つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

是非とも

2013-11-23 | Weblog
是が非でもという言葉がある。
是が非となることは絶対無いために、それ故に絶対云々という確固たる意味合いが込められている言葉である。
是非ともというのは絶対ということである。

この世は絶対という事がなく、すべてが曖昧にしてあるもので、どうにでもなる、どうにもならないが
是非ともの自由にある。
絶対というのは不自由であるものの自由を持つ。
心は自由である。劣化風化老化がない。少しも衰弱することのないものである。
とても若々しい。子供でもなく老人でもない。脈々と息衝く青年のエネルギーである。
弱音を吐くのも意気地が無いということではなく、是に無知というための錯覚によるもので、
どうにでもなる、ならないの自由である。とかく無知によるための負を思い不自由とするためである。

この世は、心の自由を正しく作るためにあるもので、正しく作られればあの世は楽しいものである。
あの世が楽しい、それが天国である。
あの世が楽しいものであるとなれば、絶対来る死に希望が持てる。希望となれば恐怖が消える。
どこでどう死のうと地獄が作られることが無くなる。
あの世が苦しいものであるとなれば、恐怖となって暗くなる。何もかもが真っ暗で見えないもの、わからないもの、だから
不安で怖くてしょうがない。
死というものが絶対怖いものとなってしまえば、絶対死んでいく人の身には恐怖ばかり、
何をしても絶望だけとなる。地獄となる。
人は、希望が無く絶望にして生まれてくるのではない。そうであれば肉体をもって生まれてくる意義が無い。
肉体をもって活動する意味が無い。
肉体をもって活動の意義があるために生まれてくる。その意義は心の浄化、
生命の浄化、つまり生命エネルギーの浄化の為である。浄化となれば浄い世界である。
正しい世界、生命の正しい世界が作られて、それが極楽浄土なのである。

諸行無常がこの世の常である。法の常である。その常を離れてある常が法の絶対世界である。
変わらないという世界である。
それを知り、
知れば誰に教わることも無く、善悪分別がつき道理に従って生きられる。
その生き方は八つの行い、仏の訓えた八正道である。それが自ずとできていく。
六道輪廻を離れた、永遠に変わらないという極楽浄土に行きつく道である。
そのための肉体をもっての生命エネルギーの対応である。人として生まれる縁、受の世界である。この世である。

法則にはこれといって意味目的を持っているものではない。
円運動という自由である。
是非ともこの自由を正しく覚ことである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする