津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■楽天理

2023-07-29 13:47:28 | 書籍・読書

 引越に際し書籍類は荷解きをしてとにもかくにも本棚に押し込んだ。
さて落ち着いて本を探す段になると、どこに入れたのやら判らずに大事することになる。
以前の様にある程度系統立てて並べ替えようと思うが、これも81爺にとっては一仕事となる。
まずは文庫本だけをまとめて並べることから初めて、どうやら形が付いた。

 そんな中に随分古い勝海舟の「氷川清話」が顔を出した。昭和47年の第5判である。
パラパラめくっていると折り目を立てた跡がある頁が出て来た。「末路に処する工夫」とある。
そして記事の中にある「楽天理」という言葉に朱線をひいているのを見付け、瞬時に記憶がよみがえった。

       

 徳川幕府最後の将軍慶喜が明治30年静岡での謹慎生活を切り上げ東京へ出て来る。
「朝敵」の負い目を負ったままの慶喜が、天皇に初めて拝謁したのは明治31年3月2日のことである。
徳川慶喜の母は有栖川宮織仁親王の12女という関係から、有栖川宮威仁親王がその実現にむけ尽力され、勝海舟にも相談があったようで「内々奔走した」とある。
天皇には大変ご鄭重な待遇に預かり、皇后からはいろいろな拝領物を下賜された。
翌日慶喜は海舟を訪ねて来たという。海舟は「品位をお保ちになって、昔の小大名などとはあまりご交際なさるな、(中略)自ら品位を落とすもとである。馬車などには乗らず、一人引きの車でどこへでもおいでなさい。時々はご徒歩でもって市中の様子でもご覧になるがよろしい」と申し上げた。
天皇拝謁は果たしたものの「朝敵」の負い目を抱えていたのだろう慶喜に対し、海舟は「品位を保つこと」を盛んに言っている。

慶喜は「天恩の優渥なるを記し奉って、祖宗の祭りを絶たないようにする」とし、海舟に対し、布に「楽天理」と揮毫を依頼し海舟も涙を流してこれに応えたという。
「楽天理」とは、天の理に身を託して余生を静かに生きて行こうという意であろう。
天皇拝謁という一つの節目を迎えた慶喜の感慨が伺える。
明治13年には罪を許され、大政奉還の功によって将軍時代の正二位に復位、続いて従一位に叙されたが、爵位は与えられなかった。
明治35年、慶喜は宗家を離れて別家を興し公爵を授爵された。一橋家の家臣であった渋沢栄一などの尽力があった。
ちなみに海舟は嫡子・小鹿が早世すると伯爵家の後継ぎとして、慶喜に頼み込み末子・を養嗣子に迎えている。

 

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■明治天皇を胴上げ?

2023-07-29 06:45:00 | 人物

                  侍従長・米田虎雄

 先に触れた元田永孚は文政元年(1818)10月1日の生まれ、「明治4年(1871)1月に藩命で上京し宣教使・参事を兼任、5月30日に藩命および大久保利通の推挙によって宮内省へ出仕し、明治8年1月には明治天皇の侍読となり、以後20年にわたって」天皇の側近として仕えた。(「 」部分、ウイキペディアより引用)
実学党坪井派の出身である。

 その実学党坪井派を率いたのが、細川藩三卿家老の米田家10代の是容である。11代が是豪、12代が弟の虎之助是保だが米田虎雄の方が知られているかもしれない。
米田も元田同様明治天皇の側近としてお仕えしたが、天保10年(1839)3月10日の生まれだから、元田より21歳も若い。

戊辰戦争においては藩兵を率いて東北各地に転戦した。明治2年8月(1869)熊本藩大参事に就任。その後、権大参事として実学党による藩政改革を行った
「明治6年(1873)1月9日、宮内省に転じ侍従番長に就任。(中略)明治11年(1878)12月24日、陸軍中佐兼侍従長に就任。(中略)明治41年(1908)主猟頭となり、同年11月7日宮中顧問官を依願免官となる。」(「 」部分、ウイキペディアより引用)

 つまり、明治天皇のお側近くに熊本藩出身の元田永孚と米田虎雄がお仕えしていた。
米田は明治六年に侍従番長となっているが、これは「武官長」のことであろうか。
明治維新という新しい夜明けの中で、以降二人が上げた功績は多大である。
明治天皇ご自身の痛恨事は「日清戦争」「日露戦争」の開戦であろうが、立憲君主制の体制の中では「朕が志にあらず」としながらも、抗える状況ではなかった。
日清戦争開戦後の「平壌大会戰」での勝利の報が届くと、天皇は一方ならず安堵されたと推察される。
天皇周辺に於いては「上下頗る気色あり」と言う状況にあふれたというが、なかでも米田虎雄は「天皇を胴上げしよう」と言い出したらしい。
「今回の戦争は朕素より不本意なり」と吐露された明治天皇の深いお心内は、周辺の気色とはかけ離れたところにあったのだろう。


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