つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

よりどころ

2013-11-17 | Weblog
師となるには、何も学校に入り先生と呼ばれる人たちに教えてもらう必要はない。
教師となる人も誰かに教えてもらいなっているもので、完璧な人というのではない。
まして今の社会、職業として生活していくための手段でなっている人であるために、
専らという狭い心の持ち主である。ただ手引きに沿ってなっているものであるために、
一概に長けているというものでもない。職業としての識である。
誰も教えてくれる人がない「はじめ」の人というのが先生である。
それも、あれこれ自然に学び、道理を知り、試行錯誤で得た経験、その知恵の判断が師となり先生といわれるものになるのである。
本物の先生である。
ただべらべらと学識豊かであっても、計算上成り立つものであるはずが、実際には違ってくるのは、
事実というのは曖昧にしてなるものであるために、一概にというものではないのである。机の上の論理と現実との違いを生むものである。
知識の判断ではなく知恵の判断をすることである。

自然から学び得たもの、その識が知恵である。その人のコツ。
だから、コツはその人だけの感覚、感覚は同じにしてまた微妙であるために人それぞれに違うものである。
人それぞれに違うものをひっくるめて知識として教える。
ひっくるめられた知識は微妙にして曖昧であるために、
教えられたものは、教えられた知識を経験としなければ身に付かず忘れてしまう。
微妙の曖昧が明確にならないために覚えられないのである。

経験の感覚が知の恵である。それは、一つを知れば十を知れる識の徳(恩恵)である。
未経験の感覚が知の識である。これはこれ、あれはあれと、区別して知り合っているだけに過ぎない。
経験と未経験が本物とそうでないものに分かれていくものとなっている。

知識で理解するのではなく知恵で理解することである。これが違いを生まない感覚である。

釈迦は臨終に際してこう言われたとある。
「自らを拠り所として、法を拠り所としてあるべし、他を拠り所としてはならない」と。
コメント
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