一枚の葉

私の好きな画伯・小倉遊亀さんの言葉です。

「一枚の葉が手に入れば宇宙全体が手に入る」

『凍(とう)』 沢木耕太郎著

2017-07-29 07:56:33 | 読書


       あんまり暑いので冷たい世界にひたろうと
       沢木耕太郎の本を読んだ。
     
       題して『凍』

       アルピニストの山野井泰史・妙子夫妻のヒマラヤ
       登攀(とうはん)記である。

       夫妻は世界でも有名なアルピニストであるが、
       あまりマスコミに出たがらないし、大々的な宣伝は
       好まないので、日本では知る人ぞ知る、程度である。

       だが、その大胆で緻密なクライミングは世界中の
       著名な登山家をうならせるのだ。

       山野井夫妻は酸素ボンベもトランシーバーも持たない。
       いわく、
       「素(す)で大好きな山に向かいたい」
       のである。

       登攀記録を撮りたい、というNHKの申し出も断った。
       「気持ちよく壁登りが出来ない気がしたから」
       (その後、民放の申し出はそれが可能な気がしたから
        受けたが)

       妻の妙子は夫より9歳上。
       前の登山で手足の指を凍傷のため数本失っている。

       それでも常に冷静で沈着な妙子を、夫の泰史は信頼し、
       尊敬もしている。

       二人は8000㍍級のヒマラヤの垂直な壁を登るとき、
       ロープでしばり合って協力するが、
       片方が足をすべらせて中吊りになっても助けられない。
    
       案の定、似たような状況に陥った。
       それは下山しているときだった。

       妙子は垂直な壁を登りはじめて間もなく、
       ものを食べることが出来なくなったし、
       水分を受付けなくなっていた。
       無理して雪をとかした白湯を飲んでも、胃液と一緒に 
       嘔吐するだけだ。

       おまけに体全体が凍傷にかかっていて、
       眼も見えなくなったいたし、意識も朦朧としてきた。
 
       相手の足を引っ張りたくない妙子はいった。
       「先に行って。あとからゆっくり行くから」

       山野井は無言でうなずいて、思う。
       「妙子はここで死ぬのだろうか」

       そしてこう思いかえす。
       「自分は妙子が最後の最後まで頑張る女性だと
        知っているし、
        パニックを起こす女性でないことも知っている。
        妙子が頑張りきれずに死んだとしたら、
        他の誰も頑張れはしないのだ。
        そして、
        頑張れきれずに死ぬことになったとしても、
        恐怖を感じずに死ぬことができるだろう」

       奇跡は起った。
       妙子はしばらくして山野井に追いついてきたのだ。

       こうして二人は命だけは助かってベースキャンプ
       にたどり着いた。

       しかし、
       山野井も指を何本か失ったが、
       妙子はもっとひどかった。
   
       妙子は手足20本の指の中で、まったく切っていない
       のは左足の小指と薬指だけとなった。
       およそ世界の先鋭的なクライマーの中でも、
       18本もの指を切っているクライマーは妙子以外に
       いないだろう。
       そこまで凍傷を負う前に死んでいるからだ。

       そんな悲惨な状況でも妙子はたんたんとしていた。
       そして、山野井はそんな妙子をみて、こう思う。

       「一本の指を失っただけで、人は絶望するかもしれない。
        しかし、18本もの指を失っても、妙子を悲観すること
        なく、平然としている。
        そうだ。
        好きなことをして失っただけなのだ。
        誰を恨んだり、後悔する必要があるだろう。
        戻らないものは仕方がない。
        大事なのはこの手でどのように生きていくかという
        ことなのだ」

       そして、その通り、
       妙子は指を全部失って、手のひらだけになった手で
       包丁も握れるようになったし、
       お箸をつかって食事もできるようになった。

       さらに、一度は
       「もう山(に登るの)はいいだろう」
       と思ったのに、
       またトレーニングをはじめ、ヒマラヤに向かうのである。

       読者である私は、
       こんな過酷な体験は誰にもできないし、
       すすめられたとしてもご免だが、
       山野井夫妻の教訓には普遍的なテーマが含まれている、
       と深く心が動かされた。