つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

自由気まま

2013-11-01 | Weblog
頭を剃ったからといって坊主なのではない。
袈裟を着ているからといって坊主なのではない。
悟りとは何を覚ることなのか、
知ったようで知らないでいるのは坊主ではない。
釈迦は何を悟ったのだろうか、と問われて、
あれこれ答えが告げられるが、答えにあれこれは無い。
真実は一つのみである。
高僧といえどもあれこれ答える。
聖者の称号を与えられても、答えるにあれこれ。

キリストもブッダも同じ人間であった。
キリストはブッダに学び、総称、観音と呼ばれた菩薩の啓示を受けて説教していった。
神のお告げ「始めに言葉あり」というのは、菩薩の啓示に他ならない。
法は唯一である。その法をキリストもブッダも説き訓えたもので、故に、
本来同じ訓えである。宗派があるのは各祖師の教えであり、それは皆仏道に帰依するものである。

十人十色といい、一人の人間から発した音色が伝わっていくにしたがって、
十人目には違った音色に伝わるものである。人それぞれ、様々であるための受け方であるためで、
すべてがそのように色あせていくものである。
同じものを見聞きしても様々な受け取り様にあり、また、すべてが色褪せていくのである。
それは、道理である。

仏陀、
人であったために、人を知り人に教えられるものであり、
究めて窮めて、人との縁を絶ち、故に転生を離れ、極めて稀なるもの、神となっていったものである。
そのために、啓示となることも無い。
客体となり自然そのものである。‘気’である。
自由を克ちえた、自由気ままに生きている。
その自由気ままは「浄化」である。

コメント
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