つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

継続は力なり

2013-11-19 | Weblog
毎日同じことの繰り返し。
これが絶対となり正しいとなっていく。
だから、
繰り返していいことといけないことを知れ。
善悪顚倒してしまえば悪だらけとなって、
救いようのない世界となってしまう。
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有無同然

2013-11-18 | Weblog
人間、立って半畳寝て一畳、
これが一番幸せな空間。
これより大きくても小さくても不自由。
悩める空間、
不幸せな空間となる。
貧乏は貧乏で、裕福は裕福で悩む。


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よりどころ

2013-11-17 | Weblog
師となるには、何も学校に入り先生と呼ばれる人たちに教えてもらう必要はない。
教師となる人も誰かに教えてもらいなっているもので、完璧な人というのではない。
まして今の社会、職業として生活していくための手段でなっている人であるために、
専らという狭い心の持ち主である。ただ手引きに沿ってなっているものであるために、
一概に長けているというものでもない。職業としての識である。
誰も教えてくれる人がない「はじめ」の人というのが先生である。
それも、あれこれ自然に学び、道理を知り、試行錯誤で得た経験、その知恵の判断が師となり先生といわれるものになるのである。
本物の先生である。
ただべらべらと学識豊かであっても、計算上成り立つものであるはずが、実際には違ってくるのは、
事実というのは曖昧にしてなるものであるために、一概にというものではないのである。机の上の論理と現実との違いを生むものである。
知識の判断ではなく知恵の判断をすることである。

自然から学び得たもの、その識が知恵である。その人のコツ。
だから、コツはその人だけの感覚、感覚は同じにしてまた微妙であるために人それぞれに違うものである。
人それぞれに違うものをひっくるめて知識として教える。
ひっくるめられた知識は微妙にして曖昧であるために、
教えられたものは、教えられた知識を経験としなければ身に付かず忘れてしまう。
微妙の曖昧が明確にならないために覚えられないのである。

経験の感覚が知の恵である。それは、一つを知れば十を知れる識の徳(恩恵)である。
未経験の感覚が知の識である。これはこれ、あれはあれと、区別して知り合っているだけに過ぎない。
経験と未経験が本物とそうでないものに分かれていくものとなっている。

知識で理解するのではなく知恵で理解することである。これが違いを生まない感覚である。

釈迦は臨終に際してこう言われたとある。
「自らを拠り所として、法を拠り所としてあるべし、他を拠り所としてはならない」と。
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心の持ち方

2013-11-16 | Weblog
般若心経はこの上ない訓えである。
正しく解釈、理解すれば
これほど強堅な盾は無いものである。
悪から身を守る最強のバリヤーである。
それこそ善悪の正しい判断が即できるものである。
だから、瞬時に禍を避けられていくものである。
不思議となるものである。

心は形あるものでなく目に見えるものではない。
だが、容があり目にも見えたりはする。
しかし、触ることはできない。が、触れることもできたりする。
温感もあり、よって色もある。その按排は人生経験によって成っていく。
くすんだものから光を発し、煌煌となり、それは、赤から黄色に、そして青く、やがて白くまばゆく輝き見えなくなる。
磨かれたものは透明となり、すべてが見通しが立つようになる。
それは在るのだが無いという容となるのである。

心とは精である。精は気である。気はエネルギー、運動である。その運動は自由であり、自由は円となっている。
円が質となり性となっている。
それは、中がうつろに膨らんで、まったりとしているものである。ゼロという容、シュ-ニャといい円である。
これがエネルギー、。このエネルギーの法則で宇宙は作られている。
この法則によって生命も作られている。エネルギーは回るという自由をもってその性質、変化をしている。
回ることによって生じる変化に対応しいく。様々な刺激に反応して存在となっている。
様々な生命が生じていく。その場に応じてと言うように。
鉱物、植物、動物、無機、有機すべてエネルギー、その場に応じている精。
エネルギーの法則は回る故に元に戻りゼロとなっている。
元に戻れば始まりとなり、それが永遠となっているもので、無くなることのない法則となっている。
このエネルギーの法則の下の存在である。すべての物語である。
このエネルギーの法則を離れて物語は無い。
「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇」と、唯一の法則の存在である旨説かれている。
この無くなることのない法則を理解して、すべてが変化する無常のものであるだけで、
どこかへ行ってしまうということでもなく、どこへも行かないということでもないものであることを知ることである。
そう知ろうとするのも心次第である。そのために、よく心をみがいて心を法則に沿うようにすることである。
そのために、摩という言葉が心経につけられているものである。
摩=こする。なでさする。すりきる。近づく。という意味を持つ。
つまり、よく心をみがいて法則に近づくことを意味してつけられている文字である。
法則に沿えば智恵が身に付いて、心の思いが法則の思いとなるために、瞬時物事の見極めがついていく。

法則は、元に戻るという仕組みにあるために浄化となっている。
だから、生命の行為はすべて浄化の行為となっているものである。その浄化が誤った浄化となれば、
誤った世界となっていく。肉体をなくした後、それは誤った世界、地獄として存在していくことになる。
正しい浄化の行為となっていれば、正しい世界が作られていき、それが天国の存在となっていく。極楽である。
それもこれも、無くなることのない法則であることの存在であると知り、肉体をもって生命活動となっていることを知ることである。
肉体をもって活動しているときだけが、天国地獄の選別ができるもので、肉体が無くなってからではそれは叶わない。
また、輪廻するまでそのどちらかで生きていくこととなる。
無知であれば、どう生きてよいかわからない。わからなければわかるまで輪廻する。
それはひとえに苦しみに尽きるものである。だから、輪廻から解脱して、永遠の天国で暮らせるようにと、
人生努力するのである。ただ、それは、安易に肉体をいじめて悟るということでもなく、また、
楽に興じることにして覚るということでもない。どちらも無意味なことである。
心をみがいて、知恵を付け法則に沿う生き方であると自然は訓え諭す。
般若心経は、その心の持ち方を訓えているものである。
よくよくその文字の意味を理解して、惑わされないことである。と心経は説いている。
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自分の為に生きている

2013-11-14 | Weblog
人は、今生の幸せの為に生きているものではなく、
死後の世界の為に生きているものである。死後の世界の倖せの為に生きているものである。
生命というのは肉体をもって業を作り、業によって死後の幸不幸が
決まっていく。
だから、肉体をもって活動している時が大事となり、大切な人生である。
人生とは、死後の世界を作るための行為であり、生命の浄化のための行為となっているものである。
すべての行為が生命の浄化の為となっているのである。正しい死後の世界とするための行為となっているのである。
それは、生命そのものに死が無いためである。なぜなら、生命はエネルギーの法則によって作られているものであり、
エネルギーの法則は、無くなることのない法則となっているためである。
なぜなくなることがないのかといえば、自由であり、その自由が円運動となっているためである。
始まりが終わりであり、終わりが始まりとなっているための自由によるためである。そのために、
無くなることがなく繋がっていくものとなっている。始まりと終わりが同じであるために、永遠となっているのである。
それを絶対といい、正しいという。
同じことを繰り返す。同じところを通る。同じ時刻に同じ様にである。
そこに善悪は無く、ただ同じことをずーっと繰り返すことで正しいとなっていく、絶対となっていく。
必ず元に戻っていくために浄化となっている。
それは、日が東から昇り西に沈む繰り返しが正しいもの絶対なものとなって、日の回りが絶対正しいとして是とし、是が法則である。
宇宙の法則でありエネルギーの法則である。生命の法則である。すべての法則である。諸々の法則となっているのである。
だから、繰り返す。明日は絶対やってくる。そして、人は輪廻する。
この法則が絶対で常住である。変わらないものとなっている。
よって、生命は、この変わらないという常住に安住してこそ幸せとなっている。
その目的のために、人という生命は肉体をもって活動しているのである。
変わらない世界、それが死後の世界である。
死後の世界は、法則の絶対世界である。
肉体も何も、生きていた時の心の現象となっていくものである。そのために、人生は大切である。大事である。
無駄に生きてはならない。無駄にあるものではないのである。
人生は死後の為にあり、死後の世界を仕合せとするためにあるのである。それは、
生命そのものに死が無いためである。それは、是が無くならないものであるためである。
…だから、悪いことをするな。悪いことをして生きてはならないものである。自分の為であるために。
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為合せ

2013-11-13 | Weblog
どんな環境にあろうとも謙虚であること。
横柄であっては痛い目に合う。
裕福であれば貧乏を知る羽目に、
貧乏はさらに貧乏を知る羽目になる。
その立場に横柄であるなら、
謙虚を知るまで痛い目を受ける。
禍福は糾える縄の如しで、禍の時も福の時も謙虚をもって対処していれば、
禍福は受けることがなくなり平穏でいられる。
どちらに傾くことも無い仕合せである。
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いやらしいもの

2013-11-12 | Weblog
毎週のようにスーパーの安売り広告がでる。
たいして変化もない先週と同じような内容の広告である。
安売りの品も値段もほぼかわらないもので、
そんな変わり映えのしない安売りに広告費をかけるのなら、もっと目を引く値引きに還元できるだろうにと思うのだが、
勉強という進歩がない。文字だけが大いにパフォーマンス、誇大広告のように思ったりする。
安売りといってもどこも同じような値引き値。たまに十円から二十円いつもの安売り価格を下回って売られる品もあるが、
店側からすれば、目玉商品として赤字販売品なのだろうが、あれもこれもというわけにはいかないはずだ。
見え見えの損をして得を取れは下心、すべて下品なもの。
良いものをより安く、薄利多売で商売上手、商売繁盛なもの。

実のところ本当の値段、値打ちはいくら?と疑問になる。安くたたいて仕入れたりするのだろうが、
品物の本当の価値を大きく離れて、悪いものは安いも困る、高くはなお困る、良いものは高いが当たり前で特に目を引かず、
良いものをより安くはとても有難いものである。
儲けるところに損をする者がいるのである。
騙されることには損がある。
騙すところにも損が付く。儲け以上に損が後でくる。
いやらしいものになってはいけない。
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大人になる

2013-11-11 | Weblog
宇宙にはたくさんの星がある。
人知及ばないほどの数である。
またその大きさも然りである。
あまりにも巨大で、あまりにも小さい。
宇宙は、
人知及ばないほどの物事で作られている。
こうして私たちがいるのは、偶然の偶然などではない。
極めて稀なつり合いによってという存在でもない。
宇宙は、地球上の生命だけということはない。
生命は他の星にも数多くいる。
広大な宇宙で、人類は孤独な存在ではないのである。
「井の中の蛙大海を知らず」として生きているのは無能、低能である。子供である。
人の生命は有能である。法則のエネルギーで作られているものであるために
不二である。そのために、すべてを含んである。ちゃんと気づけば‘為せば成る’のである。
気づかない、気づいていないというだけである。
正しく成長することである。大人になれる。
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誤るために・・・

2013-11-10 | Weblog
「念彼観音力」というのは、
‘彼の観音の力を念ぜよ’として説かれているのではないのだが、
そのように誤った訳しをしているために、観音に祈るという、祈るための教えとなっている。

「念彼観音力」というのは、「彼の観音と呼ばれるようになった人の心念の力」は・・である。
祈るために語られたものではない。

祈りの経典として誤って理解されたために、観音に一心に祈ればその願いを叶えてくれるものであるとなってしまった。
そして、困った時の神頼みではないが、何か事あるごとに観音様に祈る。
でも、世の中どうだろう、祈って願いが叶うのならこれほど楽なことは無く、努力もしなくてよいことになる。
何とか頼みますと心底祈っても、願いが叶うことは無いものであることは世の中認識しているが、それでも、
崖っぷち、どうにもならないことには、何の根拠もない超越的なものに縋ろうとする。ただ、どんなに縋っても、
当たるも八卦当たらぬも八卦というような感じで、事はほとんど空しく終える。
たまたまという八卦が時としてあるために、超越的存在を信じてしまうものである。
これは、諸々を司っているエネルギーの法則を知れば、超と呼ばれる存在の有無がはっきり知れてくるものであるが、
えてして人は、そのようなことを知る由は無い。
法則は止まることのないものである。片時も止まることのないものである。
だから、すべてが片時も止まることなく動いているのである。これが道理であるために、
道理に反すればうまくいかなくなってしまう。それを知ることである。すれば、祈る行為というのは、
何もしないという動かない行為となる。ただ祈るだけで、何かするという動く行為を自分でせず、他にゆだねてしまう道理に反したものであるために、
物事はうまく成就しない。道理を智慧ある目で見れば正しく知れてくるものである。
祈るという行為は静止の状態であるために、いけない行為となっている。そのように、いけないことを知らないでしているために、
祈りというのは通じるものではないのである。だから、祈っても叶わないとなる。

稀に稀に、釈迦のような優れた人が現れるが、
その悟りを開いた人の訓えでさえ、時とともに薄れていくものである。
それを見抜いて、怠ることなく常に精進努力しなければならないと答えてくれたものである。
‘怠ることなく’も止まるな、動けということを言っているのである。
人は、概ね愚かであるために理解できないで、時とともに薄れていくものとしている。そのために、
明確に教えられたことも明確に捉えることができなくなって、
誤った考えをもって生きてしまう。
先人の優れた訓えも、何ら力の発揮できないものとなってしまうのである。
ただ良いことを聞かされたというだけで行為として進まない。
それは、人は死んでどうなるのかを教えられなかったためであり、また、教えることができなかったためである。
どんなに悟りを開いても、死後の世界を知ることが叶わなかったために、知らないことを想像で答えてしまうと、
その想像が誤っていても正すことができなくなり、すべて正しいものとなってしまう為に、教えることができなかった。
人は、死が経験とならないために、経験とならないことは知識とならないためである。
知識とならないことは、わかり様がなく判断できないものである。判断できないものは恐怖となるために、
死が人の恐怖となって、絶対恐怖となっている。よって、死がどんなものか知ることができれば、
恐怖が克服され、苦しみからの解脱となるのである。それを、訓えたのが観音経として説かれた観世音菩薩である。

観音経は、釈迦の訓えに沿って修行をし、観世音と呼ばれるようになった人が死んだ後、その世界から、
悟りを開いて死んでいった人の世界はこのような世界であるとして語ったものである。
同じく釈迦の下で修業している持地菩薩に、修行が縁となって啓示となって語られているものである。
それは、無尽意菩薩という人が持地菩薩に問いかけているものであるが、持地菩薩は観世音菩薩の啓示を受けているものであるために、
実際には持地菩薩の口から語られているが、答えているのは観世音菩薩である。それが観音経である。
「仏子何因縁 名為観世音」・「仏子よ、何が因縁で観世音と呼ばれるようになったのですか?」という問いに、
「具足妙相尊 偈答無尽意」・「釈迦の妙なる法を具えたためであると偈(観世音)は無尽意に答えた」、こうして観音経が語られていく。
法を具えれば智慧となり、その知恵の思いは正しい思いとなって、すべてに正しく対応できるものとなっていく。
その人の思いの力は云々と語られているものである。

死後の世界から語られているものであるために、
人は死んでも生命というのは無くなるものでないという証明となっている。
その証明は、釈迦の説いた法が正しいものである証明ともなっている。
法が円運動であり、無くなることのないものとなっているために、生命も無くなることがなく死が無いものとなっている。
円運動に由る変化が無常となって、すべてが無常となっているものである。それが法であり常住である。法の自由である。
ただ区切られてつながっているものであるために、根本はすべて繋がっていく。
法を悟ることによって縁を知り、輪廻からの解脱を知ることができていく。その行為によって、
時間空間を持たない法の自由の世界、心の自由の世界、生命の自由の世界、永遠の安住となれるのである。

生命というものは法によって作られ、法に沿う沿わないによって向上と退化があり淘汰がある。
生命の区切りは肉体の死であり、死後の世界は、心の現象の世界で、時間空間の持たない世界である。
そのために、人の知ることのない世界となって生命の空白の世界となっている。よって、
死後の世界を空と表し、この世を色と表している。
「色即是空であり、空即是色である」と説かれている。法が是であり、是によってすべてが繰り返されていると訓えているものであり、
無くなることのないものであると諭しているのである。

誤るために何もかもが矛盾となってわからなくなる。
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念彼観音力

2013-11-09 | Weblog
様々な人がいる。
素晴らしい能力があって、頭の回転が良い人。
過去を分析して明日を、未来を予める人。
頭脳明晰とはいかないにしても、よく心配りができていて、
あれやこれやと世話を焼きたがる人。
世話好きなことはよいにしても、
度が過ぎれば迷惑となることに疎く、それでも恩がましく「私がやってあげたの、私がしてあげたの」と
言い誇る人。どこに程々ということを理解すればよいのか、頭脳明晰にしても明確に知ることはできないでいる。
人というのは、悩ましいものである。

人というのは、人であっても曖昧模糊としてある。自分で自分が分からない。
どこから来てどこへ行くのか、自分自身を知らないのである。して、遠巻きに自分をみて探求していくが、
自分というのは常に内側にあり、だから、内側を探っていかなければ本質は見えては来ないものであるが、
外へ外へと目を見張る。「灯台下暗し」というけれど、それを知るなら、もっと早く目覚めるものを・・と。
内側を探る?それは、「気づき」である。
自分をみて他人が見えてきて、他人に受けて自分をみるのである。
気づくことで見えないものが見えてくる。

道理があからさまにしてあるが、あからさまは微妙にしてあるために、その微を目を凝らして視なければならない。
見せつけられていて、みえないものであるから。また、私が見ていなく、視ないでいるものであるために、
曖昧模糊なのである。
あからさまにしてあるのだから、観てはいるのである。
答えを見ていても答えられないでいる。それは、過程を知らないために順序が違い、順序が違えば
答えても答えとならないためである。同じ答えとしてあるにしても、違ってくるのである。
合ってはいても違った果となるのである。腐敗と醗酵というような違いが出てくる。
つまり、過程その順序そのものが答えとなっているのである。
文字の書き順が違っていても、書きあがればその文字が出来上がるために分かるが、実際は変にある。
だから、「ん?」として伝わっていて釈然とならないのである。
釈然とならないのは、本物ではないのであるために、苦となってしまう。
いつまでもいつまでも答えを出せずに探し求めるだけである。なぜ、なぜ、なぜ?と・・。
それは、どこまで行っても縮められるだけで、ゴールとならないのである。矛盾となるのである。
永遠にその半分、半分となって解決が無いものとなってしまう。
永遠に旅する者?となってしまう。そうではないのが法則である。
正しく法則を知ることである。

教育というのは、道徳が大事であって、道徳を学ぶということは、道理を学ぶということである。
知恵がついて、物の理が知れてくるために、あからさまを見て予めを知ることができてくるのである。
それを、思議のいらないこととして不思議となるのである。
不思議な力が宿ってくるのである。それは、道理の力であり、
法則の力であるために、何ものにも侵されることのない力となっているものである。
すべてを思い通り(道理)にできてくるのである。それが、観音の世界であり、
観音となった人の心の世界である。悟りを開いた世界である。
「念彼観音力」という。
それは、誰でもなれる世界である。特別な能力があったわけではない。
だから、仏の教えとして、広く世に知られていったのであるから。
先ず「気づく」ということから始まっていく。
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