津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■後水尾帝お出まし

2021-11-13 12:48:30 | 書籍・読書

 先に■後水尾院と小説「花と火の帝」で書いた熊倉功夫氏の「後水尾天皇」を、押し入れの棚の奥深いところからお出まし戴いた。
付箋やら栞やらが挟んであって、以前精読したことがうかがえるが、とんと忘れてしまっている。
どうも後水尾帝の「伏見行幸」は詳細が分かりにくいのか、ウイキペディアでも取り上げていないし、寛永文化の研究の第一人者である熊倉功夫氏のこの著においても上辺をさらうようにしか取り上げられていない。
徳川実記あたりを読まなければいけないか?

                 

 後水尾帝に嫁いだのが徳川秀忠の女・和子いわゆる東福門院である。小説「花と火の帝」では、帝の御子をはらんだ女御を柳生が襲い殺害するという無残な描写に眉を顰めるが、和子はそんな徳川のやり方に反発している。
東福門院和子の化粧量は一万石という膨大なものであったというが、和子は父・秀忠のそのようなやり方に抗するように大いに金を使ったという。
その最大たるものが「衣裳」であった。東福門院を含む「衣裳好み」が三人いて、今一人は遠山久太夫と離縁した「虎」という女性で三万両を有していたという。そして今一人が細川三齊の愛娘・烏丸宣賢の簾中萬姫(化粧料千石)である。
「三所にて、京中の小袖模様もなにも、いろ/\仕り候」と記録が残されている。

 私が敬愛してやまない、「京都ぎらい」の著者・井上章一先生(国際日本文化研究センター所長)は「祇園は坊主でもっている」といわれるし、京都の寺院は江戸時代の平安によってもたらされ、普請にしろ種々の仏像制作にしろ、いろいろな工芸や織物など、幕府の保護や大名や大商家などによってもたらされた。
京都の西陣などの織物の発展には上記お三方「三所」の大いなる浪費が一役を買っていたことによる。

この時代ならではのことであり、京都のこれらの繁栄も江戸時代の終焉により大方が衰退していった。
「天皇はんはお江戸に行ってしまはって、いつに成ったら御帰りになりますのやろ」と長閑なことだが、京都の今の繁栄は、江戸時代の残影である。

わが細川藩の萬姫様も、京都の為に尽力された。(めでたし/\)

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