つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

念彼観音力

2013-11-09 | Weblog
様々な人がいる。
素晴らしい能力があって、頭の回転が良い人。
過去を分析して明日を、未来を予める人。
頭脳明晰とはいかないにしても、よく心配りができていて、
あれやこれやと世話を焼きたがる人。
世話好きなことはよいにしても、
度が過ぎれば迷惑となることに疎く、それでも恩がましく「私がやってあげたの、私がしてあげたの」と
言い誇る人。どこに程々ということを理解すればよいのか、頭脳明晰にしても明確に知ることはできないでいる。
人というのは、悩ましいものである。

人というのは、人であっても曖昧模糊としてある。自分で自分が分からない。
どこから来てどこへ行くのか、自分自身を知らないのである。して、遠巻きに自分をみて探求していくが、
自分というのは常に内側にあり、だから、内側を探っていかなければ本質は見えては来ないものであるが、
外へ外へと目を見張る。「灯台下暗し」というけれど、それを知るなら、もっと早く目覚めるものを・・と。
内側を探る?それは、「気づき」である。
自分をみて他人が見えてきて、他人に受けて自分をみるのである。
気づくことで見えないものが見えてくる。

道理があからさまにしてあるが、あからさまは微妙にしてあるために、その微を目を凝らして視なければならない。
見せつけられていて、みえないものであるから。また、私が見ていなく、視ないでいるものであるために、
曖昧模糊なのである。
あからさまにしてあるのだから、観てはいるのである。
答えを見ていても答えられないでいる。それは、過程を知らないために順序が違い、順序が違えば
答えても答えとならないためである。同じ答えとしてあるにしても、違ってくるのである。
合ってはいても違った果となるのである。腐敗と醗酵というような違いが出てくる。
つまり、過程その順序そのものが答えとなっているのである。
文字の書き順が違っていても、書きあがればその文字が出来上がるために分かるが、実際は変にある。
だから、「ん?」として伝わっていて釈然とならないのである。
釈然とならないのは、本物ではないのであるために、苦となってしまう。
いつまでもいつまでも答えを出せずに探し求めるだけである。なぜ、なぜ、なぜ?と・・。
それは、どこまで行っても縮められるだけで、ゴールとならないのである。矛盾となるのである。
永遠にその半分、半分となって解決が無いものとなってしまう。
永遠に旅する者?となってしまう。そうではないのが法則である。
正しく法則を知ることである。

教育というのは、道徳が大事であって、道徳を学ぶということは、道理を学ぶということである。
知恵がついて、物の理が知れてくるために、あからさまを見て予めを知ることができてくるのである。
それを、思議のいらないこととして不思議となるのである。
不思議な力が宿ってくるのである。それは、道理の力であり、
法則の力であるために、何ものにも侵されることのない力となっているものである。
すべてを思い通り(道理)にできてくるのである。それが、観音の世界であり、
観音となった人の心の世界である。悟りを開いた世界である。
「念彼観音力」という。
それは、誰でもなれる世界である。特別な能力があったわけではない。
だから、仏の教えとして、広く世に知られていったのであるから。
先ず「気づく」ということから始まっていく。
コメント
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