浅草文庫亭

"大哉心乎"
-大いなる哉、心や

自分が何に恐怖を感じるか。

2011-08-31 23:22:03 | DVD、映画
(今回の話は映画「13日の金曜日」についてばっつりネタバレしてます。これから観るつもりの
方はご覧になってからどうぞ)

前も考えたことがあるんだけど、「恐怖」ってことについて考えています。

納涼ということもあって勝手に「恐怖映画週間」ということでバババっと恐怖映画を観てみたんです。

「エクソシスト」、「13日の金曜日(リメイク版)」、「ハロウィン(リメイク版)」、「悪魔のいけにえ」、「13日の金曜日(オリジナル版)」、「パーフェクトブルー」、、、

この中で「ああ、怖いな」と思ったのは「13日の金曜日(オリジナル)」と「パーフェクトブルー」、そして「まぁみんなが怖いというのも分かるな」と思ったのは「エクソシスト」。その他は「別に怖くないなぁ」という感じだった。

念のため言っておくけど僕は決して恐怖に強い、というわけでは無くて、むしろ怖がりだと思う。出来れば怖いものは見たくないし、怖い話も聞きたくない。

でも何でこんなに恐怖映画を観たのか、というと「自分は何を怖いと思うんだろう?」という疑問があったから。

そしてその結果「僕が怖いと思うもの」が分かった。それについては後述します。

これらの映画を観ながらまず「恐怖」というものについて考えた。

おそらく恐怖をテーマにした作品、つまりそれは映画でも小説でも、もっと言えばちょっとした怪談話でもいいんだけど、そういうのには2種類あると思う。

一つは「生理的嫌悪感を与えるもの」。これは例えばグロテスクな表現(血がドバーッとか)やビックリさせることとか。扉を開けたら怪物がドン!とかってのはビックリさせるもの。

はっきり言ってしまうとこういうタイプの映画は映画館で観るならともかく家で観ているかぎりそんなに怖くない。しかも一回驚いてしまうと二回目以降は怖くないしね。だってビックリ箱みたいなものでしょ。

もう一つのタイプは「現実と地続きのメタファー」が描かれているもの。

これはちょっと面倒なのでいくつか例を挙げます。

例えば「エクソシスト」。観た方はご存知だと思いますがこれは思春期を迎えた娘が悪魔にとりつかれて様々な超常現象を起こす、というもの。悪魔にとりつかれた以降の娘はそもそも顔がグロテスクになるし口汚く母親をののしる。

これを観て「悪魔がとりつかれたら怖いなぁ」と思う人はおそらくあまりいないんではないかと思う。

ただ、もし自分が思春期を迎える前の娘を持っている親だとしたら恐怖を感じると思う。だってね、どの親だって深層心理的に「もし今は可愛い娘がこの後、荒れたらどうしよう?」という気持ちは持っているはずだと思う。その状態でこの映画を観ると悪魔憑きは別として「娘がこんな状態になったら怖いなぁ」と思うと思う。

これがつまり「現実と地続き」ということ。

「こんなの絶対自分の身には起きない」と思っていたらそれはまったく怖くない。でも「状況は違えどこういう状態に自分もなるかも知れない…」と思えるかどうか、が恐怖映画の「怖さ」のポイントだと思う。

例えばね、「Idiocracy」というコメディ映画があるんです。ちょっと邦題が「26世紀青年」とひどいので原題で書くことを許して欲しいけど。

Idiocracy、というのはもちろん造語で「バカ、まぬけ」という意味の「idiot」と「民主主義」の「democracy」を足したもの。簡単に言うと「バカ主主義」ということですね。

どういう映画かというと主人公が500年の冷凍睡眠から目覚めてみると世界はバカに支配されていた、というもの。

なぜかというと(僕の意見じゃないですよ、映画の冒頭で説明される)、IQの高い人はIQの高い人と結婚する。そして二人とも仕事を一生懸命やっていて「子供はまだいいわ」とか言ってる、そのうち片方が死んでしまい子供を作らない。一方、IQの低いもの同士は避妊もしないし浮気もするのでどんどん子供を作る。そしてそうやって生まれた子供はまともな教育も受けられないので同じことを繰り返す。(何度も言うけど僕の意見じゃない、そういう映画なんです)

それを500年繰り返すとIQの高い人は子孫を残さず、低い人の子孫ばかり増える。結果、全員がバカになる、、というSF的ストーリー。

バカに支配された500年後の世界の描写が最高に面白い。新聞や本は誰も読まないので無くなり、まともなテレビ番組も誰も見なくなるから、流れるのは下劣な番組ばかり。アカデミー賞を取る映画は90分間ずっとオナラをする尻を写したもの。アメリカ大統領は政治のことなど何も分からない元レスラー。。。

このあたりの描写が最高で笑うわけだけど、笑った後でうすら寒くなる。

つまり「え?これって現代とそんなに変わらないんじゃないの?」と。

このようにコメディでも現実の恐怖と地続きであれば、やっぱり恐怖が生まれる。

もっと例を言うと例えば「グレムリン」。ご存じない人のために言っとくとギズモという可愛い生物がグレムリンという怪物に化けてしまい人を襲う、というもの。
これを僕がまだ子供の頃観たときにはよく分からなかったけど、なぜあれだけ受けたか、という一考察を聞いてなるほど、と思った。

グレムリンは群れで動く、言葉は通じない(グレムリンは群れ同士でよく分からないことを喋っている)、そしてちょっとした機械の使い方をすぐマスターしてしまいそれを武器に襲ってくる。

公開は1984年。このときの多くのアメリカ人の深層心理にあった恐怖とはつまり「日本人に国を則られるんじゃないか」というもの。つまりグレムリンを日本人に見立てていたので観客の現実の恐怖と地続きになった、ので受けた。(僕の意見ではないですよ、あくまで考察の一つ)

もう一つだけ例を挙げるとゾンビ映画。ホラー映画の中で人気のある分野だから玉石混交たくさんあるけど本主本流といえるのはジョージ・A・ロメロという人のもの。この人のゾンビ映画は毎回、ゾンビを題材として現実的な社会問題とリンクしている。だから観終わった後に、怖い。

結構最近の「ランド・オブ・ザ・デッド」なんて正にそう。

どういう話かというとゾンビが大量発生した世界で金持ちは高級ホテルを封鎖しその中で毎日パーティをしている。そして金の無い人々を金で雇いゾンビを殺させゾンビのいる外界に残された食料や宝石を採りに行かせている。貧乏な人はそのためにゾンビのいる外界に戦いに行きどんどん死んでいく。でもその人たちはそうやって金を稼ぐしかない。

これはね、明らかにイラク戦争のメタファーです。つまり金と権力を持った人々(政治家とか)は自分の身を削らず、金のために軍隊に入るしか無い人を戦場に送る。更に言うと今までのこの人のゾンビ映画ではゾンビはゾンビ同士コミュニケーションをとることはなかったけど、この作品だけ、ゾンビはゾンビとしてコミュニティを作り立派に(ってのもおかしな話だけど)生活していることが少し描かれる。これは正にアメリカが普通の人々を「テロリストだ」と断定し勝手に戦争していることへの皮肉。

これに気づいたとき、この映画はゾンビとかそんな非現実的な話ではなくて現実と地続きになり、怖くなる。

このように、恐怖映画というのはフィクションの世界でありながら、根本に流れるのが観客が根源的に持っている現実の恐怖に一部分をリンクさせることで怖がらせる、というものであるべきだと思う。

逆に言うと現実と地続きじゃない恐怖映画はまったく怖くない。


さて、僕の感じる「現実と地続きの恐怖」とは何か?

今回見た映画の中で「ああ、これは怖い」と思ったのは「13日の金曜日(オリジナル)」と「パーフェクト・ブルー」。両作品の何に僕は恐怖を感じたのか。

誤解を恐れず言うけど、両方とも「おかしくなった女性」の描写に心から恐怖を感じた。

(ここから「13日の金曜日(オリジナル)」の超ネタバレ)

「13日の金曜日」は昔、ジェイソンという少年が溺れ死んだ湖で連続殺人事件が起る。ジェイソンの呪いかと思っていると実はジェイソンの死を逆恨みした母親の犯行であったことがラストで描かれる。この母親が怖い。話はまったく通じないし、恨みからおかしくなっている。

(ネタバレ終わり)

「パーフェクト・ブルー」もそうで終盤に明らかにおかしくなってしまった女性が出てくる。「パーフェクト・ブルー」はそれ以外にも怖いところがあるからぜひ観て頂きたいので詳細は割愛します。

この2つの映画を観て「ああ、自分はこういうの怖いなぁ」と心底思った。

もちろん僕は普通の女性への恐怖感を持っているわけではない(と思う)。むしろ好き。

ただ、非常にささやかな回数の恋愛経験において相手の女性と「ああ、完全に話が通じない…」と途方にくれた経験は何度かある。男性ならありますよね?

もちろん僕に落ち度がないと思っているわけではなくて大体において僕が悪いんだけど、それでも相手の女性が怒っている理由が見当つかない。何に対して腹を立てているかが分からないので当然僕が言うことも見当違いなので話は更に悪化してく…。。喧嘩になってそういう状態になることがあった。

とうぜん相手の女性は映画のように包丁やナタを取り出すわけではない(当たり前だ)けど、まったく話が噛み合わずしかも自分の何が悪かったのか分からない、ということって男性ならたまにあるでしょう?

大げさに言うと「この目の前にいる女性とはこのまま永遠に意見が平行線のまま交わらないんじゃないか…」と途方にくれるような状態。

そういうときに僕は不条理な、いや僕が悪いのに不条理と思うのも申し訳ないんだけど、気持ちになる。

その不条理が映画において増幅して描かれているときに、僕は心底「怖いなぁ」と思うんです。

不思議なことに「話の通じない男」が出てくる映画ってあまり無い。男の殺人鬼ってだいたいにおいて「寡黙」で一言も発せず、無言で人を殺していく。僕はこういうのはあんまり怖くない。

この対比は面白いなぁ、と思うんだけどね。

で、考えてみると僕が恐怖を覚えるのってとにかく「話が通じない」ということなのかもしれない。

たとえば「潜水士は蝶の夢を見る」という映画がある。これは普通の生活を送っていたある男性が全身麻痺になりまぶたしか動かせなくなる、というもの。

たとえば「ミッドナイト・エクスプレス」。とあるアメリカ人がトルコの刑務所に入れられ話が通じないまま刑務所内で悲惨な目に合う、というもの。

どちらも僕は「うわー、こんな目にあったら自分だったらおかしくなっちゃうなぁ」と心底思うくらい怖いんです。

と、まぁ長々書いてきたけど「自分が何を恐れているか」ということを知るのは興味深いものです。何の役に立つかはまったく分からないけれど。

すず

2011-08-29 19:53:34 | 食べ物
夏も終わるなぁ、と思ってサザンの「I am your singer」を貼ったんだけどまだ暑いすね。

どこに行っても節電気味だし(それ自体は悪いことじゃない)、なんとウチのオフィスの冷房が壊れたりして暑い日々。

日中、外に出歩くことが多いのでついつい喫茶店に入ることが多い。

最近はコーヒーが安いところがたくさんある。

街中で30分くらい時間が空いてしまった場合は本屋で時間を潰すことが多いけど安いコーヒーのためにお店に入ることも多い。

だいたいマックかドトールかなぁ。

こないだ牛丼のすき家でご飯を食べていたらすき家もコーヒーが100円なのね。テーブルがある店舗も多いからそこで時間を潰している人もいるんだろう。

ちょっと長め、2時間くらい空いてしまったときには本格的にパソコン開いて仕事をしたいからちょっと値が張っても普通の喫茶店に入る。

スタバ、タリーズ、と言ったスペシャリティコーヒーだったり、上島珈琲あたり。あとは昔ながらの喫茶店とか。

特にさ、上島珈琲が結構好き。

あそこは何よりアイスコーヒーのカップがよくないですか。

この画像は上島珈琲じゃないんだけど、こういうスズのカップで。

キンキンに冷えてて見るからに冷たそうで、見ただけで少し体感温度が下がる気がする。

こういうのいいなぁ、と思う時期もまあ後数週間したら終わる。

毎年思うけど、夏の終わりって「すごくわがままな人と付き合って、別れた後」という感じがする。付き合ってるときはすごく大変で「もうこりごりだ」と思ってたんだけど、別れてみると「うーん、とは言え楽しい思い出もあったよなぁ」と思い返すような。

そう思いませんか?え?思わない、そうですか。

夏がまた来るまでは

2011-08-25 18:42:04 | 音楽


I am your singer
僕の生きがいは
数え切れないその笑顔

愛の歌も魂の声も
あなたがくれた
プレゼント

きっと未来は
あてなき旅の途中
また逢う日のため
笑っておくれ

夏がまた来るまでは
互い涙見せずに
いつまでも変わらぬ思い

遠く離れ離れのときも
大好きだよと
唇に微笑を
いつの日も
乗せて

I still remember
この素晴らしい
永久の出会いを忘れない

ひとりぼっちじゃ
夢かなわない
さぁみんなでLove song
アンコール

いつも人生(ザ・ステージ)にゃ
ドラマが待ち受けている
愛おしいその声が
僕を呼んでいる

歌は熱い叫びか
甘いささやきなのか
この胸に
響くはMelody

それは八月末の空の花火みたいに
ああ、咲きながら散りながら
今夜こそ
キメて

夏がまた来るまでは
互い涙見せずに
サヨナラは明日のために

遠く離れ離れの
ときも大好きだよと
太陽が沈むのを
Let's sing along

唇に微笑を
いつの日も
乗せて

つけ麺リアリズム

2011-08-22 22:26:52 | 食べ物
で、やっとつけ麺の話。

つけ麺はあんまり好きじゃない、と言ってたけど最近好きになってきた。

元来の麺食いでありながらラーメン原理主義者である僕はそもそもつけ麺があんまり好きじゃなかった。

でも「これだけ色んな店で出てるということは自分が美味しくものを食べてないだけかもしれない」と思って食べ続けているうちに、「あ、自分はこういうタイプのつけ麺が好きで、こういうつけ麺が好きじゃないんだな」と言うことが分かるようになってきたの。

あくまで僕の意見だけどつけ麺には大きくわけてロマン主義的つけ麺とリアリズム的つけ麺があるんじゃないかと思う。いや、我ながらアホみたいなこと言っているのは良くわかる。でもそう思うんです。

ロマン主義的つけ麺は「いわゆる、つけ麺」を追求したもの。

極太麺、甘酸っぱいつけ汁、魚粉たっぷり、という感じ。残念ながら僕はこういうのはあんまり好きじゃない。そもそも甘味が強いラーメンが好きじゃない。あるところでキャベツがたっぷり入ったラーメンを食べたときもキャベツの甘味がたっぷりで好みじゃなかった。JRの駅によくらーめん粋家ってのがありますが、あそこのラーメンもキャベツたっぷりで好みじゃない。そもそも言っちゃえば味噌ラーメンもさ、あまり食べないんだけどあれも甘いんだもん。

ちょっと話ずれるけど「甘さが旨さ」という考えがあるでしょ。そもそも日本語において「甘い」という言葉を遡っていくと「旨い」にたどり着くらしい。つまり「あまし」が「うまし」になった、と。まぁそれはどうでもよくてとにかく僕は「甘い=美味い」否定派です。

「美味しい、て言うか逆に甘い!」とか言ってる人たまにいるでしょ。そういうの聞いてて「それは旨いんじゃなくて甘いんだよ!ぜんぜん逆じゃねーよ!」と叫んでます、心の中で。

だってね、人間の舌は5つの味を感じられるようになっている。つまり甘味、塩味、苦味、酸味、旨味の5個。ということは甘さと旨さは別じゃん!
ちなみに人間の舌は辛味を感じられません。あれは痛覚を刺激されてる、つまり「痛さ」。だから「辛い!っていうか痛い!」とか言ってるの聞くと「それは当たり前なんだよ!」と叫んでます、心の中で。

はい、つけ麺の話しに戻します。

一方、リアリズム的つけ麺というのはその店のリアルなラーメンに基づいたもの。はっきり言ってしまえばその店のラーメンのスープ濃くしたのに、ザルに取った麺つけて食う、と言うだけのもの。

この2つというのはどちらもありうる方向性で(そのブレンドというのだってあるけど)どちらが好きか、というとそれは好みでしかない。

で、僕はどちらかというとリアリズム的つけ麺のほうが好きです。

「あ、つけ麺もいいじゃん」と思ったのはアメ横に久留米ラーメンの店のつけ麺。そもそも、そこのラーメンが旨いのね。しょんである時、そこでつけ麺頼んでみたんだけどそれはそれでやっぱり旨かったのよ。

あとね、つけ麺はだいたい最後に割スープくれて、それでつけ汁を割って飲むでしょう?それもね、残念ながらロマン主義的つけ麺屋だとがっかりするような割スープが出てくるんです。なんの風味も無いただお湯に粉ぶし溶いただけみたいなさ。なめんとんのか!と叫ぶね、心の中で。

ここにロマン主義の問題が一つある。つまり、「あるべき姿」というのが明確であるあまり、あまりにも平面的で特徴がない、「結局どれもいっしょじゃないか」となりがちだと言うこと。

つけ麺は極太麺ならいいんでしょ、汁は甘酸っぱくて魚粉がたっぷり入ってればいいんでしょ、割スープはお湯に粉ぶしといてあればいいんでしょ、という非常に手抜きがまかり通っている(というお店もある)。

これは例えばロマン主義的芸術であれば「美男と美女出しとけばいいんでしょ、悪人が最後痛いめに合えばいんでしょ」というのと似ている。

だからこそここに僕はロマン主義的つけ麺に異論を唱えたい。

もちろんロマン主義的つけ麺を好む人に取ってみればリアリズム的つけ麺は「単にラーメンのスープと麺を分けただけじゃないか」と思うかもしれない。リアリズムの問題は確かにそこで「まんまじゃねーか!」というとこなんだけどね。

ただね、あくまで傾向だけどリアリズム主義的つけ麺を出す店は普通のラーメンもやってる場合が多くて、そういうとこの中にはほんとのスープを割スープとして出すとこもあるのね。このスープが不味いわけないじゃないですか。

たまに行くつけ麺屋があってそこは割スープがすごく旨いの。風味のあるトンコツスープでね。正直、このスープにちょっと醤油たらしただけで旨いんだろうな、と思っちゃうね。

つーことでつけ麺はリアリズムが好き。

ちなみにカップラーメンはロマン主義が好きです。

ついでに言うと油そばはラーメンにおけるシュールレアリズムだと思ってます。となると麺のポストモダンはどこにあるのか、という問いが生まれるわけです。

あー、麺食べたくなってきた。。。

ロマン主義とリアリズム

2011-08-21 21:58:25 | 日記
つけ麺の話をしたいんだけど、そのためにはまず「ロマン主義」と「リアリズム」について整理しておかないと話せない。

ちょっと面倒な話になりますけど。

人の作る芸術のすべてはロマン主義とリアリズムの繰り返し、という考え方があります。

ロマン主義、というのはつまり「あるべき理想像」を描くもので、例えば漫画にたとえると少年ジャンプ的なものだと思っていいと思う。

つまり、正義は勝ち、悪は滅び、愛情は普遍で、友情はかけがえの無いもの、、、という感じのストーリー。つまりはまぁべたべたの話、ということになる。

これが行き着くところまで行くと観客(つまり我々)は「そんな都合のいい話ばっかりじゃないだろ」と思い出してしまい、リアリズムが好まれることになる。

リアリズムのストーリーというのは「努力したからと言って報われるとは限らない」「正義が勝つとは限らない」、非常にリアルなストーリー。これが行き着くところまで行き着くとシュールレアリズムとなり誰にも理解出来なくなる。そして再度、分かりやすい「ロマン主義」を求める。

およそすべての芸術はずっとこの繰り返しで進んできている。

たとえばハリウッド映画にしても、50年代、60年代はいわゆる「ハリウッド・エンディング」というやつで正義は必ず勝つし、愛する二人は最後に必ず結ばれる。(この年代にはそういうストーリーしか描いてはダメ、というハリウッド業界の自主規制があったからだけど)

その後、そういうストーリーに飽きた若者たちの間で人気になったのがいわゆる「アメリカン・ニューシネマ」というムーブメント。このムーブメントによって出来た映画が例えば「ロッキー」。落ちぶれたボクサーがチャンピオンに立ち向かうため努力し努力し、、、そして負ける。

リアリズムに基づいたニューシネマがどん詰まりまで行き着くと観客は「こりゃさすがにあまりにも夢が無くて詰まんないよ」ということになり再度、ロマン主義の映画が作られ始める。ロッキーだって2では勝つ。

このロマン主義とリアリズムの繰り返し、というのはどの分野についても言えることだろうと僕は思う。

そういう視点で、なんでもいいんだけど芸術、エンターテイメントの分野を観ていくといろいろ分かる。

ということでこの視点に基づいて、つけ麺の話を今度します。たぶん、おそらく。

する必要なかったらしないこと。

2011-08-18 20:36:36 | 
する必要なかったらしないなー、ってこと無いですか。

例えば歯磨き。歯磨きしなくても虫歯も口臭もいっさいない、歯もぴっかぴかに白い、もちろん朝起きた時のネバネバもない、って言われたら歯磨きします?

僕はしないなー。歯磨き自体を僕はそんなに楽しんでないもの。気分転換に口をスッキリさせたい、って時はリステリンとかフリスクとかでいいし。

そういう「する必要なかったら別にしなくていい」ってことあるでしょ。

例えば爪切り。爪がもしぴっちり切った状態でもう生涯伸びない、って言われたら僕はそれでありがたい。別に爪切りなんて楽しいもんじゃないし。

女性がネイルするのは分かるけど男性の場合はきちんと切りそろえられていればそれで問題ないものね。

コンタクトなんかどうすか?

僕は裸眼なんだけど、コンタクトしている人だって、しなくて済むならみんなしないんじゃないですか。「コンタクトするの好き」って人はいないような気がする。メガネはまぁ「する必要なくてもしたい」って人いそうだな。伊達メガネとかあるもんね。個人的には僕は女性がメガネしてるだけで100点アップなんで世の中のすべての女性がメガネしてほしいけど。

そうそう町歩いていると最近女性でアラレちゃんのような大き目の黒縁メガネ、しかもレンズ入ってないやつをしている人多いよね。あれについては今度ドッピオさんと語りたい。

えーと何の話だ?

で、いっぽう、「する必要ない、って言われれてもするだろうなー」ってこともあるよね。

例えばもし耳あかが一切たまらない、と言われても僕は耳かきはすると思う。好きだもん。

食べ物一切食べなくても死なない、と言われても食べるだろうし、裸で歩いてても寒くも暑くもない(もちろん他人から白い目で見られない)って言われても服は着るだろう。

この違いはなんなんでしょうね。

なんてことを美容室で髪切ってもらいながら考えた。

たまに、半年に一回くらい、「あ、この髪の感じのままずっと止まってくれないかな」と思うことがある。髪を切って直後、では無くてそこから少し伸びて落ちついて、ちょうどいい感じの長さとあとなんかの偶然が重なっていい髪の長さの時があるんだよね。

もしそこで止まってくれたら僕は文句ないよ。女性は色々髪型変えたいだろうけど僕はもうそういうのないなー。

美容室だってさ、行かなくて済むならそっちのほうがいい。そりゃ座って鏡の前に写るのが加藤ローサだの石原さとみだったら喜んで行くけどさー、写るのは毎日見覚えある顔だしね。

もし、生きていくのに恋愛は必要が無い、って言われても恋に落ちちゃうだろうなぁ。

群像劇を愛する理由

2011-08-15 22:47:15 | DVD、映画
好きな映画のポイント、というのはいくつかある。

たとえば、突然歌いだすシーンがあるってのは最高に好きだし、天使(死神でもいんだけど)が出てる、ってのもいい。

その中の一つが「群像劇」ということです。

群像劇、と言うのは主役級の人がたくさんいて、同じ時間軸の中でいくつかのドラマが進んでいく、という感じのもの。

「グランド・ホテル」という映画が代表作のようで「グランド・ホテル形式」とも呼ばれているみたい。

最近の代表的なもので言えば『ショート・カッツ』、『マグノリア』、『クラッシュ』あたり。どれも僕は好きです。『パルプ・フィクション』も関係ない人々が少しすれ違う、という意味では群像劇のひとつと言ってもいい。

邦画でいうと三谷幸喜監督の『THE有頂天ホテル』もそんな感じだったね。

僕が何故群像劇がすきかと言うとすごく「人生」を感じるんだよね。

そのシーンの軸になっている人の隣に脇役として出ている人が他のシーンでは主役だったり、別々のシーンの人たちが何か関わったり。

人生ってこういうことでしょ。

普通の映画だと主役と脇役、名も無い通行人役の人もいるけど人生においてはその通行人にもドラマがある。

こういうのってすごく僕は人生を感じる。

で、群像劇の名作を見ました。

ラブ・アクチュアリー 【プレミアム・ベスト・コレクション00】 [DVD]
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イイ!!

クリスマス数週間前の20人くらいの愛にまつわる話。どれだけのエピソードがあったかとちょっと思い出してみると、
・イギリス首相の話。
・義理の息子とお父さんの話
・撮影現場のスタンドインの話
・新婚カップルと友人の話
・アメリカに行くもてない男の話
・フランスに行った作家の話
・2年くらい片思いしている女性の話
・その上司と奥さんの話
・売れない老ロック・シンガーの話
他もあったかも知れないけど、こんな感じかな。
それぞれの話が少しずつ絡み合い進んでく。

よかったよー。

一番良かった話はフランスに行った作家の話かな。コリン・ファースはいつもいい。
あ、首相の話も良かった。なんと英国首相がヒュー・グラント。頼りなくてよかったよー。タクシーの中の蛸の着ぐるみはほんと笑った。

あとはキーラ・ナイトレイの神々しいまでの美しさ。美しかったなぁ。。。

クリスマスの話なんで今の季節にはぜんぜん合って無いけど冬にもう一回見返してもいいね。

ゲリラ豪雨は困るよね

2011-08-10 14:55:16 | 日記
天気予報って見ます?

僕はまずテレビの天気予報は見ない。テレビないしね。
たまにiPhoneについている天気予報は見るけどそれも週に一度か二度。

こないだ札幌で飲んでたときにも話題になったんだけど、僕は天気予報を見る意味をあまり感じないんだよね。

たとえば平日、仕事のある日だとして「天気予報見ないと傘持ってくべきかどうかわからないじゃん」って意見もあったんだけど、僕は鞄の中に常に折り畳み傘を入れているから雨が降ってきたらそれを取り出すだけ。仕事のときだと夏もスーツを着ているし、冬はコートを着ている。天気予報で温度を確認して上着を着ていくかどうか考える、ってのは僕はない。着て行って暑かったら脱げばいいし。

よくさ、いきなり雨降ってきて「あーん、今日傘忘れたーーー!天気予報で雨降らないって言ったのにー」とか言っている人いるじゃないですか。そういう人見ると「いつも傘持ち歩いていればいいじゃん」と思う。(思うだけ、角が立つから言わない)

休みの日、たとえば誰かとどこかに出かける予定がある時はiPhoneで天気予報を見る。天気が良かったらランチを外で食べたいし、雨ならどこか中に入って食べたいし。

という感じなので毎朝テレビで天気を確認する、って意味がよくわかんないんだよなぁ。

テレビの天気予報だと知りたい地域の知りたいこと(たとえば雨が降るのか、とか温度はどうか)とかを言ってくれるのを待たなきゃいけないじゃないですか、それが面倒。

よく出張していたときは、朝僕が知りたいのはたとえば「今日札幌は雪が降ってるのか?」とか「大阪の温度はどうや?」ってことなんでそういうのってそもそも東京のテレビじゃあんまりやらないし。

最近だとゲリラ豪雨がたまにあるけどそれも天気予報見るよりパソコンかアプリである「アメッシュ」というの見ると便利よ。

過去1時間の雨量を10分毎に見られるから「あー、どんどん西に来てるってことはこのあたりにも10
分後にはくるなー」とか「まぁ20分経てばこの雨雲通り過ぎるな」って予測できるし。

グリーングリーン

2011-08-06 12:32:59 | 
実家の庭で色々野菜育ててるんです。

その中にバジルもあって(シソの畝の脇)、結構なってたので摘んだのね。母親も「使っても使っても育つから持ってって」って言うんだもの。

しかしさぁ、こういう葉っぱものの野菜って偉いよね~。だって摘んでもまたなるんだよ。ジャガイモとかだと抜いたら終わりでしょ。葉っぱは摘んでもまたすぐなる。

摘んだのがこのくらいの量。

まぁ小振りのボウルに八分目くらい。

このまま家に持って帰っても日持ちしないので保存用にバジルソースを作る。

さっと洗って(家庭菜園だから無農薬)フードプロセッサにぶっこむ。ニンニクを2かけもぶっこんでオリーブオイルもぶっかけてスイッチオン。ほんとは松の実を入れるらしいけど無いので省略。

葉っぱものなんでプロセッサかけづらいんだけどしつこくやってるとペーストになる。

においがいいのよ~。

んで瓶に詰めて持って返ってきたので早速バジルパスタに。

具は玉ねぎ、ベーコン、セミドライトマトのオイル漬け、そしてこれまた実家の庭からとって来たピーマン。

でけた。

うーーーうまい!すげーなバジル!ほんと美味いのよ。

食べながら思ったけど、バジルってたぶん日本におけるシソみたいなもんじゃないのかね。

それだけでは主役にはならないけど、あると抜群の力を発揮する役割ってことで。葉っぱ一枚でも使えるし刻んで薬味的にも使える。あれ、結局どっちもハーブってことなのかしらん?

つーことはバジルがソースになるんだから、シソもペーストになるんじゃない?と思って調べたら出来るみたい。シソもこれまた実家の庭にたっぷりなってるからそれも使えそうだね。

ガーリック風味のシソペーストなんて温野菜にかけたら美味しそうじゃないですか。


なんてこと考えててスーパーに行ったらまずタラコが安かったのね。

タラコ好き。ご飯に合うしパスタにも出来るし単にツマミでもいい。

で、タラコスパゲティったら僕はシソはマスト。つうことでシソを買おうと思ったら安かったので多めに買ってシソペースト作ってみました。

実家では据え置き型のプロセッサーだっただけど僕の家のはハンディ型のやつで葉っぱ物はこっちのほうがペーストにしやすい。

(写真撮り忘れた)

味はね、バジルほど香りが強くないけどまぁまぁ。バジルに比べてちょっとマイルドさがないのでこれだけでパスタにすると強すぎるかも知れない。でも薬味として使うにはちょうどいい。

早速タラコスパにも使ってみました。

タラコをパスタに和えて、その上に千切りにしたシソ(これは生)と刻みのり、そしてペーストをたらりたらり。

美味しい♪

そのあと、マッシュポテトにもちょっぴりかけてみたけど美味しかったよ。

日持ちしない葉っぱモノがこうやって保存が利くようになるとありがたいね。

知的好奇心を増幅させる方法

2011-08-01 20:18:06 | 日記
バーベキュー。ラムもホルモンもイカもホタテも野菜も旨かったけど、とにかくおにぎりがうまかった。小ぶりだったんで4つくらい食べちゃったんじゃないかな。


みよしののぎょうざカレー。これが食べたくて食べたくて。


ビアガーデン。天気悪かったけど空見てる暇なんてないからね。


めちゃんこ安い居酒屋だったなー。カレー頼んだらボンカレーがそのまま出てきた。


夜中2時のびっくりドンキー、ポテサラバケットディッシュ。これも食べたくて食べたくて。


札幌行ってきました。

まー、食べて喋って飲んで喋ってまた飲んで食べてずっと笑う、という時間で東京に戻ってきて振り返ると「あれ現実だったのかな。インセプションだったんじゃない?」とすら思うんだけどね。

遊んでくれた皆さん、ありがとうございました。

たっぷり時間があったものだから(土曜日なんて16時半から朝3時まで飲んでたわけだし)いろいろなことを喋った。

で、その後聞いたラジオでの内田樹の話が興味深かった。

いろいろなことを話していたけどなるほどなぁ、と思ったのは電車の中での高校生の会話。

内田樹はたまに電車に乗って近くの高校生同士の会話を聞くとはなく聞いていて、特徴的なところは「お互いの知的好奇心を深める会話を一切しない」だということに気づいているらしい。

つまり、誰かがその集団の中で少し知的な話(たとえば円安が、とかあるいはその集団の中で誰も読んでいない本の話とか)をした場合、他のメンバーは「え?それどういうこと?」とか「なになに?おもしろそうだね」という会話を一切しない。

もしそういう話をしたら他のメンバーの反応はおそらく「無視」か冷たい一言(内田樹は『知的けたぐり』と呼んでいた)、たとえば「寒いよ」とか「つまんねーよ」とかそういう言葉を浴びせられるだけだろう。

そもそも、そういうことを言われないということが分かっているので誰も、他の人が知らない話をしない。

これは高校生に限らず、どんな人であれ一緒で、その人の知的欲求を挫くことは非常に簡単でその人が自分の興味のある話をし始めたときに「それ何の意味があるの?」とだけ知的けたぐりで足元を突っかければよい。

そもそも勉強一生懸命にやってる学生に対して「その勉強何の意味があるの?大学なんて行ったって意味ねーじゃん」と言えばその人の勉強意欲はすぐに揺らぐ。

逆に言うとその人の知的欲求を増幅させるのも簡単で、その人が興味あることを話出したときに相手が「え?どういうこと?面白そうだね、もっと聞かせてよ」と関心を示す人さえいればいい。

たとえば子供が初めて見た昆虫を手に持って母親に見せたときに、「あ、すごいねー、もっとそういうの見せてよ」というだけで子供の知的好奇心は増幅される。

つまり、そういう反応をされた人は自分に内在する知に価値を感じ、更にその知を増やそうとする。

…と長々と書いてきましたがそういうことを内田樹が言っていたのね。

それを聞いてて、僕は「あー札幌にいたこの週末は自分の知的欲求が増幅されたなぁ」と改めて感じたね。

どんな話しても興味深く聞いてくださる人ばっかりだったし、逆に僕が「もっともっと」と思う話をしてくれる人ばっかりだからね。

ありがとうございました。

いやー面白かったなぁ。