つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

受想行識

2013-11-24 | Weblog
冬に向かい凛とした季節の中、澄み渡る青空に木々の色付きを愛でるために、
行楽地に朝早く出かける。概ねみんな思うことは同じで、道は混む。
でも、そも道すがらが楽しいもので、込み具合に愚痴を言いながらでも、
取り留めもなく他愛無いことに話が弾む。
家族だったり、気の合う友達だったり、その中でも恋人、愛情関係にある同士との
連れ合いは最高だろう、気兼ねなく連れ合う、幸せなひと時である。

子供の時分は一日とて長く思うものだが、齢とともに一日の過ぎることのなんと早いものか、
熱中していたり、楽しいことには殊更驚嘆してしまうほどである。

人生は不定にして生きているもので、寿命がいつなのか、人生の卒業は年とともに迫ってくるが、
必ずしも老衰での卒業とはいかないものである。時期に非ずとしても不意に卒業してしまう。学び舎に例えれば、中退、或は退学だろう。
人生は学問である。問題ばかりなのだ。生きていくという事は問題なのである。
なのに、志半ば無知にして、咲くに及ばず散っていく身はさぞかし哀しいものである。

生命は経験、経験がものをいう。
経験によって性格が作られていくもので、だから経験はとても大事である。そのため、人生経験が少なくして子供のうちに不意に死んでしまえば、
心の現象する世界が作られないために、あの世の現象とならずすぐさま輪廻してくる。それは365日を待たずに転生してしまうのである。そして、
生命の性格によって、その旨知らねばならないところの母胎に再び宿る。
縁という因果応報である。その母胎が良いか悪いか(善い人であるか意地汚いか、健康不健康、貧乏か裕福か、過酷な環境にあるかないか等々)は、
自分の心の性によって生じてくる。浄という足りないところを補うためという感じである。
例えて、裕福な立場にあって生まれてきたが、その立場を浄く扱えたか、不法にして意地汚くもって為したかというように、その在り方に道理に沿って
浄く為されたかである。また、裕福であれば心のゆとりがあり優しくもなれるが、極貧となったときその優しさは如何なるものか?
さて、本物の愛情が知れてくるものである。窮地に劣った時、我先にと人は走るものである。驕りというものを試される。
本当に愛情が本物かと・・・。

心には時間は無い。あの世にも時間は無い。心には空間も無い。あの世にも空間は無い。
だから心が年を取るという事は無い。時間が経つという事は無いものである。あの世も同じである。

夢が心の世界を表していて、あの世もそうである。そのために、夢は様々瞬時を行き来する。
心の表れであるために、壁という隔たりを持たずどこにでも自由に行き来する。時空を持たないのである。
或は、重なっているとでも言おうか。過去とこれからという想像が入り乱れているものである。
あの世もそうである。
心の現象であるために、心が正しく作られていなければ正しい生命世界は作られてはいかない。
それは、是という浄化の法則との摩擦となってしまうために、苦しい世界となってしまう。それが地獄である。
法則に善悪は無い。だから、絶対善となっていることを悟り、それに沿って経験していくことである。
正しい経験は正しく対処できたかということである。
何もかもが自分の心が決めること、誰かが指図するというものではない。
自然(道理)はただそこにまったりとしてあるだけで、どう受けるか、受け取るのは自分次第である。
そして、どう想い、どう識別して、どう行動したかである。
この世は「受想行識」の世界である。

コメント
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