津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

烏丸光廣のこと

2012-04-14 22:16:13 | 歴史

 細川忠興の女婿・烏丸光賢の父は光廣、慶長14年(1609年)7月に起きた猪熊事件侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられたりしている。剛毅な公家殿である。
               http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%BA%83 

熊本縣史料・近世編1のp594に、寛永15年8月21日付の忠利に宛てた三齋の書状の末尾に次の文章がある。

                烏丸大納言殿儀笑止千萬絶言語迄ニ候 院様より腫物之
                刻内薬を醫師ニ被仰あたへさせ被成候 此薬ゆへと申候
                天下道具にて候つるニおしき事ニて候 

「去る八月七日之書状」に関する返書であるが、烏丸光廣が亡くなったことを知らせてきたのであろう。
勅勘が許され、寛永15年(1638年)7月13日に死去しているが、書状から「院から天下道具の薬を頂戴しながら、亡くなってしまった」と三齋の嘆きが見て取れる。書状の一行/\が語りかけてくる。

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松山主水のこと

2012-04-14 21:00:06 | 歴史

 熊本縣史料(御書附并御書部十二 p579)を眺めていたら下記のようなものに出会った。

                   態申入候然者松山主水・伊藤武右衛門儀不届仕合可申様も
                   無之候能御船頭迄相果御気兼之ほと何共迷惑申事候殊御
                   慰之御能之刻数々之仕合可申様も無之候御気兼之程笑止ニ
                   存貴殿迄申入候恐々謹言
                       五月五日              (忠利)
                           云庵老
                           一色杢殿
                                御宿所

これはすぐさまある事件を思い出す。
ウィキペディアで取り上げられている松山主水に、その事件の顛末が紹介されている。 

           http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B1%B1%E4%B8%BB%E6%B0%B4

この事件について三齋忠興は当然のことながら怒りの中にあるであろう。
為に忠利は三齋の側近である槇嶋云庵及びその弟である一色杢宛てに書状を発している。
剣豪として高名な松山主水も、その行い粗暴なるを以て非業の死を遂げた。

 

ちなみに云庵を言庵と記し「げんあん」と読ませているものがあるが、当家の先祖附には槇嶋雲庵と記しており「うんあん」と読むことがわかる。
云は「うん」と読む。
云庵・槇嶋昭光は我が先祖召出しの恩人である。 http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/s/%CB%EA%C5%E7%BE%BC%B8%F7

 

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甘美の退廃 グスタフ・クリムト

2012-04-14 17:50:29 | 書籍・読書

『Gustav Klimt: Women』 グスタフ・クリムト洋書作品集_画像1 

 大好きなクリムトの画集を見つけました・・・・・
 

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