つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

観音様という総称

2013-11-06 | Weblog
般若心経の中で出てくる舎利子は、「舎利子よ」と呼びかけられているのではない。
舎利子は語ったとしての舎利子である。「舎利子よ、これはこうであれはあーなんだよ」と云々、
舎利子に語り掛け説明しているものではない。
そのように、語り掛けているとして訳してしまうと、観自在菩薩が何のために出てくるのか意味不明なものとなってしまう。
観自在菩薩が般若心経を語っているもので、ただ
舎利子の口を借りて述べているのである。だから、実際には舎利子が語っているものである。だから、舎利子としている。
よって、舎利子として舎利子が語っているところからが観自在菩薩の啓示となっている。
これは、釈迦の説いた修行法を舎利子が行じているために、その修行が縁となって、菩薩が舎利子の意識の中に降臨できているのである。
生前釈迦の弟子として、同じく修行していたためににできたことである。
これが縁起である。

般若心経は、観自在菩薩が語っていて、法華経は観世音菩薩が語ったものである。
同一人物ではない。釈迦の修行を行じて悟りを開き、それぞれ観音と呼ばれるようになった人の呼び名としての
観音菩薩という。それぞれ皆別人の菩薩である。

観音経は法華経の中の二十五番目に語られたもので、故に観世音菩薩の語りである。
共に生前、釈迦の修行を行じて悟りを開き、観音と呼ばれるようになった人達の死後の世界は
どのような世界であるのかを語ったものである。
観世音菩薩が持地菩薩の意識に降臨、持地菩薩の口を借りて語られているのである。
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