唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(13) 触の心所 (12)

2015-09-08 22:13:48 | 初能変 第三 心所相応門


 明後日(10日)、八尾市本町、真宗大谷派 聞成坊において、『成唯識論』講義を午後三時より行います。有縁の方々足をお運びください。

  補足説明
 『倶舎論』第十四頌後半から、第十五頌において五蘊についての釈が述べられてありますので、読んでみたいと思います。
 「受領納随触 想取像為体 四余名行蘊 如是受等三 及無表無為 名法処法界」(受は随触(ずいそく)を領納(りょうのう)す。想は像を取るを体と為す。四の余を行蘊と名く。是の如き受等の三と、及び無表と無為とを、法処法界と名く。)
 受蘊は随順する触を領納する。想蘊は心の内に想い考えることを体とする。第三句は行蘊、色・受・想・識の四蘊以外を行蘊と名づける。
 「如是受等三 及無表無為 名法処法界」の三句は、処界門を示している。受・想・行と無表色と無為法、これらすべてが十二処では法処、十八界では法界に摂められる。
 色蘊は五根・五境と無表色との十一種であるとし、五根五境を十二処では十処、十八界では十界とすると説明されていますが、この科段では、受・想・行の三蘊は、十二処、十八界ではどこに摂められるのであるのかを説明しています。
 第一句は受蘊についての説明です。
  受は、苦・楽を感じる感受作用で、領納といいます。触を領納するのですから、領納随触といわれます。境が触れたその触を受け入れ感受作用を起こす。即ち、苦境が触れると苦触を起こし、苦受を生ずるという。反対に楽境が触れると楽触を起こし、楽受を生ずる。この受に、苦受と楽受と非苦非楽受(捨受)との三受がありますが、さらに苦受を苦受と憂受に、楽受を楽受と喜受とに分け、全部で五受に分けられて説明しています。苦受と楽受は感覚的なもので、五感覚と共に働き(身受)、憂受と喜受は分別作用と共に働く(心受)といわれています。
 第二句は想蘊
  想は、対象が何であるのかを知る知覚作用。「像と取るを体と為す」、また「想とは、謂く境の於に差別を取る相なり」と定義されます。言葉(名言)によって対象を、「これは男性であって、女性ではない」というように、明確に知覚するといわれます。六根に依って六想をわけることができます。
 第三句は行蘊  
 色・受・想・識の四蘊以外を行蘊と名づけられます。不相応行をも含めます。即ち、心所の四十四法と不相応行の十四法の五十八法が数えられます。
 受・想・行と無表色と無為法、これらすべてが十二処では法処、十八界では法界に摂められ、法処・法界は四十六の心所と十四の不相応行、無表色と三無為法の合計六十四法であるとされます。
 十二処・十八界の説は、主観と客観を結びつけるものは何か、どうして認識が成り立つのかを、根・境・識でもって経験的世界のすべてを表そうとしたものなのです。根は識の依り所であり、境は識の対象、識は根を依り所とし、境を対象として、認識を成り立たせているのですね。
「又諸の有為法は 謂く色等の五蘊なり 亦は世路と言依と 有離と有事等となり。」(第七偈)(諸の有為法とは、色等の五蘊である。亦(有為法の異名)は世路と名づけ、有離と名づけ、有事等という。)
 初めに色等の五蘊が有為法であることを述べます。五蘊の中には無為法は入らないのです。七十五法の内七十二法が五蘊です。次に有為法の異名(同義語)を挙げます。
• 世路(せろ) - 世は、「時」の意、三世(過去世・現在世・未来世)をあらわし、路は所依で有為法を指します。有為法はすべて三世の為に所依となり、世の路となる(依主釈)。三世は有為法を別にしては存在しないということから、世路は有為法の別名になります。
• 言依(ごんえ) - 「言」とは語られた言葉、「依」とはよりどころという意味。有為法は言葉が生じるよりどころとなるという意味で言依という。
• 有離(うり) - 有為法は有(煩悩)を離れることによって涅槃を得ることができるから有離という。
• 有事(うじ) - 事は因のこと。因を有するもの。有為法は因より生じ、因を有することから有事という。
 有為法の異名を挙げ、次いで有漏の異名を説きます。
 「有漏を取蘊と名づく 亦は説いて有諍と 及び苦と集と世間と 見處と三有等と為す。」(有漏を取蘊と名づける。亦は有諍と名づけ、苦と集と世間といい、見處という。そして三有とも称する。)
• 取蘊(しゅうん) - 「取」とは煩悩のこと。五取蘊の取蘊。「蘊」(自己存在を構成する五つの要素の集まり。)は、取より生じる、或いは取に属する、或いは取を生じるから有漏法を取蘊という。
• 有諍(うじょう) - 煩悩を諍といい、煩悩を有するものという意味。善を排除し自己と他者とに損害を与え、闘争を増大するもの。煩悩を増大するものが有漏法であり、有を増大という意味で解釈されます。
• 苦 - 有漏法は聖者の心に違することから苦という(苦諦)。
• 集(じゅう) ―有漏法は苦果を集めることから集という(集諦)。自己へ執着し欲を起こして苦を生じる原因を集積することから、集という。
• 世間 - 世間・出世間の世間のこと。時間と空間とに束縛される現象的存在を世間という。三界からなる世界のことで、この三界は、言葉が通用する世界、煩悩が渦巻く世界、真理が覆われている世界のことで有漏法の別名となる。
• 見處(けんじょ) - 見は、あやまった見解のこと。根本煩悩の中の悪見のことで、薩伽耶見・辺執見・邪見・見取見・戒禁取見の五つで五見のこと。有漏法は五見の所依であることから見處という。
• 三有(さんう) - 三界のこと。欲界・色界・無色界における迷妄的生存をいう。
 私たちは、三有生死ともいわれる迷いの境涯を住処としているのですが、三有生死を離れるというのが仏道の目的になります。親鸞聖人は「信巻」横超断四流釈において「断」ということを特に強調されています。「断」ということは真宗の教学の中では余りいわれることはないように思うのですが、三有生死は断ずべきものとして語られています。
 「断」と言うは、往相の一心を発起するがゆえに、生として当に受くべき生なし。趣としてまた到るべき趣なし。すでに六趣・四生、因亡じ果滅す。かるがゆえにすなわち頓に三有の生死を断絶す。かるがゆえに「断」と曰うなり。「四流」は、すなわち四暴流なり。また生・老・病・死なり。」(「信巻」真聖p344)

 『浄土文類聚鈔』の『念仏正信偈』には「三有生死の雲が晴れる」と教えてくださっています。

      弥陀仏日普照耀、已能雖破無明闇、
      貪愛瞋嫌之雲霧、常覆清浄信心天。
      譬猶如日月星宿、雖覆煙霞雲霧等、
      其雲霧下明無闇、信知超日月光益。
      必至無上浄信暁、三有生死之雲晴、 (真聖p411)

初能変 第三 心所相応門(12) 触の心所 (11)

2015-09-07 23:25:20 | 初能変 第三 心所相応門
 触は仮のものではなく、触の自性は実であることを、三因を以て証明します。第一が、六の六法の中の心所に摂められる。
 「六の六法の中に心所の性なるが故に」(『論』第三・二右)
 ここでいう、六の六法は、『界身足論』の説です。『界身足論』は、説一切有部における六つの論書の中の一つで、六つ合わせて、『六足論』と呼ばれています。足は各論という意味ですね。『界身足論』は、『(阿毘達磨)界身足論』(あびだつま かいしんそくろん、Abhidharma-dhātukāya-pāda-śāstra, アビダルマ・ダートゥカーヤ・パーダ・シャーストラ)と呼ばれているものです。
 『倶舎論』や『阿毘達磨順正理論』等で言うところの、六内処・六外処・六識身・六愛身・六触身・六受身とでは少し違って説かれています。
 『界身足論』には、六識・六触・六受・六想・六思・六愛の六の六法を表しています。
 六識は、六識身のことで、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの集まり。
 六触は、六触身のことで、眼触・耳触・鼻触・舌触・身触・意触の六つの集まり。
  触とは、根(感覚器官)と境(認識対象)と識(認識する心)との三つが和合したところに生じ、生じたところから逆に和合せしめる心所をいい、根・境・識とのそれぞれ六つあ  り、三者の結合から生じる触にも六つあることになります。
 六受とは、六触から生じる六つの受の集まりことで、まとめて六受身と云う。
 六想とは、六触から生じる六つの想の集まりことで、まとめて六想身と云う。
 六思とは、六触から生じる六つの思の集まりことで、まとめて六思身と云う。
 六愛とは、六触から生じる六つの貪愛の集まりのことで、まとめて六愛身と云う。
 この場合の身とは、触所生の受身・想身・思身・愛身のことですが、すべて触から生じるということで、これが触れが自性あるという根拠になるわけです。個の根拠を以て、経量部の仮法であるという主張を論破してきます。
 「触は別に体有るべし。六の六法の中に心所の性なるが故に」(『述記』)が結論として説かれてきます。
 第二の因は、食(じき)に関してです。 
 「是れ食に摂むるが故に。」(『論』第三・二右)
 食は四食を指しますが、食が体を支えている。つまり、身を養う段食・触食・意思食・識食の食事をいいますが、この四つは身体を維持する支えとなる食なんですね。例えば触食ですが、触れるという食事という意味なのですが、私はあなたとの触れ合いの中で私の身を養っているし、養われていることなんですね。触ることにおいて身体を作っていることは、仮のものではないという証明になるわけです。
 段食(だんじき)は、食べ物一般のことですが、私と関係する時には、口の中に入れて噛み砕き、段々と食べることから段食といわれます。これも私の身体、命を支えているものですから仮のものではありませんね。
 意思食(いしじき)とは、意志と云う食事。意思を食事に喩というわけですが、浄土に生まれようと意欲を起こし希望することが心によい影響を与え、それが身体を養うことにつながるのですね。
 識食(しきじき)とは、心の深層識である阿頼耶識によって身体が生理的に維持され、寿命全うするまで腐食することなく存続されていることから、識を食に喩て識食といっているわけです。
 『成唯識論』では巻第四冒頭に、四食の証明が引かれてあります。『選注』ではp69~p71になります。
 「この四は能く有情の身命を持して壊断せざらしむるが故に名けて食と為す。」と説明されています、つまり、有情の身命を保って、身命を壊さないで保持していく働きを持つのが食だというわけです。
 冒頭の文章は、
 「契経に説かく。一切の有情は皆食に依って住すと云う。若しこの識無くば彼の識食の体有るべからざるが故に。謂く契経に説ける食に四種あり。」ここから説かれるわけです。本科段の本旨ではありませんが、四食についての『論』の所論を伺ってみたいと思います。  (つづく)


 

初能変 第三 心所相応門(11) 触の心所 (10)

2015-09-06 14:55:36 | 初能変 第三 心所相応門





 触についての説明がつづきます。
 「『集論』等に受が依とすると説けるは、触いい受を生ずるに近くして勝れたるを以ての故に、謂く触が所取の可意(かい)等の相と受が所取の順益(じゅんやく)等の相と、極めて相隣近し引発(いんぽつ)すること勝れたるが故に。」(『論』第三・二右)
 『集論』等に、受が所依となると説かれているのは、触が受を生ずるのに一番近く、他の想・思よりも勝れているからであると説明しています。触れたら、即受ですね。触れると同時に感情が沸き起こってきます。三受相応とか、五受相応といわれることなんですが、第八識に関しては無記性である。阿頼耶識は、触と相応し、ありのままを受け取るのが相なんですね。
 「近」とか「勝」とかと云われていますが、何故、近であり、勝であるのかという問いに対して、「謂く」とその理由が示されています。
 つまり、触の対象であるところの可意(好ましい事)と不可意(好ましくない事)の相と、受が対象とする順益(心にかなう対象、好ましい事。楽受)と違(損害の事。心にたがう対象、好ましくない事。苦受)との相は極めて近く、引発(引き起こすこと)することが勝れているからである、と。
 触が起こりますと、即座に、受という感情が起こってきます。朝、目を覚ましますと、ぼうっとしていましても、無記という感情が起こっているのですね。そして、目覚めがいいとか、目覚めが悪いとかと云う感情が起こってきます。そういうわけで、受が依となると述べています。
 可意等と順益とは相似の義であるというわけですね。
 「即ち可意等の相と、順益の相と、行相は極めて相似せる故に、名けて相隣と為す。世に此の物と彼の物と深極に相似せりと言うこと有るが如し。相似と相隣とは体一にして名は異なり。この解は即ち是れ境相近きに約せり。」(『述記』)
 二番目の解釈は、触は受を引き起こすこと(引発)他の心所よりも勝れているからである、と云いますね。つまり、触が苦・楽・捨という所触の境に触れる時は、受も苦等の受を受けるんだ、と。
 次科段は、経量部の説を破斥します。
 「然るに今大乗は一切有部に同じく触の体は是れ実なりと云う(『倶舎論』第十巻に説かれる)唯、経部の一師は三和して触を成ずと云う者、大乗を難じて(大乗を批判して)曰く、触は是れ三和と説かば、何が実体有ることを得んやと。彼が計を破さんとして、故に説いて云く。」(『述記』
 大乗の論破の要旨は、
 「然るに触の自性は是れ実にして仮に非ざるべし」(『論』第三・二右) と。
 経量部の主張は、三和の他に触はないんだと、いうわけですね。三和の他に触という実体は無いわけですから、触は仮ということになります。大乗は、触は仮ではなく、触の自性は実のものであると主張します。ここに三つの証拠を挙げて論証してきます。
 以下は次回に考究します。
 一、 六の六法の中に心所の性なるが故に。
 二、 是れ食(じき)に摂むるが故に。
 
 三、 能く縁となるが故に。

初能変 第三 心所相応門(10) 触の心所 (9)

2015-09-06 00:06:32 | 初能変 第三 心所相応門


 『瑜伽論』巻第三と五十五を教証として挙げられますが、その前に『述記』には問いが出されています。
 「問う、若し諸の心所は皆触に依って生ずといはば、何が故に『瑜伽』第三と五十五とに受・想・思が所依を以て業とすとのみ説いて、所余の心所法をば説かざるなり」と。
 『瑜伽論』を会通する一段になります。『論』の記述は、答えになります。
 「瑜伽に但だ受と想と思とが與(ため)に所依とするのみと説けるは、思いい行蘊に於て主たること勝れたるが故に、此れを挙げて余を摂めたり。」(『論』第三・初左)色は
 ここで注意が必要なのは、「但だ受と想と思とが與に所依とするのみ」と云って、等という言葉がありません。触はこの三つだけの為にだけ所依となると説かれているわけです。それはどういう意味をもっているのか。本当はその他の所依でもあるんですが、この三つだけが所依と為ると挙げているんですね。
 色・受・想・行・識の五蘊の中で主となるのが行蘊、遍行では思と云っていますが、思が行蘊の中で主である、と。思は意志です。意志には行為が働きます。行為がサンスカーラ、その背景にあるのが、意思決定、この場合の意志決定は有為法、一切の心所をあらわす概念になりますね。
 色は物質、識は心ですから、行を代表するのが思なんですね。受・想・行をもって心所法を表しているわけですが、主は行で、行の中でも思が主である。行は造作の義であって、思は業だといいます。「有漏の有為を造作するを行取蘊と名く」と云われています。
 造作の義は最強である故に、最勝というのだ、と。心所法のすべてが、行に関係してくるんですね。しかも、その他の心所、善の心所もあれば、煩悩の心所もあるわけです。そういうものが全部合わさって行為起こす。思の中にすべての心所を摂めて『瑜伽論』は説いている。
 境に触れることに於て、受・想・思の所依となる、それが触の心所である。触と作意、そして受・想・思が倶に生起する、故に五遍行と云う。
 「思は是れ行蘊に於て主なり。故に『集論』の初に云何ぞ行蘊なりや、謂く六思身なりと説けり。」(『述記』)
 触と思の関係ですね。六触に依って、六思が生ずるわけですから、思が主であることも頷けるわけです。
 「眼触所生の思、耳・鼻・舌・身・意触所生の思」(『瑜伽論』巻第二十七)と説かれています。つめり、六つの触から生ずる六つの思(意志)の集まりを、六思身(ろくししん)といわれます。阿頼耶識においてもですね、阿頼耶識は触等と倶に働くわけですから、触はすべての心心所を境に触れしめる働きをもっていて、その主になるのが思ですから、触は思の所依となると説かれているわけです。すべての心所は皆、触に依って生起するんだ、と。

初能変 第三 心所相応門(9) 触の心所 (8)

2015-09-04 23:47:18 | 初能変 第三 心所相応門



   

 『大乗阿毘達磨集論』等、(等は『大乗阿毘達磨雑集論』)には「但だ根が変異に分別すと」説かれていると述べられていましたが、「根の用勝れたるを以て、但だ根を分別すと云う」とですね。この、根の勢力が増強であるということは、『倶舎論』に依るところが大きいですね。第三能変に至って、随根得名・随境得名という問題が提起されていますが、この辺りを少し整理してみますと、本科段の読み解くヒントになるかもしれません。
 六識の名は根に依り、或いは境によるけれども、諸論には多く一切位に通じて五義を具す随根得名によって眼識乃至意識と名づけるのであることを説明します。
 「此の後の境に随って六識の名を立てたるは五色根が未自在なるに依りて説けり。若し自在を得つるときには、諸根互用(しょこんごゆう)するを以て一根いい識を発して一切の境を縁じぬ、但根に随う可し、相濫ずる失無しを以て。」(『論』第五・十六左)
 この後の境(認識対象)に随って、六識の名を立てたのは。五色根が未自在位という位によって説いたのである。もし自在を得たときには、諸根互用するので、一根が識を発して一切の境を縁じることになる。
 随境得名はただ未自在位のみに限る。無漏の五識現在前する自在位にあっては五根が互有するから五識が自根に依って遍く五境を認識する、例えば眼識が眼根によって色境を縁ずるのみならず、余の四境をも縁ずることになり、自在位あって随境得名するならば、一識を色識乃至身識と名づけ五種の区別がなくなってしまうのである。そうなると境に随って名をたてると相濫ずることになる。六識の名はただ根に随うべきである。根に随って名を立てるならば、相濫ずる過失はないのである。)
 随境得名は未自在位のみに限って名をたてられたのであり、自在位では問題が起こることを示唆しています。「諸根互有」という問題です。
 諸根互有 - 諸根が互いに他の作用をもすること。眼根乃至身根が転依することに於て、その働きが自在となり、ある一つの感官、例えば眼根が色だけではなく、声・香・味・触をも感覚できるようになることをいう。
 自在位では問題ないが、自在位では、各識がそれぞれ五境の一切を認識することになり混乱がおこることになる。眼識が耳識とも乃至身識とも名づけ得ることになる、ということを指摘しています。
 従って、六識の名は未自在位・自在位に通じて五義を具する随根得名によって名づけられるべきであると結論づけているのです。
「六識というものを立てるについて、識というものは所依の根と所縁の境とをもったものであるが、その点から六識は一面は根により、一面は境によるから、六識の名は根による場合と、境による場合の二つが可能である。眼識乃至意識は根により、色識乃至法識は境による。根による場合に五義を具するということを理由にあげた。根は、増上なる作用である。眼根は見ること、意根は思量することである。そういう作用が六識というものを起こすのに増上なる力をもつ。五義を具することで増上なる力をあらわす。眼識というのは眼に依る識である。「依る」という中に、総じては「依る」であるが、その依ることの中に、発・属・助・如という義がある。これらの五義ということによって増上なる機能をあらわす。そういうところから根によって名を立てる。六識の名を立てるについては、随根立名と随境立名ということがあって、五義を具するのは随根立名である。五義を具することによって根の意義を明らかにする。全く六識は六根によって起こされたものであるから、六根と一つである。ところが、境によって名を立てる方は、「識の義に順ずるが故に」といわれる。そうすると実はこの方がむしろ、識の独自の意義をあらわしていると考えられる。識は了別である。了別が作用であり、識自体をあらわしている。了別作用が識作用である。境によって名を立てるのは、識の識たる所以をあらわす。識そのものの本質的な意義をあらわしている。根は識の前提である。根によって了別するというが、根はむしろ識の前提であり、識そのものは境の了別作用である。根を前提とする識そのものの識たる所以をあらわすのは、むしろ境である。了別が識法といわれるものの法相である。識の了別という意義を、境において立てられた名はあらわすわけである。」(『安田理深選集』第三巻p234~235)
 『倶舎論』 分別界品第一 第四十四頌を見ますと、
 「随根変識異 故眼等名依 彼及不共因 故随根説識」(「根変に随って識異る、故に眼等を依と名く。彼と及び不共因との故に、根に随って識を説く。」)
 識の依りどころは、境ではなく、根であること。識をその根の名で呼び、その境の名では呼ばない、ことを説明しています。根を所依とするということの理由を明らかにしているのです。
 説一切有部は五位七十五法の法体系を説きます。あらゆる事象を七十五種の実体に分け、それを五つに分類しているのです、この分類法が『倶舎論』に説かれています。
 概略しますと、
• (1) 色法(十一)、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官と、その対象である色・声・香・味・触の対境、および表示できない実体である無表色の十一種。(「色とは唯だ五根と五境       及び無表となり。」)
• (2) 心法、心の働きの主体で、心王という。(「識は謂く各了別す、此れを即ち意処と、及び七界と名づく。応に知るべし、六識転ずるを意となす。」)
• (3) 心所有法(略して心所という。四十六)。これが大地法(十)・大善地法(十)・大煩悩地法(六)・大不善地法(二)・小煩悩地法(十)・不定地法(八)に分けられて      います。大とは、どの心王にも必ず遍く倶生するということ、小は常に倶生するとは限らないという意味です。地とは所依をあらわします。心王です。心王を地と名付づ      けているのです。大地であるところの心王が所有する法が心所といわれる所以です。
• (4) 心不相応法(色法でも、心・心所でもない存在のありかた。)で、十四種数えられる。)
• (5) 無為法(生滅の変化がなく、はたらきを起こすものがないもので、三種あり。)
 説一切有部によると、実体としての個人というものは存在しない。真に存在するものは、個人を構成しているもろもろのダルマdharmaと呼ばれる要素―その大部分は心理現象である―だけである。個人pudgalaというものは、もろもろのダルマによって仮に構成されている虚構にすぎない。その構成要素は七十五種あり、それは大きく二つに区別される。その一は、つくり出されるもの(有為法)、その二は、つくりだされないもの(無為法)。
(一) 有為法 - 創りだされるものとは、変化するものとなって現われ出る諸要素のこと。
1.色法 - 物質的なもの。場所を占有して他のものを入らせない性質を持っている。
   ①眼根 - 視覚器官
   ②耳根 - 聴覚
   ③鼻根 - 嗅覚
   ④舌根 - 味覚
   ⑤身根 - 触覚。触覚は身体全体にわたって存在するので、身体による器官とする。
   ⑥色境 - いろかたち、眼に対応するもの
   ⑦声境 - 音声、聴覚に対応するもの
   ⑧香境 - 香り、嗅覚に対応するもの
   ⑨味境 - 味、味覚に対応するもの
   ⑩触境 - 触れられるもの、触角に対応するもの
   ⑪無表色 - 表示されることのない物質、感覚器官では知覚されない特殊な物質。善悪の行為が心に潜在的影響を残し、未来に報いを生ずる、そのための媒体となるもの。
2.心法 - 人間の精神作用の中心となる機能。心・意・識は、同一の機能を指す。
3.心所有法 - 心作用。心と結びついている精神作用。心理現象のこと。これらは心と結びついてはいるが、心とは別のダルマであり、それぞれの精神作用が個人を構成する独立     の要素となっている。個々の精神作用は心の属性でもないし、また、心の現象でもない。 
 ①大地法 - あまねくゆきわたる心作用、意識のいかなる瞬間にも現存するはたらき。
  (1)受 - 感受の働き。快感・不快感・快でも不快でもないの三種。
  (2)想 - 表象作用。対象の特殊な特徴を把握すること。
  (3)思 - 意志作用。心を起動させる働き。
  (4)触 - 接触作用。感官と対象と心の三つが合すること。根境識の和合。
  (5)欲 -欲望の働き。行為主体が何ものかを欲すること。
  (6)慧 - 知慧。もろもろのダルマを区別して知る知恵。これがやがて解脱をもたらす。
  (7)念 - 記憶。ぼうっとしないではっきり思い続けること。
  (8)作意 - 注意。気をつけること。
  (9)勝解 ー 明確に認めること。対象を確認すること。
  (10)三摩地 ー 精神統一。心の統一作用で、精神を一点に集中し続けること。三昧。
 ②大善地法 ー 心が善である場合に常に現存する心作用。
  (1)信 - 心の澄みきって喜びに充ちている状態。教えを説かれたままに認めること。仏教では、信仰が最も重要なものではなくて、信はさとりを得るための入り口なのであ         る。
  (2)勤 ー 勇気。努め励み、善の行為をなすための勇気。
  (3)捨 - 心の平静。心が落ち着いて乱されないこと。
  (4)慚 ー 慚じること。自ら自分を省みて恥じること。
  (5)愧 ー 愧じること。他人の悪行をみて、嫌悪を感じて愧じること。
  (6)無貪 ー 貪りのないこと。
  (7)無瞋 ー 怒らないこと。怒り、憎しみのないこと。
  (8)不害 ー 不傷害。他人を傷つけ、悩まさないこと。
  (9)軽安 ー 軽やかさ。心が軽やかで快適なこと。
  (10)不放逸 - 不怠惰。怠けないで、善い性質を体得しようと努めること。
 ③大煩悩地法 - あまねく煩悩にゆきわたる心作用。煩悩が起こったとき常に現存する心作用。
  (1)無明 - 無知、迷い。知慧の反対、すなわち、迷いの生存の根源。
  (2)放逸 - 怠惰。なおざり。善の実行を怠けること。不怠惰の反対。
  (3)懈怠 - 勇み立たぬこと。勇気のないこと。勇気の反対。
  (4)不信 - 心のにごり汚れていること。信の反対。
  (5) 小沈 - 身心の物憂いこと。善を行なうのに軽やかでないこと。
  (6)掉挙 ー 心が浮つくこと。心が静まらないで軽躁であること。
 ④大不善地法 - 悪心にあまねく存する心作用。善の反対の悪、悪心が起こったときに常に存する心作用。
  (1)無慚 - 慚じないこと。慚じることの反対。
  (2)無愧 - 愧じないこと。愧じることの反対。
 ⑤小煩悩地法 ー 付随的な煩悩にともなって起る心作用。これらの心作用は、悪心および有覆無記心ウブクムキシン(善でも悪でもないが、煩悩に覆われている心)に結びついて起り、そ          れぞれ別々に現われる。
  (1)忿 - いかり。心に憤りを起こすこと。
  (2)覆 - みずからの罪を隠すこと。
  (3)慳 - ものおしみ。他人に教えを授けるのを惜しみ、財を与えることを惜しみ、など。
  (4)嫉 - ねたみ。嫉妬。他人の幸運、繁栄を喜ばないこと。
  (5)悩 - かくたくなに悪事に固執すること。他人の道理にかなった諫言を容れられない。悪事に執着して心身をを悩ます。
  (6)害 - 害すること。この心作用が起ると、他人を殴打し罵ったりする。
  (7)恨 - 恨み。忿りの対象となることを思い起こして怨みを結ぶ。
  (8)誑 - 欺く。だます。
  (9)諂 - 心が曲がっていて、自分をあるがままに顕わさず、偽り、つくろったり、手段を弄したりして、誤魔化すこと。
  (10) 鉦 - 驕り高ぶること。
 ⑥不定地法 - いずれの心作用とも結合しうる心作用。
   (1)悪作 - 後悔。後で後悔すること。
   (2)睡眠 - 放心させる働き。心をぼおっとさせる働き。
   (3)尋 - 粗雑な思考作用。
   (4)伺 - 微細な思考作用。
   (5)貪 - 快適なものを貪り愛すること。
   (6)瞋 - 嫌悪。不快なものを嫌う。他のものを恨み嫌う。
   (7)慢 - 慢心。自分が高く構えて、自分が他人より優れていると思いなすこと。
   (8)疑 - 疑い。疑うということは、善い場合も悪い場合もある。だから不定。
4.心不相応行法 ー 心と結びつかない要素。物質でもなく、心作用でもない原理(ダルマ)。
   ①得 - もろもろのダルマを身に得させるダルマ。人が修養をして心を清め澄ませるというような善い性質を身に体得する場合には、この得させるという原理が働くと言うの        である。
   ②非得 ー 前述と反対。もろもろのダルマを身から離れさせるダルマ。人が善い性質を体得しない時は、この得させないという原理が働いているとする。
   ③同分 - 生きものの同類性。犬なら犬が、同類の生物として生まれ育つのは、そこに、生きものの同類性という原理が働くからと考える。
   ④無想果 - 外道のニルヴァーナ。無想天という境地に生まれること。
   ⑤無想定 - 外道の瞑想法。外道が無想果を得るための瞑想。そこにおいては、心も心の働きも全くなくなる。
   ⑥滅尽定 - 聖者がしばらく休息するために入る無心の精神統一(禅定)。個々では心や心の働きを全く滅し尽くしている。
   ⑦命根 - 生命原理。寿命。生きものがいきているかぎり、そこに生命原理が働いている。それは、体温と意識作用のよりどころとなっている。
   ⑧生 - ⑧から⑪までは、四有為相。生は、ものを生ぜしめる原理。
   ⑨住 - ものをとどまらせる原理。
   ⑩異 -ものを変化させ、衰えさせる原理。
   ⑪滅 - ものを滅びさせる原理。
   ⑫名身 - 以下三つは、言語表現の要素。名身は、名称の集合。概念自体。
   ⑬句身 ー 文章の集合。命題自体。
   ⑭文身 - 音節の集合。字母自体。
(二)無為法 - 創られたものではない原理。変化することのない原理。
   ①虚空無為 - 場所一般。もろもろのダルマが現われるためには、それらに妨げを与えない場所の存在が前提される。
   ②択滅無為 - 正智の明確に知る力による消滅。われわれが正智に達すると、その明確に知る力(簡択力ケンチャクリョク)によって、ひとつひとつのダルマの本性を知ると、その「知            る」働きの不思議な力により、個々のダルマが起らなくなる。そうしてすべてのダルマが消滅すると、やがてニルヴァーナに達する。
   ③非択滅無為 ー 明確に知る力によるのではない消滅。あらゆるものごとは因縁によって生ずるのであるが、生ぜしめる縁が欠けると、もろもろのダルマも生じないで滅びて            しまう。この消滅そのものを実体視して、こう呼んでいるのである。それは明確に知る力によって消滅するのではないから、「非択滅」とよぶ。簡単にいえ            ば、ものや現象がひとりでになくなることである。(「にほんブログ村 仏教」よりシェアーしました。)

 『倶舎論』における心王・心所論は、心王は総相を、心所は別相を取ると云っています。境の相を取ると。六識の所依は六根、その所縁は六境をもって一切の心所法を立てています。つまり、六根・六境・六識を以て十八界と云い、六根・六境を以て十二処と云う。五蘊・十二処・十八界が有部が立てた人間観になります。

 五蘊に関係するということでは、一昨日のブログで述べていますが、「受は随触を領納す」と。随順する触を説明しています。受は境を領納するのではなく、触を領納するのである、と。これを領納随触と云う。「想は像を取るを体と為す」、想蘊は心の中に、いろいろな相状(想い考える)を造り出す。そして、色・受・想・識を除いたのを行蘊というのだ、と。行は遍行でいうところの思にあたるわけです。

 『論』に説かれます小乗を破す段はやはり『倶舎論』を学んでおかなければならないと思います。この『倶舎論』に説かれます、五位七十五法に対し、この有部の教説を破斥して大乗では五位百法が説かれます。大きく異なるのは有部は心王は一の識しか認めていませんが、唯識は八識別体の並起を承認しているところです。
 根に変化が起こる(五根が衰えて変化すること)と識にも変化が起こる。しかし、色等の境が変化を起こしても、(能縁の)識に変化は現れない、よって、識は根に随って、眼等の根を所依と名ける。
 ① その所依に随って眼識等という。
 ② 不共因に依る。眼等の根は他と共通ではない因を共にしない、眼根は眼識の所依であり、耳根は耳識の所依である等々。
 この『倶舎論』の説明は、後に唯識にも引き継がれ、「三十頌」第三能変に於いて、随根得名・随境得名の理由が示され、共相・不共相を以て、識の所依は根であることから、随根得名を以て眼識乃至意識と名けると述べています。
 第一句は、眼は身より下ではない(同又は上である)。
 第二句は、色と識とを眼根に対するに、等または下とであって、上ではない。これは、眼根が下地であれば、上地の色を見ることは出来ない、それと上地の識は下地の眼根には依ら      ないからである、と。
 第三句は、色は識に対して一切(同・上・下)に通ずる。
 第四句は、「二を」(色と識)身に対するに、これも同じく一切に通ずる。
 第五句は、耳根も眼根と同じである。
 第六句は、「次の三」(鼻・舌・身)の三根は、根・境・識いずれも同地である。
 第七句は、第六句をうけて、同地ではあるけれども、異なっていることもあることを明らかにしています。身と触とは同地であるが、識を触と身とに対すると、同地または下地であ      +る。上三静慮に生じた場合を下地とする。
 第八句は、意根は四事不定である。種々に変化する。同の場合もあるが、種々に変化しているものである、と。
根は増上の義であることを述べています。樹木は根を張りますね、根は樹木を生長さす作用をもっています、それを根と名づくといわれているのです。
 「伝説五於四 四根於二種 五八染浄中 各別為増上」(第一頌)(伝説すらく、五は四に於いてし、四根は二種に於いてし、五と八とは染と浄との中に、各別に増上と為す。)
 染は雑染の略。浄は清浄の略。「染と浄との中」とは、煩悩に雑染されている法と、そうではない清浄の法、ということになります。
 この科段は二十二根について説明されているところですが、八は、信等五根と三無漏根とを合わせて八といわれています。二十二根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六内根、女・男の二根、命根、憂・喜・苦・楽・捨の五受根、信・勤・念・定・慧の五作根、及び未知当知・已知・具知の三無漏根を指しますが、すべて根と呼ばれて、根の意義を見出そうとしています。そして、「増上」こそが根の意義であると述べているのです。
 先ず始めに、「伝説」という言葉が置かれていますが、これは有部の説を挙げて不信を表す為に置かれているといわれています。第一句の「伝説五於四」は、眼等の五根は四事に於いて(四つの点)で、増上を為す、と。一に身を荘厳する、二に身を導養する、三に識等を生ぜしめる、四に不共事を為す。第二句の「四根」は、「男女二根及び命根意根の四」ですが、これが二事に於いて増上を為す、と。二の増上とは、一に有情異、二に分別異をいいます。有情異とは、此の二根において男女の類別が出来る。分別異とは、形相、言音、乳房などが全く異なる。命根の二は、同分をよく続け、よく保たたしめる。意根の二とは、よく後有を続け、及び諸法に対し自在に行ずる。第三句の「染と浄との中」とは、楽等の五受根と信等の八根とは、染と浄との間に於いて各別に増上す、と説明されています。

 僕は思うのですが、根・境・識の三和合において、境に触れしめる作用が、触の心所ですね。触の心所は、根によ依るころが大きいわけですが、根も種子の中に摂められるものですね。種子が現行を生ずるところに、三和合が結実しているわけです。現行が受を生み、想・思の所依となる。心所法は殆どが行蘊に摂められていますから、思の働きが大きく作用していることがみてとれます。

初能変 第三 心所相応門(8) 触の心所 (7)

2015-09-02 23:41:56 | 初能変 第三 心所相応門

 道のり
   

 一切の心・心所を和合して境に触れしめる、これが触の自性になります。他に対しては触は受・想・思の所依(根拠)になるのです。ここで、教証が挙げられてくるわけです。
「受・想・行の蘊は一切皆触を以て縁と為すが故に」と。
 触・作意・受・想・思は五遍行、識が起これば必ず備わってくる心所です。
 『倶舎論』では、受・想・行の三蘊を以て心所法(四十六)を表し、色蘊は色法に摂め、識蘊は心法に摂められたいます。それから心不相応行は行蘊に摂し、無為法の三を合わせ、五位七十五法の体系を網羅しているのです。
 「受は随触を領納す。想は像を取るを体と為す。四の余を行蘊と名く。」(行蘊は色・受・想と後の識を除いたすべてが行蘊と説かれている)
 思を行蘊と名くのは『雑阿含経』に、思は最勝の義であり、行は造作遷流の義、有為法はすべて行であって、諸行と云われているわけです。行はサンスカーラの訳で、サンスカルタとなると有為と訳されるわけです。五蘊全体を表す概念ですね。心所の四十四法と不相応行の十四法との計五十八法が行蘊であると説かれています。遍行の思は、五蘊の場合は行と、一切の心所をあらわすような意味を以て説かれているわけです。行とは思、意志である。五蘊では、識が心王で、受・想・行は心所、心的な存在をあらわす概念ですから、行が思であることは頷けますね。識が動けば、識に付随して具体的な心的感情が動いてくるわけです。それが受・想・思である、受蘊・想蘊・行蘊にあたるわけです。
 色  ―  色法
 受
 想  }  心所法
 行
 識  ―  心法
 三和して変異に分別を起こす、これが触が心心所を引き起こす功能であって、心心所は触を所依として起こってくる、これが触の業だと云われているわけです。
 所依としては、識は二つ、触は三つ、受等は四つと和合して生ずるのである、と。
 識は  ―  根・境を所依とし、
 触は  ―  根・境・識を所依とし、
 受は  ―  根・境・識・触を所依とする。
 このようなことが『起盡経』には説かれているんだ、と。
 「斯に由って故(かれ)識と触と受との等きは、二・三・四和合するに因って而も生ずることを説く。」(『論』第三・初左)と。

初能変 第三 心所相応門(7) 触の心所 (6)

2015-09-01 22:58:54 | 初能変 第三 心所相応門

愛着
  触の心所は。バラバラである、根・境・識を和合させる力をもっているのですね。根・境・識が和合して触が生ずるというわけですが、和合させる心作用を持ったものが触なんです。
 「触は亦能く一切の心心所法を和合して、各別の行相を離散せしめず。同じく一境に趣かしむる是れ触の自性なり。」(『述記』)
 と説明しています。触がなかったならば、心心所はバラバラに離散して和合することがないわけです。触れていることの事実は、そこに根・境・識が和合していることなんですね、それが触の力の作用であると云っているわけです。
 次に「触」の業について説明されます。
 『論』の最初に、「受・想・思の等きが所依なるを業と為す」と述べられていましたが、本科段においては、さらに詳しく説明がされています。
 「既に順じて心所を起こす功能に似る。故に受等が所依たるを業と為す。」(『論』第三・初左)
  「述して曰く。即ち此の触数は既に三和して能く心所を順生する作用有るに似て、即ち能く余の心所法を生起す。故に受等が所依たるを業とす。受等の心所は皆此れに依って生ず。若し生ずる無くんば所依に非ざるが故に。」(『述記』第三末・七左)
 受と想と思は触を依り所として動くのですが、触がなかったなら、受・想・思はでてこないのですね。それほど重要なカギを握っているのが、触なんです。
 横山紘一師は、「触とは物資(感覚器官)と物質(事物)との無機的な出会いから複雑きわまるさまざまな心作用(一切の心所)が生まれる間にかならず生起する橋渡し的な心作用であるといえよう。この点から「受・想・思などの所依(原因)たるを業とmなす」といわれる。とくに受という心所を生ずることに関してみるならば、「根の変異を分別する」ということが重要となる。すなわち、ある対象を苦とうけとめる場合、対象との認識関係に入ったとき感覚器官(根)に生ずる変化をうけとめる触がまず生じ、その触から苦受が生じてくるとかんがえるのである。」と教えてくださっています。
 次に教証が引かれます。
 『起盡経』なんですが、2013年2月の、第三能変・受倶門に少し触れていますので、再録しておきます。作意のことにも触れていますが、予習のつもりで学んでください。
 第三能変においても、心所相応が説かれてきますが、第三ん能変・第六石木は五十一の心所すべてと相応するわけです。五遍行においても、教証が挙げられます。すなわち、「大小乗共許の経典である『雑阿含経』を引用して証明の論拠としています。
 「触等は、四つ(触・受・想・思)とも、遍行である」と証明しています。根・境・識三和合して触がある。そして触と倶生して、受と想と思とがある、と。『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。「触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する」、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立する、と。
 「若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや」(『述記』) 
 後半の作意が遍行であるということを証明するにあたり、このような問いが投げかけられているのです。
 「又、契経に説かく。若し根壊せず、境界現前するときは、作意正く起こって、方に能く識を生ずという」(『論』第五・二十七右)
 「契経に説かく」という経は中阿含経第七を指しています。『述記』によりますと、中阿含経所収の『像跡喩経』に、「若し、根が壊れず、境界が現れる時は、作意が正しく起こって、よく識が生ずる」という、ことが記述されてあり、作意は、識が生ずる時に必ず存在する心所である、このことによって、作意は遍行であることが証明されると述べています。
 その二の証明は『起盡経』を引用して作意が遍行であることの証明をする。
 「余の経に復言わく、若し此れが於に作意するときに、即ち此れが於に了別す。若し此れが於に了別するときに、即ち此れが於に作意す、是の故に此の二は恒に共に和合す。乃至広く説けり。此れに由って作意も亦是れ遍行なり」(『論』第五・二十七二右)
 また他の経にも、説かれている。「もし、此れ(認識対象を指す)に対し、作意する時には、認識対象に対して了別する。もし認識対象に対して、了別する時には、認識対象に対して作意する。この故に此の了別と作意は恒に共に和合する」そしてこのことは広く説かれている。此の理由に由って作意も遍行であるということがわかる。
 「経にまた説くが故に、起尽経なり。前の第三巻、第八の遍行のうちに引くがごとし。顕揚論巻第一にも経を引いて、つねに共に和合す等といえり。および(瑜伽論)五十五にもまた四の無色の蘊は恒に和合す等といえり。即ち諸の経論は相乖返せず。相離せず相応するが故に和合と名づく。故に知る。(作意もまた遍行なり)ということを」(『述記』)
 『瑜伽論』五十五には、識が生ずる時、どのような遍行とともに起こるのか、という問いに答えて、それは作意・触・受・想・思である、と。そして不遍行の心法は(多種あるけれども、勝れたものとして)欲・勝解・念・三摩地(定)・慧の五である。
 作意(さい)とは能く心を引発する法であり、所縁に於いて心を引くを本質としている。私の関心事に心が引かれるのですね。いろんなことに触れるわけですが、私の認識は私が興味のあること、関心のあることにしか心が引かれません。触れたものすべてに心が引かれるとはいえません。作意が働くところに、同時に自我意識である末那識が働いているのです。作意と触の関係は触があって作意が働くのか、作意が先で触が機能するのかは難しい問題を残していますが、『瑜伽論』五十五では作意が先に説かれています。
 『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立すると云うことになります。三和合の一つの形の三面ということになりましょうか。
 ここでは経を引用して作意が遍行であるという証明をしているのです。先にも述べましたが、私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になり、遍行であるということがわかるのです。
 教を結ぶ
 「此れ等の聖教の誠証一に非ざるなり」(『論』第五・二十七右)
 五遍行であることの教証は一つではない。多数ある、と述べて結論をだしています。
 「論。又契經説至方能生識 述曰。即象跡喩經。 
 論。餘經復説至亦是遍行 述曰。經復説故。起盡經也。如前第三卷第八遍行中引。合顯揚引經云恒共和合等。及五十五亦云四無色蘊恒和合等。即諸經論不相乖返。不相離相應故名和合。故知作意亦是遍行。亦前四也。 
 論。此等聖教誠證非一 述曰。大論第三解。根不壞境現前等。五十五亦言。五遍行心所。遍一切心生。第三亦爾。五蘊・百法皆是説故。即是誠證非一。五十五所引是經。餘是論故。此即教證。」(『述記』第六本上・二右。大正43・428a)
 (「述して曰く。即ち象跡喩経なり。経に復た説かが故に。起盡経なり。前の第三巻の第八の遍行の中に引くが如し。顕揚にも経を引いて云く、恒に共に和合す等、及び五十五に亦云く、四の無色蘊は恒に和合する等、即ち諸経論に相い乖返(かいへん)せず、相い離れずして相応するが故に、和合と名づく、故に知る、作意も亦是れ遍行なりと云うこと前の四に亦するなり。大論の第三に解く。根壊せずして境現前す等と、五十五に亦言く、五の遍行の心所は一切の心に遍じて生ず。再三にも亦爾なり。五蘊は百法にも皆是れ説くが故に、即ち是れ誠証非一なり。五十五に引ける所は是れ経なり、余は是れ論なるが故に。此れは即ち教証なり。」)
 乖返 - 論理的に矛盾していること。両立しないこと。乖反(かいはん)ともいう。

 「起盡経に受・想・行の蘊は一切皆触を以て縁とすと説けるが故に。」(『論』第三・初左)
 『起盡経』とは、生滅を明らかにする経という意味だと云われています。例えば、眼(根)と色
(境)とを縁として(眼根と色境が和合して)眼識が生起する、と。次科段で説明されます。本科段では、すべての心所は触を以て所依とするんだ、と云っているわけです。