つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

心の持ち方

2013-11-16 | Weblog
般若心経はこの上ない訓えである。
正しく解釈、理解すれば
これほど強堅な盾は無いものである。
悪から身を守る最強のバリヤーである。
それこそ善悪の正しい判断が即できるものである。
だから、瞬時に禍を避けられていくものである。
不思議となるものである。

心は形あるものでなく目に見えるものではない。
だが、容があり目にも見えたりはする。
しかし、触ることはできない。が、触れることもできたりする。
温感もあり、よって色もある。その按排は人生経験によって成っていく。
くすんだものから光を発し、煌煌となり、それは、赤から黄色に、そして青く、やがて白くまばゆく輝き見えなくなる。
磨かれたものは透明となり、すべてが見通しが立つようになる。
それは在るのだが無いという容となるのである。

心とは精である。精は気である。気はエネルギー、運動である。その運動は自由であり、自由は円となっている。
円が質となり性となっている。
それは、中がうつろに膨らんで、まったりとしているものである。ゼロという容、シュ-ニャといい円である。
これがエネルギー、。このエネルギーの法則で宇宙は作られている。
この法則によって生命も作られている。エネルギーは回るという自由をもってその性質、変化をしている。
回ることによって生じる変化に対応しいく。様々な刺激に反応して存在となっている。
様々な生命が生じていく。その場に応じてと言うように。
鉱物、植物、動物、無機、有機すべてエネルギー、その場に応じている精。
エネルギーの法則は回る故に元に戻りゼロとなっている。
元に戻れば始まりとなり、それが永遠となっているもので、無くなることのない法則となっている。
このエネルギーの法則の下の存在である。すべての物語である。
このエネルギーの法則を離れて物語は無い。
「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」と、唯一の法則の存在である旨説かれている。
この無くなることのない法則を理解して、すべてが変化する無常のものであるだけで、
どこかへ行ってしまうということでもなく、どこへも行かないということでもないものであることを知ることである。
そう知ろうとするのも心次第である。そのために、よく心をみがいて心を法則に沿うようにすることである。
そのために、摩という言葉が心経につけられているものである。
摩=こする。なでさする。すりきる。近づく。という意味を持つ。
つまり、よく心をみがいて法則に近づくことを意味してつけられている文字である。
法則に沿えば智恵が身に付いて、心の思いが法則の思いとなるために、瞬時物事の見極めがついていく。

法則は、元に戻るという仕組みにあるために浄化となっている。
だから、生命の行為はすべて浄化の行為となっているものである。その浄化が誤った浄化となれば、
誤った世界となっていく。肉体をなくした後、それは誤った世界、地獄として存在していくことになる。
正しい浄化の行為となっていれば、正しい世界が作られていき、それが天国の存在となっていく。極楽である。
それもこれも、無くなることのない法則であることの存在であると知り、肉体をもって生命活動となっていることを知ることである。
肉体をもって活動しているときだけが、天国地獄の選別ができるもので、肉体が無くなってからではそれは叶わない。
また、輪廻するまでそのどちらかで生きていくこととなる。
無知であれば、どう生きてよいかわからない。わからなければわかるまで輪廻する。
それはひとえに苦しみに尽きるものである。だから、輪廻から解脱して、永遠の天国で暮らせるようにと、
人生努力するのである。ただ、それは、安易に肉体をいじめて悟るということでもなく、また、
楽に興じることにして覚るということでもない。どちらも無意味なことである。
心をみがいて、知恵を付け法則に沿う生き方であると自然は訓え諭す。
般若心経は、その心の持ち方を訓えているものである。
よくよくその文字の意味を理解して、惑わされないことである。と心経は説いている。
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