今般の事件発生からニか月半ほど経過する中で、奉行所は原田次郎助の申し立てから行動の軽率さを指摘している。
次郎助は事件当日が公儀御日柄の特別な日であることを承知しており、相手が幼年のものであることから「差免」も考慮したと証言した。
そのうえで尚殺害に及んだことに対して奉行所は「不心得」と指摘をはじめている。
奉行所又は家老周辺での処罰の方針が固まっていることが感じられる。
以下次郎助に対する最後の「問」と、その方針に対する次郎助の「反省」の過程が見て取れ、次郎助及び忰弥三郎に対する「仰渡」が行
われ、事件は結末を迎えた。
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覚
原田次郎助
右は先達而百姓を手討いたし候節重キ御日柄との儀心付候由ニ候所其者ゟ悪口雑言ニ而も
其場ニ至り幼年之者と見請一旦差免候存念ニ相成親勘七不届き之由を以親を手討仕
へく共存候得共此事發端子ゟ起り候ニ付打果候之由左候得は喜太郎儀難差通程之様子ニは不
相決其上喜太郎儀纔拾弐歳之子供ニ而物之弁へも無之程之者ニ候と差免候志目合無之候とて
打放候儀人口後難ニ抱り候ゟ之儀ニ候哉且又右ニ付而相尋次郎助返答書付之趣此方江相聞居候
趣符合不致候ニ付別紙書付相渡候其場之次第休息之間二候得は事之前後も可有之
哉此上間違之筋等相達候而は難相濟儀ニ付猶又得斗相考候而明日ニ返答相達候様彼是
之趣貴殿ゟも精々被相■書付取次可被相達候 以上
十一月廿一日
家来追懸候而下り候様申聞候ニ付直ニ喜太郎致下馬由家来は勘七ゟ先ニ而聲をかけ喜太郎
下り候様子勘七見請居候由左候而致下馬候時分次郎助儀勘七ヲ追越喜太郎を呼留メ笠を引
脱直ニ打放候由其所江勘七馳付死骸を抱上ヶ母も罷越首を取上ヶ夫ゟ父母共ニ致應對たる段
相聞へ次郎助申出ニ符合不致候事
(ニ頁脱落の可能性あり)
いたし懸候哉或は手向等ニおよび候ニても■之候得共如何様ニも致方可有之儀且幼年之者と見受
既ニ差免可申所存ニも相成候由ニ候得共右御日柄之儀旁打放候との一言は申聞間敷候処差
免候■合を拵候との軽率之儀を發言致候儀御侍之嗜疎キゟ之儀ニ相聞候 全躰公邊御
征月當別而重キ御日柄と不相憚専ニ自己軽率之一言を合候ため於其身も不便と存候
程之幼年之者を討放候儀彼是重畳不心得の儀ニ相聞候 此処如何相心得居候やと
承糺書付取次可被相達候 以上
十一月廿二日
覚
私儀先達而百姓を手討仕候一件ニ付御尋之趣奉得其意候 右は慮外仕候者悪口雑言仕候而
は無御座候得共追々御達申上候通之次第ニ而何分難差通始末を遂申候 公儀御征當
別而重キ御日柄をも不奉憚打放可申と軽率之儀を發言仕候儀其節急場之事ニ付思慮
行届不申再々應御尋ニ相成候儀重畳奉恐入候 以上
十一月廿七日 原田次郎助
公儀(徳川家)の御祥月であるから差し宥すと次郎助が一度発言したうえで、殺害に及んだことを指摘されている。
「公儀」という言葉の重たさを知らされる思いがする。
九月八日に死去されているのは、先代(10代)将軍・家治が天明6年8月25日に死去しているが、「高貴な人の死は1カ月ほど秘され
るのが通例(発葬されたのは9月8日)」とされるそうだから間違いないと思われる。
これをうけて次郎助及び嫡子・弥三郎に「申渡」が行われた。
申渡
原田次郎助
次郎助儀先達而百姓を致手討候節重キ御日柄との儀ハ心付居候由ニ候得とも其者ゟ
悪口雑言等も不致懸手向等ニも不及事ニ付如何様ニも致方可有之且幼年之者と
見受既ニ可差免所存ニも相成候由ニ候得は御日柄旁討果可申との一言は申聞間敷儀之
處軽率之儀を發言いたし其一言を合候ため公儀之御征當重キ御日柄不相憚討放右ニ付而相尋候
節も其身之越度無之様再應申出候次第旁以重畳之不埒之至り 思召不被為叶被下置候
御知行家屋敷被 召上旨被
仰出之 以上
十二月廿七日
申渡
原田弥三郎
弥三郎儀舊キ家柄被對拾人扶持被下置御留守居御番頭之支配ニ被 召加旨被 仰出之 以上
十二月
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■ 原田次郎八 【丹後以来】 (南東6-13)(南東5-29)
河野常甫
1、河野百助(次郎八・次郎左衛門) 土肥二郎左衛門トモ・・(肥陽諸士鑑)
2、原田喜八郎(次郎左衛門)
長岡帯刀組 三百五十石 (寛文四年六月・御侍帳)
3、 傳右衛門(養子 実・立石市兵衛二男 専右衛門)
御詰衆五番・郡源内組組脇 三百五十石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・専右衛門
4、 次郎左衛門 目録(天和四年)三百五十石
知行所割替所付目録
知行所付目録
5、 七右衛門・正英(養子 実・宮川五郎左衛門二男 八之允)
三百五十石 御小姓組二番 屋敷・千反畑 (肥陽諸士鑑)
6、 和平次
7、 進次 御小姓組 三百五十石 宝暦十ニ午七月十一日当役 (御国中御侍以呂波寄)--新次
8、 長蔵(七右衛門) 三百五十石 長崎御留守居
9、 次郎助 御知行被召上候 寛政十二年十二月廿七日 高三百五十石
10、 弥三郎(専右衛門) 御番方・尾藤多賀之丞組 晒浦御番 二百五十石
細川斎樹公御書出(文化九年)二百五十石
11、 純記(寛兵衛) 旧知二百五十石
12、 次郎左衛門 松山権兵衛組・御番方四番組 二百五十石
13、 次郎八 二百五十石
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上記「申渡」によると、弥三郎に対しては「舊キ家柄」すなわち原田家が「丹後以来」という家格の家であるから、拾人扶持
を与えるとしている。
これにより座班が大いに落席したことが考えられ、原田家は面目を失うなど余波は大きかったと思われる。
侍帳では後、弥三郎は250石取りになっていることが確認できるが、それが何時であるのかは先祖附を確認する必要がある。
近々調査をしたいと思う。
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