津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

加賀前田藩上屋敷 -- 地震之間

2012-09-01 13:16:21 | 史料

           加賀藩江戸上屋敷に「地震の間」   http://www.hokkoku.co.jp/subpage/H20111017102.htm

徳川家斉の第21女・溶姫が、加賀前田藩第12代藩主前田斉泰に輿入れ(文政10年11月)する際に建造された御守殿の門が、現在の東京大学(本郷)の赤門である。
藩邸の正門・大御門は残っていないのか、赤門(御住居表御門)が東京大学シンボリックで東京大学の顔となっている。正門は別にあり正面は有名な安田講堂である。
御守殿の北側に「心字池」がありこの近所に地震之間が在ったらしい。この建物は寛永10年あたりに建造されたものらしい。
寛永10年1月21日の小田原地震(M7,1)の際、細川忠利は土井大炊頭に宛てた書状(2月8日書状- 2014)の尚々書に於いて

              尚々 昨日承かけに早打上申候へ共、海上不存候而 又如此ニ
              使を各様へ進上申候 御本丸ニ此前のことく御庭無御座候哉 爰
              元も 細々御本丸御庭なく 常々無御心元奉存候 以上

と書き、江戸城本丸に避難が可能な大きな庭がないことを心配している。自らも熊本城内の本丸周辺の建物を整理して「地震之間」を整備することを申し付けている。江戸城西の丸に「地震之間」がもうけられるのこの時期ではないかと考えられるし、加賀藩邸の建築年次が近いことも大変興味深い。

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