細川忠興の女婿・烏丸光賢の父は光廣、慶長14年(1609年)7月に起きた猪熊事件(侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられたりしている。剛毅な公家殿である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%BA%83
熊本縣史料・近世編1のp594に、寛永15年8月21日付の忠利に宛てた三齋の書状の末尾に次の文章がある。
烏丸大納言殿儀笑止千萬絶言語迄ニ候 院様より腫物之
刻内薬を醫師ニ被仰あたへさせ被成候 此薬ゆへと申候
天下道具にて候つるニおしき事ニて候
「去る八月七日之書状」に関する返書であるが、烏丸光廣が亡くなったことを知らせてきたのであろう。
勅勘が許され、寛永15年(1638年)7月13日に死去しているが、書状から「院から天下道具の薬を頂戴しながら、亡くなってしまった」と三齋の嘆きが見て取れる。書状の一行/\が語りかけてくる。