つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

誤るために・・・

2013-11-10 | Weblog
「念彼観音力」というのは、
‘彼の観音の力を念ぜよ’として説かれているのではないのだが、
そのように誤った訳しをしているために、観音に祈るという、祈るための教えとなっている。

「念彼観音力」というのは、「彼の観音と呼ばれるようになった人の心念の力」は・・である。
祈るために語られたものではない。

祈りの経典として誤って理解されたために、観音に一心に祈ればその願いを叶えてくれるものであるとなってしまった。
そして、困った時の神頼みではないが、何か事あるごとに観音様に祈る。
でも、世の中どうだろう、祈って願いが叶うのならこれほど楽なことは無く、努力もしなくてよいことになる。
何とか頼みますと心底祈っても、願いが叶うことは無いものであることは世の中認識しているが、それでも、
崖っぷち、どうにもならないことには、何の根拠もない超越的なものに縋ろうとする。ただ、どんなに縋っても、
当たるも八卦当たらぬも八卦というような感じで、事はほとんど空しく終える。
たまたまという八卦が時としてあるために、超越的存在を信じてしまうものである。
これは、諸々を司っているエネルギーの法則を知れば、超と呼ばれる存在の有無がはっきり知れてくるものであるが、
えてして人は、そのようなことを知る由は無い。
法則は止まることのないものである。片時も止まることのないものである。
だから、すべてが片時も止まることなく動いているのである。これが道理であるために、
道理に反すればうまくいかなくなってしまう。それを知ることである。すれば、祈る行為というのは、
何もしないという動かない行為となる。ただ祈るだけで、何かするという動く行為を自分でせず、他にゆだねてしまう道理に反したものであるために、
物事はうまく成就しない。道理を智慧ある目で見れば正しく知れてくるものである。
祈るという行為は静止の状態であるために、いけない行為となっている。そのように、いけないことを知らないでしているために、
祈りというのは通じるものではないのである。だから、祈っても叶わないとなる。

稀に稀に、釈迦のような優れた人が現れるが、
その悟りを開いた人の訓えでさえ、時とともに薄れていくものである。
それを見抜いて、怠ることなく常に精進努力しなければならないと答えてくれたものである。
‘怠ることなく’も止まるな、動けということを言っているのである。
人は、概ね愚かであるために理解できないで、時とともに薄れていくものとしている。そのために、
明確に教えられたことも明確に捉えることができなくなって、
誤った考えをもって生きてしまう。
先人の優れた訓えも、何ら力の発揮できないものとなってしまうのである。
ただ良いことを聞かされたというだけで行為として進まない。
それは、人は死んでどうなるのかを教えられなかったためであり、また、教えることができなかったためである。
どんなに悟りを開いても、死後の世界を知ることが叶わなかったために、知らないことを想像で答えてしまうと、
その想像が誤っていても正すことができなくなり、すべて正しいものとなってしまう為に、教えることができなかった。
人は、死が経験とならないために、経験とならないことは知識とならないためである。
知識とならないことは、わかり様がなく判断できないものである。判断できないものは恐怖となるために、
死が人の恐怖となって、絶対恐怖となっている。よって、死がどんなものか知ることができれば、
恐怖が克服され、苦しみからの解脱となるのである。それを、訓えたのが観音経として説かれた観世音菩薩である。

観音経は、釈迦の訓えに沿って修行をし、観世音と呼ばれるようになった人が死んだ後、その世界から、
悟りを開いて死んでいった人の世界はこのような世界であるとして語ったものである。
同じく釈迦の下で修業している持地菩薩に、修行が縁となって啓示となって語られているものである。
それは、無尽意菩薩という人が持地菩薩に問いかけているものであるが、持地菩薩は観世音菩薩の啓示を受けているものであるために、
実際には持地菩薩の口から語られているが、答えているのは観世音菩薩である。それが観音経である。
「仏子何因縁 名為観世音」・「仏子よ、何が因縁で観世音と呼ばれるようになったのですか?」という問いに、
「具足妙相尊 偈答無尽意」・「釈迦の妙なる法を具えたためであると偈(観世音)は無尽意に答えた」、こうして観音経が語られていく。
法を具えれば智慧となり、その知恵の思いは正しい思いとなって、すべてに正しく対応できるものとなっていく。
その人の思いの力は云々と語られているものである。

死後の世界から語られているものであるために、
人は死んでも生命というのは無くなるものでないという証明となっている。
その証明は、釈迦の説いた法が正しいものである証明ともなっている。
法が円運動であり、無くなることのないものとなっているために、生命も無くなることがなく死が無いものとなっている。
円運動に由る変化が無常となって、すべてが無常となっているものである。それが法であり常住である。法の自由である。
ただ区切られてつながっているものであるために、根本はすべて繋がっていく。
法を悟ることによって縁を知り、輪廻からの解脱を知ることができていく。その行為によって、
時間空間を持たない法の自由の世界、心の自由の世界、生命の自由の世界、永遠の安住となれるのである。

生命というものは法によって作られ、法に沿う沿わないによって向上と退化があり淘汰がある。
生命の区切りは肉体の死であり、死後の世界は、心の現象の世界で、時間空間の持たない世界である。
そのために、人の知ることのない世界となって生命の空白の世界となっている。よって、
死後の世界を空と表し、この世を色と表している。
「色即是空であり、空即是色である」と説かれている。法が是であり、是によってすべてが繰り返されていると訓えているものであり、
無くなることのないものであると諭しているのである。

誤るために何もかもが矛盾となってわからなくなる。
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