群馬におります。
この写真見て「あ!群馬だ!」と思う人はあまりいないと思うけど。
暑いです。やっぱりねぇ、前橋とか高崎とかは暑いね。
ここ最近改めて「現場の大事さ」ということを感じています。僕としてはしばらく、いつも以上にちょっといろいろ行こうかな、と思っているところです。
分断の時代、と言われているし先日の選挙を例に取るまでもなく右や左、上や下、と二極化している印象を受ける。さらに、分断それ自体よりも分断の間に取り付く島がない、架ける橋が無い、ということを感じている。
こちらの人はもう完全にこちら、あちらの人はもう完全にあちら、ちょっと一緒に話をしませんか、と言ってもなかなかそうならない、ような印象を受ける。
これってなんなのかな?と思ったらそれは「現場・非現場」の違いじゃないだろうか、と最近思った。
ちょっと長ったらしくなるけど書きます。
例えば、今回先日の選挙で僕が2つ着目したニュースがあった。それは「れいわ新選組」の演説に集まる人々の話と、札幌で首相が選挙演説しようと際、批判的なプラカードを出した方が警察(?あるいはSPかな?)排除された、というニュース。
おそらくこの2つ、普通の地上波のニュースではほとんど放映されないんじゃないかと思う。
例えば、たまに電車で大声で揉めている人がいる。ちょっと肩ぶつかったとか足を踏んだとかで踏まれたほうが「おい!てめぇ!」みたいな感じでね。そういうのって目の当たりにするとすごくびっくりするし、もちろん恐怖を感じる。たった人の人が大声を出している、というだけで駅構内全体の人の動きが止まるくらいのインパクトがある。でも、この話を例えば人に話したとしてもその人って「へー、それは大変だったねぇ」くらいは言ってくれるだろうけどそのときにインパクトほどは感じてくれないんじゃないかな、と思う。
れいわ新選組にしても、札幌のプラカードの話にしても、もし目の前で見ていたらしばらくは忘れられないくらいの衝撃を受けたんじゃないかな、と思う。だけど、現場にいなければ、テレビが放送しないわけでほとんどの人が知らない。
「いや、ネットとかで見られるよ」とおっしゃるかもしれない。確かにそうだけど、それはやっぱり自分で主体的に検索しないと見るのは難しいし、そこだけ切り取って見てもあまりインパクトはないかもしれない。
この現場感の差異というものが大きな分断を生んでるんじゃないか、と僕は最近思う。
例えば、経済に関してもそう。政府がどんな数字を発表したとしても(それが正しいかどうかはいったん置いておく)、身の回りの人のお金の感覚なんかを肌で感じる。僕のよくいく喫茶店(町の小さな喫茶店)では近所の女性、歳の頃なら今頃年金をもらっていてもおかしくないくらいの女性、がふと入ってきて「1,000円貸してくれないですか」とお願いされたらしい。僕はそのとき、その現場にいなかったけれど、もしいたら「なんてこった、この国は?」と強く思ったんじゃないかな、と思う。だけど現場ではなく、テレビを見ていれば「うん、なんとなく最近は景気いいんじゃないの?」と思うだけかもしれない。
ここ数週間、いろいろなところに行った。青森、秋田、栃木、群馬。いろいろと思うことはやっぱりあった。やっぱり、現場は大事だよね。
スマホではわからないことがたくさんあるよ。
この写真見て「あ!群馬だ!」と思う人はあまりいないと思うけど。
暑いです。やっぱりねぇ、前橋とか高崎とかは暑いね。
ここ最近改めて「現場の大事さ」ということを感じています。僕としてはしばらく、いつも以上にちょっといろいろ行こうかな、と思っているところです。
分断の時代、と言われているし先日の選挙を例に取るまでもなく右や左、上や下、と二極化している印象を受ける。さらに、分断それ自体よりも分断の間に取り付く島がない、架ける橋が無い、ということを感じている。
こちらの人はもう完全にこちら、あちらの人はもう完全にあちら、ちょっと一緒に話をしませんか、と言ってもなかなかそうならない、ような印象を受ける。
これってなんなのかな?と思ったらそれは「現場・非現場」の違いじゃないだろうか、と最近思った。
ちょっと長ったらしくなるけど書きます。
例えば、今回先日の選挙で僕が2つ着目したニュースがあった。それは「れいわ新選組」の演説に集まる人々の話と、札幌で首相が選挙演説しようと際、批判的なプラカードを出した方が警察(?あるいはSPかな?)排除された、というニュース。
おそらくこの2つ、普通の地上波のニュースではほとんど放映されないんじゃないかと思う。
例えば、たまに電車で大声で揉めている人がいる。ちょっと肩ぶつかったとか足を踏んだとかで踏まれたほうが「おい!てめぇ!」みたいな感じでね。そういうのって目の当たりにするとすごくびっくりするし、もちろん恐怖を感じる。たった人の人が大声を出している、というだけで駅構内全体の人の動きが止まるくらいのインパクトがある。でも、この話を例えば人に話したとしてもその人って「へー、それは大変だったねぇ」くらいは言ってくれるだろうけどそのときにインパクトほどは感じてくれないんじゃないかな、と思う。
れいわ新選組にしても、札幌のプラカードの話にしても、もし目の前で見ていたらしばらくは忘れられないくらいの衝撃を受けたんじゃないかな、と思う。だけど、現場にいなければ、テレビが放送しないわけでほとんどの人が知らない。
「いや、ネットとかで見られるよ」とおっしゃるかもしれない。確かにそうだけど、それはやっぱり自分で主体的に検索しないと見るのは難しいし、そこだけ切り取って見てもあまりインパクトはないかもしれない。
この現場感の差異というものが大きな分断を生んでるんじゃないか、と僕は最近思う。
例えば、経済に関してもそう。政府がどんな数字を発表したとしても(それが正しいかどうかはいったん置いておく)、身の回りの人のお金の感覚なんかを肌で感じる。僕のよくいく喫茶店(町の小さな喫茶店)では近所の女性、歳の頃なら今頃年金をもらっていてもおかしくないくらいの女性、がふと入ってきて「1,000円貸してくれないですか」とお願いされたらしい。僕はそのとき、その現場にいなかったけれど、もしいたら「なんてこった、この国は?」と強く思ったんじゃないかな、と思う。だけど現場ではなく、テレビを見ていれば「うん、なんとなく最近は景気いいんじゃないの?」と思うだけかもしれない。
ここ数週間、いろいろなところに行った。青森、秋田、栃木、群馬。いろいろと思うことはやっぱりあった。やっぱり、現場は大事だよね。
スマホではわからないことがたくさんあるよ。