つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

賢に懸に献

2013-11-02 | Weblog
懸命に生きる親のうしろ姿を見ていても見ることなく、
学び覚えるということに気づかない子は哀しい。
その哀しさは、後で自分(その子)の身に降りかかる事柄を案じて、
悲しいと思われるもので、その気づきがないかぎり悟ることは難しい。
懸命のうしろ姿に見て学べ、感じろ、気づけ!
懸命のうしろ姿こそ物語るものであるから。
すべては自分自身の為である。

人の上にに立つ者、本来なら品行方正でなければならない。また、
品行方正である。しかしながら、俗世、人の世というに、トップに立つものは
品行方正に欠ける。そういうものに導かれる者たちは悲劇である。
親になれない子が親となるようなもので、あちこちでちぐはぐなことが起こる。
見るに堪えない聞くに堪えないことが頻繁となって驚くが、やがて頻繁であるために慣れてしまい、
驚かなくなっていく。乱れた状態が当たり前としてあり、いけないことであることに気が付かなくなっていく。
そういう状態は腐敗であるために、共食いとなって崩壊していく。
賢明さを失った懸命は善悪顚倒である。
とりあえず自分が生きるためには何でもありという、互いを食い合っていく闘争の社会となっていく。
騙して騙されて、とにかく生き延びていくことが善となっていく。その後先も思うことなくのとにかくの後は悲である。

人が人として生きていくための倖せは、切なさ(無知)から生まれて、愛であり、慈しみ、労わり、奉仕、施与、献身にある。
にある。持ちつ持たれつであるために人間である。喰い喰われるは獣である。畜生の世界。
さて、今はどうか?いまだ狭間を歩んでいるようだ。畜生と人間のはざま?餓鬼と人間のはざま?天と人間のはざま?
如何程か、
六道輪廻にあるには違いない。まだまだ無知にあるために・・・。
コメント
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