりました。それはネロのせいではないのかも知れません。恋愛ひとつにしても母アグリッピナから離れることが出来ないまま皇帝になりました。

それまでネロは何も考えず母の言うとおりに生きてきました。しかし、ここでネロは母からの自立をしなければいけません。

通常の母子関係であれば話はもっと簡単だったのかも知れません。

しかし、相手である母は自分を皇帝に仕立て上げた張本人、更にはローマ帝国におけるアウグスタという女性においては最高の称号を持った女性です。

この複雑な状況にネロの相談相手はセネカとブルスしかいませんでした。


(アグリッピナについて話し合うネロとセネカの像。是非、大きい画像でどうぞ。⇒こちら

ネロから相談を受けたセネカとブルスは積極的にネロに協力しました。2人にとってみればアグリッピナはこの身分に引き上げた恩人のはず。彼らの心中は分かりません。良く捉えるのであれば自分たちの仕えるべきは皇帝ネロであり、若き皇帝の自立のために協力したのか。悪く捉えるのであれば彼ら2人もアグリッピナの横暴に辟易としていたのか。

とにかくネロと2人の側近はこれ以降、アグリッピナを公職から遠ざけるよう画策します。

血統が良く、更には聡明、権力もある、何でも自分の思い通りに行くと思っている、そして事実、自分の思うような地位を自らの力で手に入れてきた女性が最も嫌うこと、それは「無視」です。そしてそういう女性は「無視された」という事実の前に、「無視しようとしている」という気配に敏感に反応するものです。

彼らの気配を感じ取ったアグリッピナは更にネロを厳しく叱責します。こうなればアグリッピナは止まりません。ネロに対して「お前など産むのではなかった。ましてや皇帝に据えるのではなかった。皇帝候補ならば前皇帝クラウディウスの実子ブリタニクスのほうがよっぽど役に立つ!」とまで言い放ちます。

本来ならば皇帝継承順第一位のブリタニクス、彼は前皇帝クラウディウスの実の子でした。皇帝になれなかったのは偏に自分の子供ネロを皇帝にしたがったアグリッピナの策略によるもの。

性格もおとなしく身体も弱かったブリタニクスは皇帝ネロの即位を決して恨んではいなかったかも知れません。もともと野心の無い者は猜疑心も少ないものです。

一方、ネロには母親譲りの野心と猜疑心がありました。そしてアグリッピナの行動力を誰よりも知っていました。ここでネロに生まれた感情は相反する2つ。

ひとつは憎しみ。母アグリッピナならば自分を殺し再度ブリタニクスを擁立する可能性もゼロではない、いや、そうに違いない。もしそうなればアグリッピナは既に自分にとって敵だ、という憎しみ。

もしそれだけであれば彼はただアグリッピナを遠ざけただけでしょう。しかしネロにはもうひとつの感情がありました。母アグリッピナは自分の行動を制限する疎ましい存在、、だがしかし、自分はアグリッピナの愛に育てられ、愛ゆえに(それがアグリッピナの自己愛だとしても)皇帝になれた。その愛をもしかしたら彼女はブリタニクスに向けるかも知れない。という歪んだ愛情。

憎しみと愛情、感情は相反していますが結局のところその向かう先は一緒です。

ここで哀れなブリタニクスの運命は決まります。

ある日、ネロを含めた皇帝一家が食事の最中、ブリタニクスは腹痛を訴え倒れます。そしてそれが原因で帰らぬ人となります。もちろん、毒をもったのはネロでした。


アグリッピナがブリタニクス擁立を本気で考えていたかどうかは分かりません。ただブリタニクスの死が決して自然死でないことには気づきました。更にはそれがネロによるものであることも。もはやネロが自分の操り人形ではないことをアグリッピナは知ります。アグリッピナは強い女性でした。ネロが自分から権力を奪っていくのであれば自分の身は自分で守る、とばかりに猛反撃に出ます。

まず物を言うのは資金。アグリッピナは私財を転売し資金を確保します。

そして次に自分の身を守る武力。蓄えた資金をライン河付近の殖民都市に寄付しそこにいる軍団を味方につけます。

三つ目に人気。彼女は市民から彼女自身の人気が無いことは重々承知していました。その人気を補うのために、皇帝ネロにないがしろにされ市民から同情を集めていた若妻オクタヴィアに接近します。


ネロはネロで母の動きを察知しつつ、少しずつ母の権力を奪って行きます。

この母子間の冷戦はネロが20歳になるまで続きます。

その冷戦の終わり、残念ながらそれは和解ではなく母子という関係自体の終焉でした。



…to be continued...

ローマ人列伝:ネロ伝 1

2009-06-06 12:24:09 | ローマ人列伝
はい、本当はネロから始めるつもりが母であるアグリッピナのことで長くなってしまいまいた。ここからがネロ編。

このローマ人列伝なんですが、書くときはだーっとワードに書いてってます。「ワードに書く」って言葉が伝わらない方はいらっしゃるのかしらん?? つまりまぁワープロソフトを使って書いてます、ということですね。あ、ワープロって言葉がすごく懐かしい。

一応、連載形式なんですが一話書いて一話アップ、というのだとなんだか書いているうちに整合性が取れなくなりそうで怖いのでいったん全部仕上げてしまってから都度都度アップしています。こうすることによって「やっぱりこの話はこっちじゃなくてこの回でしたほうがいいな」とか調整も効くし。

ね、マメでしょ。お金にならないことはね。

このネロ編も既に最後まで書き終えているわけですが、このネロ。多くの人にとっては「暴君」というイメージしかないかも知れません。ハバネロも彼をもじって「暴君ハバネロ」という商品名で出したくらいだし。

でもね、僕は今、哀しい人だったんだなー、と思ってます。

僕の文章が拙いからか、あるいは面倒なのでちょこちょこ端折ってるからかも知れませんが、僕のネロ伝を読んだ人は「なんだ、単なる悪人じゃん」と思う人もいらっしゃるかも知れません。それはそれで仕方が無いけどさ、でもさ。

「暴君」が彼の二つ名として知られていますか決して皇帝として無能だったわけではありません。彼の死後150年続く貨幣改革もしましたし、近隣諸国との外交あるいは戦争も決して下手ではありませんでした。有能ながらローマ市民には嫌われ続けたティベリウスとも違い、ローマ市民からも愛されます。その彼が何故、暴君と呼ばれるようになったのか?


ローマ人列伝を書くときにメインテキストとしているのは塩野七生の「ローマ人の物語」なんですが、僕がローマ人列伝を書く意味、というのはより深くその本を理解したい、というところも多少なりともあります。やっぱり自分の言葉で説明しようとすると曖昧な記憶では説明できなくて、何度も本を読み返すことになります。

その過程で「そうか、だからこの人はそんなことをしたのか」「うーん、そうだよな、それなら俺だってそーする、誰だってそーする」と本当に理解が出来ることもあります。

今回のネロだって僕とはまったく違うタイプの人間だし、彼の行動は僕ならそんなことはしないと思うことは多いけど、その時代に生まれそのような過去を過ごしてきたら、と共感、うん、共感とは少し違うけど、少なくとも理解できるところは多くあります。

というわけでネロ編。ネロ編の前にまずはアグリッピナ伝を読んでいただくと理解しやすいかも知れません。

何度も繰り返しますがこのローマ人列伝は僕の個人的な趣味で書いているものですから歴史的間違いはご容赦ください。(ご指摘はありがたくいただきます)


母アグリッピナの策略により第四代ローマ帝国皇帝に即位した時、ネロは16歳でした。


当時のローマでは政治の中心である元老院議員になれるのは30歳から。つまり事実上30歳が成人だったこの時代において非常に若い皇帝の誕生でした。(先々代皇帝カリグラも若くして即位しましたがそれでも25歳)

若すぎるほどの皇帝の誕生でしたがローマ市民と元老院はこの皇帝を歓迎しました。

理由はまず、先代クラウディウスの不人気。もちろんクラウディウスの政治には大きな問題はありませんでした。むしろ良くやっていたと言えるほどです。しかし、市民は問題が無いから皇帝を好きになると言うわけではなく、我侭なものです。風体の冴えない、妻(アグリッピナ)の尻に敷かれる60歳の皇帝に比べ、新たな皇帝は若くはつらつとしていたのです。

元老院からの支持はクラウディウスが確立した秘書官政治(クラウディウスは信頼できる解放奴隷を秘書官として採用していました)からの脱却により、再度、元老院が強い発言力を持てる政治が行われるのではないか、という期待から。

もちろん若く経験の無いことはネロ自身、わかって……いませんでした、一切。

ネロは何も考えてないんです。だって16歳ですよ。

そもそも皇帝になることはネロが望んだことではありません。ネロの母、アグリッピナの野望であり、ネロが何をしたわけでもありません。

ここにアグリッピナの完全なる傀儡、皇帝ネロが誕生します。

母アグリッピナは聡明な女性でした。彼女の望みは皇帝の母になることでしたが、ただなりさえすればよい、というわけではありません。一度、掴んだその座を出来る限り手放さないために多くの手を打っていました。

まず若く能力の無いネロを補佐する側近の任命。

歴代の皇帝に疎まれ、また政治での陰謀に巻き込まれ流罪となっていた当時の大哲学者セネカをネロの政治担当としてつけます。

(セネカ)

また軍事面ではブルスという忠実で武勇名高い軍人を後見人とします。ネロ即位前には反対勢力をこのブルスに暗殺させました。

話がずれますがこのあたりアグリッピナの戦略の巧さが伺えます。知識人セネカには「流罪から救った」という恩を着せることで、武力の人ブルスに関しては暗殺を命じ「共犯関係」となることで、それぞれの忠誠心を固めたのです。機を見て先んじ人を見て制す、アグリッピナは見事でした。

側近二人に加えてもひとつの策。アグリッピナはネロを一人前の男とするため、前皇帝クラウディウスの実娘であるオクタヴィアと結婚させます。

当時オクタヴィア12歳。「前皇帝の娘」という血統は輝かしいものでした。更には仲間と連れ立って夜の街を飲み歩くことが好きなネロへの一種の「虫除け」の意味もあったのでしょう。

(オクタヴィア)

政治はセネカ、軍事はブルス、妻はオクタヴィア、アグリッピナはネロの周りを迅速に固めます。

更にアグリッピナは通常、ローマ市内のフォロ・ロマーノ(今で言う霞ヶ関)の元老院議場で行われる元老院会議を皇帝の私邸で行わせるようネロの名で指示を出させました。もちろん、皇帝の母とは女性が立ち入ることが出来ない元老院議場ではなく、私邸であればアグリッピナが隠れて聞き耳を立てることが出来るからです。

ネロは何も考えていません。

ただ友人たちと酒を飲み街に出て遊びほうけていました。好きなことは歌うこと。そんな16歳の青年。彼がアウグストゥスが築き上げた皇帝システムの、そしてイタリア半島、ガリア(現代のフランス)、スペイン、エジプト、北アフリカと広大な領土を持つ大ローマ帝国の継承者です。

ネロ即位後の5年間はすべてがうまく言っていました。その多くは政治担当セネカと軍事担当ブルスのおかげによるものですが、とはいえ後にこの5年間は「ネロの黄金の5年間」と呼ばれローマにとって幸福な日々でした。

それに綻びが生まれるのは何も考えておらず今まで母の言いなりだったネロが初めて母に反抗する出来事からです。



…to be continued...

ローマ人列伝:アグリッピナ伝 2

2009-05-10 21:25:58 | ローマ人列伝
アグリッピナが結婚した相手はローマ帝国第四代皇帝クラウディウス。


名司令官ゲルマニクスの弟という血統ながら、50歳になるまで彼の名は何処にも届いていませんでした。生まれつき足が悪く、また演説も下手で、体裁が上がらないため多くの軍人、政治家を排出したユリウス・クラウディウス家の中では疎まれ、単なる歴史家として生きてきました。

前皇帝カリグラがクーデターにより殺されることがなければ歴史の表舞台に立つことはなかったでしょう。

そして人物評というものはスポットライトを浴びてみなければわからないものです。

風采に何一つ文句のつけようのないカリグラが暗君として暗殺されたのと反対に、風采の上がらないクラウディウスは人々が思ったよりも善政を行います。ただ、一点、彼には欠点がありました。

それは家族に一切関心を払わなかったこと。

いや、関心を払わなかった、というのは間違いなのかも知れません。今まで表舞台に立たずただ自分の好きな歴史だけを研究してきたクラウディウスにとって『皇帝』という役職が重すぎただけかも知れません。

蛮族の侵入、元老院とのやり取り、市民の人気取り、、、その他様々な職務をこなすのに精一杯で自分の家族のことを慮る余裕が彼にはなかっただけなのかも知れません。

家庭を顧みない夫に対して妻は何をするか。

多くは無理難題的な要望を押し付けます。

そしてその要望に対して夫は何をするか。

夫クラウディウスは妻と話すのも面倒になり、その要望をそのまま受け入れます。

皇后アグリッピナが夫に押し付けた無理難題のひとつが自分に「アウグスタ」の称号を送ること。この称号は皇帝「アウグストゥス」と同じくらい価値のあるものですが今まで生きた女性に送られることはありませんでした。多くは皇后死後、神として奉る名として贈られてきたものです。

それから自分の子を皇帝にするために側近になるべき人物を呼び戻させます。その代表的な人物がセネカ。

当時のローマでは超一流の哲学者、詩人であり更には政治家。悪帝カリグラとの対立によりエジプトへと流されていた彼をアグリッピナは夫クラウディウスに依頼しローマへと帰還させ、自分の子の家庭教師にします。

くわえて彼女が行ったのは邪魔者の排除。自分の子を皇帝にするためには邪魔だったのがクラウディウスと前妻の間の子であるブリタンニクス。本来であれば現皇帝の実子ですから皇帝継承順で言えば彼が第一位のはず。しかしアグリッピナは彼を策略により孤立させます。

このような謀略を打ち続け、皇帝家内でアグリッピナと彼女の子の存在は大きくなっていきます。

そして54年、皇帝クラウディウスは食事中に口にしたキノコの毒が元でこの世を去ります。

このキノコの毒もアグリッピナの策略だ、という説が有力ですが今となっては真実は歴史の闇の中。確かなのは皇帝の座への道は順調にアグリッピナの息子の前にある、ということ。

息子の名はルキウス・ドミティウス・アエノバルブス。

しかし彼はクラウディウスの養子になって以降、養父の名を継ぎ、改名していました。



名を、ネロ・クラウディウス・カエサル・ドルースス。

ここにローマ帝国第五代皇帝ネロが誕生したのです。


(アグリッピナとネロが彫られたコイン)

<ネロ伝に続く>

ローマ人列伝:アグリッピナ伝 1

2009-05-09 22:35:37 | ローマ人列伝
ピョコーン


ぺターン


ビースマルクー。


春ですね、つーか初夏ですねそーですね。

ジョギングはこの季節が一番気持ちEですねー。
E!E!気持ちE!!(追悼)
すぐ体もあったまって汗かいてくるし走り終わったらそよ風を感じるし。


繰り返しますがこの列伝は個人的な趣味で書いているものですから歴史的間違いはご容赦ください。(ご指摘はありがたくいただきます。)

この列伝、アグリッパから始まりハンニバル、ゴンズイさんと続いてまいりました。正直、僕としても「さー次は誰を書こうかな~」と思ってたんですよね。ユリウス・カエサルは最終回に書くとして、そのほか、マルクス・アントニウス、グラックス兄弟、、、といろいろ思い浮かぶんですが。

そこでふと思いついた人物を書きはじめたところ、さぁ、これが。その人にまつわるある女性のことだけでかなり長くなってしまいました。

ということで今回はその女性について。クレオパトラ伝以来の女性列伝。

その人の名はアグリッピナ。

(ちなみにこの画像、wikipediaから取ってきたんですが後ろに写り込んでいるのはアウグストゥスの全身像。いいアングルですね)

名前で既にお気づきの方もいらっしゃるかも知れません。彼女は初代ローマ皇帝アウグストゥスの忠実なる右腕であったアグリッパの孫娘です。

※当時、女性の名前は家名の女性形をつける(ユリウス家の女であればユリア、アントニウス家であればアントニア)のが一般だったため、母と娘で名前が一緒、という場合も多いです。そのため、後世では区別するために母に「大」、娘に「小」を冠することがあります。小アグリッピナの母は大アグリッピナ(アグリッパの娘)。

彼女の血統の良さはユリウス・カエサルを祖とするローマ帝国当初の皇帝血統であるユリウス・クラウディウス朝で一段と輝きを誇っています。

まず彼女の母、大アグリッピナは忠臣アグリッパとユリアの娘。ユリアとはアウグストゥスの娘。父は神后リウィアの孫、ゲルマニクス。ゲルマン地方の征伐で名を上げた名司令官です。大アグリッピナとゲルマニクスが授かった一男二女のうち一人が、今回の主役、小アグリッピナ、です。面倒なので以後、アグリッピナで通します。

簡単に言ってしまうとアグリッピナはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスのひ孫であり、アウグストゥスの片腕アグリッパの孫、ということになります。

やはり血筋の成すものか小さな頃からずいぶんと聡明だったと伝えられています。

13歳のとき、彼女は結婚します。相手は、遠いとは言え帝位継承候補の一人。この男には名前がありますが、長いので割愛。ただ、その人の評判だけは記しておく必要があるでしょう。

アグリッピナの夫はこのような男性だったと伝えられています。
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自分が飲むだけの酒が用意できないという理由だけで自分の奴隷を殺した。人形で遊んでいた子供を馬でわざと踏み付けた。彼を批判した者の片目をくり抜いた。自分の浪費を金持ちに肩代わりさせた。またプラエトル職にある時、戦車競技の賞金をだまし取ったと伝えられる。また片っ端から女性に手をつけていたとも言う。
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まるで、、、いや何でもありません。

名門に育った彼女の夫はならず者。この結婚生活が彼女の心の闇を広げたのかも知れません。

更に彼女を幸福としなかった理由のひとつが母(大アグリッピナ)の処遇。母は当時の皇帝ティベリウスに疎まれ流罪、そして死刑となります。

浮気と暴力に明け暮れる夫と母の死に接し、アグリッピナの結婚生活は決して幸せなものではありませんでした。ただ、ひとつの幸せとして彼女は男子を産みます。名をルキウス・ドミティウス・アエノバルブス。

息子が生まれた年に、母を殺した皇帝ティベリウスは死去。後を継いだのは彼女の弟、暗君カリグラ。

実の兄弟がローマ帝国の第一人者となり、もともと聡明な彼女、皇帝の姉として権力を振るいます。

ここである醜聞がローマに広がります。それは皇帝カリグラと妹、ドルシッラ、アグリッピナの近親相姦。確かにカリグラは2人の妹を重んじました。通常であれば妻を座らせる位置に妹たちを座らせたり。醜聞は本当だったのか?一説には当時、上流階級の間では政敵を陥れるために近親相姦の噂を流す、ということもあったそうです。当時、近親相姦は罪であり、見つかれば流罪でした。彼女の権力を妬んだ誰かが彼女を陥れるために噂を流した、ということも否定は出来ません。しかしもはや真実は歴史の深い闇の中です。

彼女はその罪に問われることはありませんでした。ただ、カリグラが皇帝権力を悪用しだすとともに兄との関係は悪化し、流罪を命じられローマを離れることとなります。ローマから離れた土地で暮らしている途中、彼女の夫は死に、彼女は未亡人になります。

西暦41年にカリグラが近衛隊長カシウス・ケレアの剣により殺されると、彼女は罪を許されローマに帰還。


息子と共にローマに帰還し、久々にローマの中心街、フォロ・ロマーノ(当時、ローマの中心街)の前に立った彼女の胸に去来した思いはなんだったか。

彼女の人生は常に「皇帝」に翻弄されていました。母は皇帝ティベリウスに殺され、彼女自身、弟である皇帝カリグラに流罪にされ。そこで彼女は誓います。「皇帝の座を手に入れる」と。残念ながら彼女は女、皇帝になることは出来ません。彼女の希望はひとつ、小さいながらも彼女の手をしっかりと握る息子です。

ここから彼女の人生の目的は「皇帝の母になること」の一点に集中します。ここから彼女の謀略の人生が幕を開けます。

まず彼女に必要なのは活動資金。そのために彼女は2度目の結婚をします。相手は年老いた元政治家。年齢は関係ありません。彼女が欲しかったのは彼の遺産なのですから。彼女の思惑はかなえられます。夫は数年後死去、多額の遺産は彼女の手へ。

更に、都合の良いことに当時の皇帝はクラウディウス。慎重で有能だったが故に市民の指示と自分の意志を両立させたアウグストゥス、慎重で有能だったが市民からは嫌われたティベリウス、慎重でも有能でもなかったが自分の意志どころかわがままだけは通したカリグラに比べ、クラウディウスは自分の意志というものとは無縁な男でした。更にはこのとき、クラウディウスの妻は死亡したばかり。

アグリッピナが求めて止まない「皇帝の母」のための第一歩、「皇帝の妻」は空位だったのです。

クラウディウスはアグリッピナの父、ゲルマニクスの兄弟です。つまり彼女にとっては「叔父」ということになります。しかし彼女にとってそれは気にすることではありません。彼女はクラウディウスの妻になりたいわけではなく皇帝の妻になりたいだけ、更に言えば皇帝の母になりたいだけなのですから。

クラウディウスの政務を一手に引き受けていた官僚に前夫の遺産をつかませ、本来であればローマ帝国の法律に反する親戚同士の結婚を認めさせます。

アウグストゥスの築き上げた「血統」による皇帝システムはここに極まります。

こうして、彼女は彼女の野望のための階段をひとつ上ります。



…to be continued...

ローマ人列伝:エピローグ【ハンニバル以後】

2009-04-02 22:47:40 | ローマ人列伝
ローマ史上最大の敵、ハンニバル。彼とその好敵手スキピオは残念ながら双方とも祖国を追われ不遇の死を遂げます。蛇足ですが2人の祖国、カルタゴとローマのその後を。

第二次ポエニ戦争、別名ハンニバル戦争はザマの会戦におけるハンニバル敗北を持って終焉を遂げ、これ以降、カルタゴは自治権を持ったローマ属州となります。

しかしながら第二次ポエニ戦争でのカルタゴ、ハンニバルの脅威はローマにおいて「カルタゴ完全滅亡論」を唱えるものを生み続けました。その最大の人物がカトー。謀略によりスキピオを弾劾した人物です。

彼はローマ元老院においてなんの演説をしても最後は「ともあれ私は、カルタゴは滅びるべきだと思う」という言葉で閉めたと言われています。

ハンニバルの死から30年後、カルタゴはローマの自治区でありながら、近隣のヌミディア国から繰り返し侵攻されていました。そのたびにローマに仲裁を求めますが、ローマは常にヌミディア寄りの結論を返すばかり。

カルタゴは自衛のため軍備を固めます。

この軍備をカトー中心とする元老院反カルタゴ一派は「ローマへの反乱の恐れあり」とし、カルタゴ侵攻を開始。後に第三次ポエニ戦争と呼ばれることとなります。

第一次ポエニ戦争ではローマ、カルタゴとも何人かの名将同士が覇を競いました。第二次ポエニ戦争はハンニバルと大スキピオいう英雄を生みました。

第三次ポエニ戦争ではもはやカルタゴに英雄はいません。

いるのはただただ力なき人民のみ。

侵攻軍の司令官となったのはハンニバル戦争の英雄スキピオの養子でした。(名前が一緒なので便宜上、父を大スキピオ、養子を小スキピオと呼んで区別しています) 

小スキピオはカルタゴの破壊とカルタゴ人虐殺を行います。多くのカルタゴ市民が餓死、残った者は奴隷となり、ここにカルタゴは崩壊します。

ポエニ戦争終結の紀元前146年を持って、紀元前8世紀から700年続き、一時は「カルタゴ人で無ければ地中海で手も洗えない」とまで言われるほど地中海世界を制した大国カルタゴは滅亡します。

カルタゴの遺跡はすべてローマ軍により破壊、更に二度とこの地に都市が栄えないよう、二度と農作物が取れなくなるよう、廃墟と化したカルタゴの土地にローマ軍は最後に塩をまいたという説もあります。「カルタゴ」という名前すら残すことは許されず、以後、「アフリカ属州」という呼び名で呼ばれます。

カルタゴの麗しい建築物が続々と崩壊されていく様子を見ながら司令官小スキピオはこうつぶやきました。

「繁栄を誇ったカルタゴのように、我がローマもいつか崩壊する日が来るのであろうか?」

ローマの崩壊は少し先になりますが、ポエニ戦争終了後、ローマは危うく崩壊しかけることとなります。カルタゴを倒したことにより地中海を制したローマ。元老院の力は強大になり、それに比例するかのようにローマ市民、そして同盟都市の力は弱くなります。それによって生まれる支配層と被支配層の格差。格差は怨恨を生み同盟都市の反乱が頻発するのです。

また、ローマ本国内においては権力を守ろうとする元老院と市民の権利を拡大しようとする民衆派との間で内乱が起こります。(ちなみに民衆派のリーダーとなったのは大スキピオの孫であるグラックス兄弟) 

ハンニバルが言ったようにローマ崩壊の危機は外敵によるものではなく「疾患のように」、ローマ内部から起こります。後に「内乱の一世紀」と呼ばれる100年に渡るローマ混乱期の到来。

この内乱に終止符を打つのは「ローマの生んだ唯一の創造的天才」と評される男ですがそれはまた別の話。


ローマ、カルタゴによるポエニ戦争の「公式な」終戦はなんとそれから2200年後、1985年に当時のローマ市長とチュニス市長によって結ばれました。



(カルタゴ遺跡)

ローマ人列伝:ハンニバル伝 10

2009-04-01 17:32:03 | ローマ人列伝
紀元前202年10月19日、スキピオ率いるローマ軍、ハンニバル率いるカルタゴ軍はザマで相対します。

このときの戦力は以下のとおり。

・カルタゴ:総兵数5万3千
歩兵:5万
騎兵:3千
加えて戦象80頭。

・ローマ:総兵数4万2千
歩兵:3万4千
騎兵:8千



もうお気づきでしょうか?この戦力の差。歩兵と総兵数ではカルタゴが上、しかし騎兵だけ見ればローマがカルタゴの倍。スキピオは16年前、初陣の時にハンニバルの戦いを見て以降、騎兵の重要性に気づいていました。そして既に、以前はカルタゴの同盟国であった馬産国ヌミディアを味方につけ騎兵団を編成していたのです。


両軍の布陣はこのような形になりました。

(以下、布陣図が多くなりますので画像の閲覧できる環境でどうぞ)


カルタゴは両翼に騎兵、中央の歩兵は最後部にアルプス越え以来ハンニバルに付き従ってきた古参兵部隊、その前に歩兵部隊、そして傭兵部隊。最前列には象兵80頭。この突進力を第一陣として利用し、ローマ歩兵を蹴散らす作戦です。
対するローマ軍は両翼に騎兵、歩兵は軽装歩兵の後ろに、重装歩兵を三列に配置。



トレビアの戦いの際に記載しました。

戦闘前に敵の戦闘力を如何に無力化するか、が「戦略」であり、戦闘開始後に自戦闘力を如何に最大化するか、が「戦術」である、と。

「学んで磨く人」、スキピオはトレビアの戦いでローマ歩兵の戦力を冷たい川を通らせることで無力化したハンニバルの戦略を学んでいました。そしてそれを自分の物とすべく、磨いていました。実はスキピオは戦闘開始前に既にハンニバル軍象兵の無力化に成功していたのです。

彼はアフリカに上陸して以来、自ら象を購入し徹底的にその生態を学んでいました。結果、象が急な方向転換に向いていないことを既に知っていました。
更にその象を自軍の兵士に触らせ、象が決して恐れるような化け物ではなく単なる動物であることを兵士に理解させました。これにより象が土煙を上げて向かってきても兵士は恐れず冷静に作戦を実行できるようになっていたのです。



戦いはカルタゴ軍の最前列に並ぶ象兵80頭の突進で幕を開けます。


ローマ軍最前列の軽装歩兵めがけ突進する80頭。軽装歩兵たちは象兵が眼前に迫った瞬間少しだけ脇にずれました。

スキピオは最前列の軽装歩兵と重装歩兵を一列ではなく互い違いに並べていました。これにより象兵が走り過ぎてしまうスペースを作ったのです。

走り過ぎる象兵、結果、ローマ重装歩兵に背後から襲われ壊滅します。



その次にはローマ軍軽装歩兵とカルタゴ傭兵の最前列同士の戦いとなります。ここでは数に勝るカルタゴやや有利。しかし対して両翼の騎兵同士の戦いではローマ軍が押しています。


ここで、ローマ軍は押し上がった騎兵の後ろのスペースに重装歩兵第二、第三列を展開させます。


カルタゴ軍騎兵を倒したローマ騎兵はカルタゴ軍の背後に回り、左右に展開していた重装歩兵がカルタゴの両脇を攻めます。

結果、布陣はまるでカンネーの戦いのような包囲戦に。カンネーとの違いは包囲されているのがカルタゴ軍である、ということ。


カルタゴは完全に包囲され敗北します。名将ハンニバルは自分の発明した戦術によって破れたのです。


この戦いの結果は下記のとおり。

・カルタゴ
総兵数:5万3千のうち、
死者2万、捕虜1万5千

・ローマ
総兵数:4万2千のうち、
死者千5百、負傷4千



実際の人命が関わる戦争というもので最も重要なものは実は「如何に多くの敵を殺すか」ということではありません。多くの敵を倒した、ということでは確かに一瞬、自軍の士気は上がるかも知れません。しかしそれ以上に周りの同僚が死んでいく中で正気を保ち続けることは難しいものです。名将であればあるほど「如何に自軍の戦死者を出さないようにするか」という戦いをすることになります。自軍兵士の被害さえ少なければ再戦のチャンスはいつでもあるのです。

ハンニバルがイタリア本土で戦いを繰り広げるとき、最も重要視したのはこれでした。ハンニバル軍は補給路を絶たれ、一人の兵士の命はハンニバルにとって貴重なものでした。一兵士ですらおいそれと補給できるものではなかったのです。

ハンニバルの「発明」した、騎兵を軸とした包囲戦術は、確かに多くの敵兵士を殲滅させるものでした。しかし、それと同時に「自軍兵士の損害を最小限に抑える」ことが出来る戦術だったのです。

アルプス越えの時も兵士と共に象を押したハンニバル。自軍兵士から「ハンニバルには自分たちがいなければ」と思われたハンニバル。16年間の長きに渡り故郷を離れ兵士と侵食を共にしたハンニバル。彼の戦術はすべて「兵士を守るため」のものだった、と考えるのはセンチメンタルに過ぎるでしょうか。

ハンニバルが初めて自軍兵士の多くの命を落としたザマの戦いの後、ハンニバルはカルタゴ政府内において講和条約肯定派として調印を進めます。既に彼にとって「一人でも自軍兵士を殺さない方法」はローマとの講和調印しかなかったのかも知れません。



ザマの戦いでの圧倒的勝利の後、スキピオを全権大使とするローマ軍はカルタゴに講和条約を提示します。その内容は多大な賠償金を含むものでしたが今までローマが受けた被害に比べれば決して不当なものではなかったと言います。

講和調印を進めるハンニバル、カルタゴ議会において反対派とのやり取りとの際、一度だけ、彼が激怒し、弁論する議員につかみかかったことがあったそうです。つかみかかった後で、冷静さを取り戻し彼はこういいました。

「私は9歳のときに母国を離れてから今日まで36年間、陣営と戦場の中での人生を送ってきた。だから戦場でどう振舞うべきかは知っている。だが、都市での生活は知らないできてしまった。

我々に出来ることは議論をもてあそぶことではない。受け入れることだけだ。スキピオの提案はわが国の現状を考えれば妥当とするしかない。」


幼き頃、父と共に打倒ローマを誓い、その人生すべてをかけてローマと戦ったハンニバルが何故強くローマとの講和を進めたのか、その心中はわかりません。自らが戦う中で気づいたローマの強さによるものか、自らの戦略術の正当な弟子であるスキピオの成長によるものか、あるいはローマとの戦いの中で失った多くの兵士たちへの哀悼か。

結果、カルタゴとローマは講和を結びここに別名ハンニバル戦争と言われる第二次ポエニ戦争は終結を遂げます。


この後、ハンニバルは腰砕けとなったカルタゴ貴族に代わりカルタゴ本国行政の長となります。ローマへの多額の賠償金の支払いを成し遂げ、彼は一流の軍人であるだけでなく、一流の政治家であることも証明します。

しかしその優秀さが逆にローマからのハンニバルへの恐怖を高めることとなり、ローマから追われる身となります。彼を失脚させたのはローマ元老院の中でも強力に反カルタゴを示していたカトー。ローマ元老院の追求により、彼はカルタゴ本国から亡命します。またその逃避行の途中で昔、戦争で負った目の傷が悪化し、右目を失明したと言われています。

彼はシリア(今のイラン)に逃亡しそこの王朝セレウスコス朝で軍事参謀に取り立てられますが政争に負け、その国ではこの名戦略家の策は一度も取り入れられることがありませんでした。

その後、クレタ島、黒海と逃避行を続けますが、ローマの追走は厳しく、最後は毒を飲み自殺。

一方、ハンニバル最大のライバル、スキピオはポエニ戦争以後、政治家として活躍するものの、彼の才能と実績を恐れる政敵により賄賂の疑惑をかけられローマを離れます。ザマの戦いの直前、ハンニバルに「あなたは平和の中で生きることが不得手なようだ」と言った彼こそ、何より平和の中で生きることが不得手な人だったのです。隠居となった彼が住んだ土地は奇しくもハンニバルの故郷、スペイン。この地でローマに知られることなく、孤独に死にます。アフリカ王という意味の「アフリカヌス」の称号で知られたローマの英雄が自らの死に際し、墓に刻ませた言葉は、

「恩知らずの我が祖国ローマよ、お前は我が骨を持つことはないだろう」

でした。

カルタゴの智将ハンニバル、そしてローマの名将スキピオ。2人が死んだのは奇しくも同じ紀元前183年のことでした。



後の世に、2人の好敵手の間にはファンタジーのような逸話が残されています。

ザマの戦いから数年後、亡命中のハンニバルはある地で偶然、使節としてやってきていたスキピオと会い言葉を交わしたそうです。

戦術家の2人のこと、当然、戦術の話へ。

スキピオは尋ねます。

「史上最も偉大な戦術家は誰か」

ハンニバルは苦も無く答えます。

「第一にマケドニアのアレクサンドロス大王、第二にエペイロスのピュロス、そして第三が私だ」

スキピオは質問を重ねます。

「もしザマであなたが私を破っていたら?」

ハンニバルは不敵な笑みで答えます。

「もちろんアレクサンドロス大王を越えて私が第一になっていた」




名将ハンニバル。その名は長年に渡りにローマで最も恐れられる名となります。しかし一度でもローマと戦った国においては「あのローマを」ぎりぎりまで追い詰めた、最高の英雄の名として残ります。

彼は多弁な人ではありませんでした。彼の戦略が多弁に彼の考えを語っているのに比べ、彼の言葉はほとんど残っていません。しかしカルタゴとローマの行く末を暗示するかのような彼の言葉が残っています。

「どんな強国であれ崩壊は外敵によるものではない。
まるで人の身体が徐々に疾患に冒されていくかのように、
常に崩壊は内部から始まるのである。」






<ハンニバル伝 完>

ローマ人列伝:ハンニバル伝 9

2009-03-31 21:28:53 | ローマ人列伝
古代史において「名将を5人挙げよ」と言えば必ず入るであろうハンニバルとスキピオ。運命はこの2人を同じ時代、同じ地中海世界に誕生させました。そして更にこの2人を違う国の司令官同士として戦わせる、というのですから運命というものは劇的です。

名将ハンニバルは「読んで作る人」でした。

情報を集め、人の心を読み、新たな戦略戦術を作る。今まで誰もが使っていながら有効活用していなかった騎兵での包囲戦術を確立させ、その戦術は現代の陸軍士官学校でも最初に学ぶ題材になっているほどです。

一方、ローマのスキピオは「学んで磨く人」。

若い頃から3度もハンニバルとの戦いに出向き、その肌でハンニバルの戦術を学び自分の物として磨き上げていました。

もし同じ国に生まれていたら、彼らは良き師弟になっていたかもしれません。しかし今は敵同士。歴戦の名将ハンニバル、ひとつだけ恵まれなかったのは自身の将器を継ぐ後継者の存在。


ローマ本国まで迫りながら「ローマの盾」ファビウスと「ローマの剣」マルケルスにより南イタリアへの足止めを余儀なくされ、マルケルスをやっと倒したと思えば本国の危機により、帰国せざるを得なくなったハンニバル。

カルタゴ本国により軍曹司令官に任命されたハンニバルは本国でこの戦争を決定する戦いを迫られます。ローマ遠征軍を率いるのはスキピオ。

スキピオは25歳の時に「そんな若造に何が出来る」と元老院から嘲笑を浴びながらもヒスパニア、ハンニバルの地元の攻略に見事成功しており、6年後の今は執政官になっていました。彼が指揮を執った戦いは今まで無敗(一方、彼が「参戦」した戦い、ティチーノ、トラジメーノ、カンネーがことごとく完敗だったのは面白いところです)。しかし、スキピオのあまりの能力に嫉妬と恐れを持った元老院からは冷遇されており、執政官となった今もローマ正規軍団の指揮権は持たされていませんでした。ならばとスキピオは独自にシチリアで義勇兵を募集。

※余談ですが「話しても無駄なら実力で見せてやる」とばかりこのように黙認のまま成果を出してしまうところがスキピオのすごさである反面、「そういうことやるから元老院に嫌われるんだろう」というところでもあります。

スキピオの呼びかけにはカンネーで生き残り、ハンニバルに恨みを持つ兵が多数集まります。この兵を訓練し自らの軍団を組織、カルタゴ侵攻の許可を元老院に求めました。

しかしこの作戦に元老院の中心人物「ローマの盾」ファビウスは「対ハンニバルはあくまで持久戦」と強く反対。憤慨したスキピオは半ば強引にアフリカに渡ったのです。

ハンニバルは16年間、カルタゴ人ながらカルタゴ本国の援助を受けず独力で戦って来ました。にも関わらず、ローマ本国攻略までもう少しのところでカルタゴ救援のため本国帰還を余儀なくされました。一方、無敗を誇りながらローマ本国からは見放されたスキピオ。

彼らの戦いは北アフリカの平地、ザマで行われます。



ザマに到着したハンニバル軍、敵であるスキピオ率いるローマ軍がそこから100キロ西に陣を張っていることを知ります。「情報」がすべての糧であるハンニバル、早速敵陣に調査兵を差し向けます。

が、その調査兵はローマ軍に捕えられます。

司令官スキピオの前に召しだされた調査兵、当然斬首かと思いきやスキピオからの意外な言葉に驚きます。スキピオの言葉は「諸君らの目的が調査ならば存分に見たまえ」。調査兵は3日間、じゅうぶんなローマ軍調査を許されます。

3日後、戻った調査兵からこの話を聞いたハンニバル、スキピオに会談の申し出の使者を送ります。

そして、ここにハンニバルとスキピオの直接会談が実現します。

(ザマにおけるハンニバル、スキピオ会談の図)

両者共に伴っているのは通訳と少しの護衛のみ、正に一対一の会談でした。

先に口を開いたのは会談を申し出たハンニバル。

「おそらく…」

ローマと戦ってきた16年間を代弁するかのような長い沈黙のあと、ハンニバルは言葉を続けます。

「我々にとって最も幸福な選択は、ローマがイタリアより外には出ず、カルタゴがアフリカより外には出て行かないことであっただろう。ローマとカルタゴの争いの種はシチリアであり、サルデーニャでありスペインであったのだから。」

ハンニバルはカルタゴとローマの歴史から語り始め、続けて如何に自分がローマで勝利を収めてきたかを語り、そして提案しました。

「わたしとのこれからの対戦でもしもあなたが勝者になったとしてもあなたの名声が高まるわけではない。もしあなたが敗者となればこれまでのあなたの輝かしい戦歴は無に帰すだけでなく、あなた自身の破滅にもなるだろう。

だから提案したい。ローマ人はシチリア、サルデーニャ、スペインの正式な所有者となる。カルタゴはこれらの地方のためには二度と戦争に訴えないと宣言する。」


つまりハンニバルによる事実上の停戦提案でした。幼い頃から打倒ローマを誓ったハンニバルがここで停戦を提案した心中は計り知れません。しかし彼にはもう手はありませんでした。祖国スペインも既に落城。一度は盟を結んだガリア、マケドニア、シチリアもローマが奪還しています。栄華を誇ったカルタゴとは言えもはや現時点で大国となったローマに抗う術はありませんでした。あるいは。これは想像ですが3日かけて徹底的にローマ軍を調査した報告を聞き、「これはもはや勝ち目なし」と感じたのかも知れません。

しかし「手はない」のはスキピオも同様。その若さで執政官に当選し、元老院の反対を押し切ってのアフリカ遠征。もしカルタゴを落とせずローマに帰還すれば強く非難されることは明らかです。もはやローマが求めているものはカルタゴとの停戦ではなく、カルタゴの滅亡なのです。

実はハンニバルのアフリカ入りの前に一度はローマとカルタゴの間で休戦が結ばれかけました。しかし、カルタゴがハンニバルをアフリカに呼び戻したことはローマの逆鱗に触れその休戦も反古にされていたのです。スキピオには戦うしか、そして勝つしか手はありませんでした。

ハンニバルの停戦提案にスキピオはこう答えます。

「この戦役を始めたのはローマではなくカルタゴだったことはハンニバル、あなた自身が誰よりも知っている事実である。

ハンニバル、私はあなたに明日の会戦の準備をすすめることしか出来ない。

なぜならカルタゴ人は、いや、あなたは、平和の中で生きることが何よりも不得手なようだから。」


もし違う時代に生まれていれば戦うことはなく、稀代の戦術家として名前を残したであろう二人。

もし同じ国に生まれていれば、良き師弟として地中海世界どころかヨーロッパに平和をもたらしたであろう二人。

その二人が、しばしの沈黙の後、背中を向け、歩き出しました。

この会談が決裂したことで、このザマの地で、カルタゴ対ローマの最終決戦が行われることが決定しました。


…to be continued...