つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

楽は苦の種、苦は楽の種

2013-11-04 | Weblog
少しでも得をしようと思うのは俗世、人の心である。
浅ましくあって、露骨にその心の醜さをひけらかして、
我先にと人を押しのけていかなければ、得られるものも得られないと思うのは、とっても愚かであるし、
悲しいことである。
浅ましくあるものの心には、満足ということが得られない。貪欲であったものの得られるものは、
結局のところ損だけとなる。好い思いをしようしようと思うあまりには、反することが起こってくる。
世の中は相反しているものであるために、押されただけの力で押し返されていることを知り、
事無きところを計らっていかなければならない。賢という心のあるなしである。

この世というのは、あざなえる縄の如しで、幸も不幸もおなじである。
苦楽相反してあるために、苦をもって楽を知り、楽をもって苦を知るようになっている。
交互に織りなす。
雨の日ばかりは無く晴れの日ばかりも無い。
朝の来ない夜も無く、夜の来ない朝も無い。
その長短が多少片寄っていても、辻褄は合うようになっている。それが自然である。

楽ばかりして暮らしていたいと思うのは然りであるが、この世ではそういう仕組みにはなっていないものであるために、
必ず誰彼なく交互に受けて、ものを思う。どう思ったのか?つまり、この道の理を理解できたかである。
理解できたものは賢くなり智恵を身に付ける。智慧の思いで行動する。
日々進んでよいとされることをする。あぁ~ぁ、また起きて同じことをするのかと思えども、
思うことなく、進んでてきぱきとやらなければならないことをこなす。
人に遇えばおはようと声をかけ、顔を洗い身支度を整えて綺麗を心掛ける。
掃除をし片づけをし、使ったところは元通りにして、と等々、仕事であれ、家の事であれ、
何でも進んで面倒と思うことでも怠けないでこなしていく。いやだなぁ~、めんどくさいなぁ~と
思うことは「苦」に属し、できればやりたくないものである。でも、「苦」には違いなく、また、耐えられないほどの「苦」ということではない。
そのようにして必ず受ける「苦」というものを、進んでできる苦というもので消却していくのである。苦の後には楽が来る。
その楽というのは、自分がこまめに動いたことによって得られた清々しい気持である。また、それに付随する良い印象を他からも受ける。
それは誰からか褒められたくてということではない。誰からも褒められなくとも、自然が見ていて、その精が気づいている。徳が積まれていくのである。
ただほんの僅かなことであるが、怠ることなく続けていけば‘滴る水も大海となって’というようにとても大きな喜びが来る。
そうして、進んでできる苦をこなしていけば、すでに苦は受けているので、受けたくはないほどの苦を受けなくて済んでいくのである。

この世にいれば必ず苦は受ける。どうしても受けたくない苦を受けるより、耐えられる苦を進んで受けこなしていくことによって、
とんでもない苦しみは受けることが無くなっていくのである。特にそれが、人があんまりやりたくない事、人の嫌がる事などを進んでやれる人は、
絶対に受けたくないと思う苦を受けないで済んでいくものである。
このように、この逆をしていけば、怠慢であり、滞ることであり、常に動くという道理に反していくものであるために、苦を消却できずに
自分の思いと違って好い思いを受けることが無くなっていく。どうしても受けたくないと思う苦を受けていくことになる。
小さなこと一つをとっても、きれいになりたいと思いながらブスになる。どんなに細工を施しても意に反していくのである。

さて、心が賢明となれば、綺麗が分かり、綺麗なところに更に細工をすれば美しさが増すものである。
俗世、愚かなものは、ウンコに金粉を塗って綺麗と思う。
この世では、楽は苦を生むだけである。必要以上に楽を享受してはならない。

コメント
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