引越に際し書籍類は荷解きをしてとにもかくにも本棚に押し込んだ。
さて落ち着いて本を探す段になると、どこに入れたのやら判らずに大事することになる。
以前の様にある程度系統立てて並べ替えようと思うが、これも81爺にとっては一仕事となる。
まずは文庫本だけをまとめて並べることから初めて、どうやら形が付いた。
そんな中に随分古い勝海舟の「氷川清話」が顔を出した。昭和47年の第5判である。
パラパラめくっていると折り目を立てた跡がある頁が出て来た。「末路に処する工夫」とある。
そして記事の中にある「楽天理」という言葉に朱線をひいているのを見付け、瞬時に記憶がよみがえった。
徳川幕府最後の将軍慶喜が明治30年静岡での謹慎生活を切り上げ東京へ出て来る。
「朝敵」の負い目を負ったままの慶喜が、天皇に初めて拝謁したのは明治31年3月2日のことである。
徳川慶喜の母は有栖川宮織仁親王の12女という関係から、有栖川宮威仁親王がその実現にむけ尽力され、勝海舟にも相談があったようで「内々奔走した」とある。
天皇には大変ご鄭重な待遇に預かり、皇后からはいろいろな拝領物を下賜された。
翌日慶喜は海舟を訪ねて来たという。海舟は「品位をお保ちになって、昔の小大名などとはあまりご交際なさるな、(中略)自ら品位を落とすもとである。馬車などには乗らず、一人引きの車でどこへでもおいでなさい。時々はご徒歩でもって市中の様子でもご覧になるがよろしい」と申し上げた。
天皇拝謁は果たしたものの「朝敵」の負い目を抱えていたのだろう慶喜に対し、海舟は「品位を保つこと」を盛んに言っている。
慶喜は「天恩の優渥なるを記し奉って、祖宗の祭りを絶たないようにする」とし、海舟に対し、布に「楽天理」と揮毫を依頼し海舟も涙を流してこれに応えたという。
「楽天理」とは、天の理に身を託して余生を静かに生きて行こうという意であろう。
天皇拝謁という一つの節目を迎えた慶喜の感慨が伺える。
明治13年には罪を許され、大政奉還の功によって将軍時代の正二位に復位、続いて従一位に叙されたが、爵位は与えられなかった。
明治35年、慶喜は宗家を離れて別家を興し公爵を授爵された。一橋家の家臣であった渋沢栄一などの尽力があった。
ちなみに海舟は嫡子・小鹿が早世すると伯爵家の後継ぎとして、慶喜に頼み込み末子・精を養嗣子に迎えている。