津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

田邊城籠城衆・上羽氏--(二)

2009-06-03 09:16:22 | 歴史
 2006年に書いたブログ「田邊籠城衆・上羽氏」にコメントをいただいた。本名を名乗られてのことで、ご連絡いただくようにお願いをしている。

 田邊城の籠城衆に上羽新兵衛、小右衛門の二人の名前が見える。
昨日は宇土細川家の先祖附をながめていた。偶然は重なるものでこれが役に立った。上羽又右衛門家の先祖附を読んでいると、上記の名前は出てこないが、上羽如庵なる人物が田邊城に籠城したことが記されていた。あいにくのことだが、如庵なる人物が、新兵衛なのか小右衛門なのかは窺い知れない。いずれにしても、籠城衆のご子孫が又一人判明した。ご連絡いただければ、たちまちこの事も解明できると、ご連絡を心待ちにしている。
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3 コメント

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上羽家の先祖について (海里です。)
2011-03-03 00:43:57
津々堂 様
メールアドレスが分からないのでコメント欄よりお便りいたします。
久しぶりにブログを拝見させて頂き「海里」って誰?ってことに
なってたことを知りました。
津々堂様のブログは宇土や上羽についてネットで色々調べていて
辿り着きました。ちなみにその時ネット上で他に見つけたのは↓
http://www.pref.kumamoto.jp/uploaded/life/1043312_1078486_misc.pdf

先祖の上羽に関する情報ですが、小さい頃から母から聞いてきた
ことが元なのでもう一度母に尋ねてみましたが歳もとって記憶も
不確かなため申し訳ない内容で…
・昔は参勤交代していたが細川氏が外様になったことで宇土へ…
・曾祖父は宇土の城代家老をつとめていた(それについては宇土
 史という本に書かれているとのこと(曾祖父は『勧孝邇言』を
 著した上羽勝衛で上羽勝衛に関する資料は↓
 http://kyouiku.higo.ed.jp/page2022/002/005/page2337.html
・家紋は女紋が抱き茗荷、男紋はよく覚えていない(丸に十か蛇
 の目紋のどちらかだったと思うと母は言っている)

というものです。
勝衛さんから先の先祖については自分できちんと調べられていな
くてすいません。
船木丹後守様のご先祖と関係があるのかどうか母に聞いてみまし
たが、丹後の上羽家とはどこかでつながっているかもしれないが
うちは丹波の上羽さんとはまた別の家になるのではないだろうか、
と母は申しておりました。
過去帳は祖母が管理、持っていたが今はどこにあるのか分からな
いということなので探してくれるよう母に頼みました。

見ず知らずの人間にいきなり「親戚です」と言われて、その後の
フォローもなしということで津々堂様、船木丹後守様には不快な
思いをさせてしまったのではないか…と思いましたのでとり急ぎ
メールをいたしました。 
ブログ上でメールアドレスは公開できないため上羽和仁様と直接
連絡をとることはできないのですが、上羽様とのご連絡が可能に
なるようなことがあった折には宜しくお伝えください。
今後先祖については母からもう少し詳しく話を聞いてみます。
だいぶん暖かくなってきましたが奈良のお水取りが終わるまでは
急な冷え込みもあるだろうからお体に気をつけてお過ごし下さい。
突然のメールすいません。
今後のブログも楽しみにしています。では

             

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御礼 (津々堂)
2009-07-06 10:41:59
如庵と小右衛門様が同一人物であるという事が判り、大変ありがたく思います。お許しいただける範囲で、いろいろ御教示いただければ幸いです。又ご連絡先などメールでお知らせいただければと思います。
返信する
家系図 (上羽和仁)
2009-07-05 00:46:59
いとこが調べた家系図を実家からもらってきて見ています。藤原発祥から斉藤の氏に代わり、浅倉家に仕え、城戸の氏を名乗り、細川藤考氏に一色征伐時に改姓で上羽になったようです。上羽如庵は小右衛門勝重と同一人物で田辺城篭城東之方・守備に着いていたようです。勝重の八男の又右衛門重勝一が島原の陣以降鉄砲頭で四百石を戴いていたようです。
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