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触の心所は。バラバラである、根・境・識を和合させる力をもっているのですね。根・境・識が和合して触が生ずるというわけですが、和合させる心作用を持ったものが触なんです。
「触は亦能く一切の心心所法を和合して、各別の行相を離散せしめず。同じく一境に趣かしむる是れ触の自性なり。」(『述記』)
と説明しています。触がなかったならば、心心所はバラバラに離散して和合することがないわけです。触れていることの事実は、そこに根・境・識が和合していることなんですね、それが触の力の作用であると云っているわけです。
次に「触」の業について説明されます。
『論』の最初に、「受・想・思の等きが所依なるを業と為す」と述べられていましたが、本科段においては、さらに詳しく説明がされています。
「既に順じて心所を起こす功能に似る。故に受等が所依たるを業と為す。」(『論』第三・初左)
「述して曰く。即ち此の触数は既に三和して能く心所を順生する作用有るに似て、即ち能く余の心所法を生起す。故に受等が所依たるを業とす。受等の心所は皆此れに依って生ず。若し生ずる無くんば所依に非ざるが故に。」(『述記』第三末・七左)
受と想と思は触を依り所として動くのですが、触がなかったなら、受・想・思はでてこないのですね。それほど重要なカギを握っているのが、触なんです。
横山紘一師は、「触とは物資(感覚器官)と物質(事物)との無機的な出会いから複雑きわまるさまざまな心作用(一切の心所)が生まれる間にかならず生起する橋渡し的な心作用であるといえよう。この点から「受・想・思などの所依(原因)たるを業とmなす」といわれる。とくに受という心所を生ずることに関してみるならば、「根の変異を分別する」ということが重要となる。すなわち、ある対象を苦とうけとめる場合、対象との認識関係に入ったとき感覚器官(根)に生ずる変化をうけとめる触がまず生じ、その触から苦受が生じてくるとかんがえるのである。」と教えてくださっています。
次に教証が引かれます。
『起盡経』なんですが、2013年2月の、第三能変・受倶門に少し触れていますので、再録しておきます。作意のことにも触れていますが、予習のつもりで学んでください。
第三能変においても、心所相応が説かれてきますが、第三ん能変・第六石木は五十一の心所すべてと相応するわけです。五遍行においても、教証が挙げられます。すなわち、「大小乗共許の経典である『雑阿含経』を引用して証明の論拠としています。
「触等は、四つ(触・受・想・思)とも、遍行である」と証明しています。根・境・識三和合して触がある。そして触と倶生して、受と想と思とがある、と。『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。「触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する」、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立する、と。
「若し爾らば、何の義の故に、作意も必ず有りと知るや」(『述記』)
後半の作意が遍行であるということを証明するにあたり、このような問いが投げかけられているのです。
「又、契経に説かく。若し根壊せず、境界現前するときは、作意正く起こって、方に能く識を生ずという」(『論』第五・二十七右)
「契経に説かく」という経は中阿含経第七を指しています。『述記』によりますと、中阿含経所収の『像跡喩経』に、「若し、根が壊れず、境界が現れる時は、作意が正しく起こって、よく識が生ずる」という、ことが記述されてあり、作意は、識が生ずる時に必ず存在する心所である、このことによって、作意は遍行であることが証明されると述べています。
その二の証明は『起盡経』を引用して作意が遍行であることの証明をする。
「余の経に復言わく、若し此れが於に作意するときに、即ち此れが於に了別す。若し此れが於に了別するときに、即ち此れが於に作意す、是の故に此の二は恒に共に和合す。乃至広く説けり。此れに由って作意も亦是れ遍行なり」(『論』第五・二十七二右)
また他の経にも、説かれている。「もし、此れ(認識対象を指す)に対し、作意する時には、認識対象に対して了別する。もし認識対象に対して、了別する時には、認識対象に対して作意する。この故に此の了別と作意は恒に共に和合する」そしてこのことは広く説かれている。此の理由に由って作意も遍行であるということがわかる。
「経にまた説くが故に、起尽経なり。前の第三巻、第八の遍行のうちに引くがごとし。顕揚論巻第一にも経を引いて、つねに共に和合す等といえり。および(瑜伽論)五十五にもまた四の無色の蘊は恒に和合す等といえり。即ち諸の経論は相乖返せず。相離せず相応するが故に和合と名づく。故に知る。(作意もまた遍行なり)ということを」(『述記』)
『瑜伽論』五十五には、識が生ずる時、どのような遍行とともに起こるのか、という問いに答えて、それは作意・触・受・想・思である、と。そして不遍行の心法は(多種あるけれども、勝れたものとして)欲・勝解・念・三摩地(定)・慧の五である。
作意(さい)とは能く心を引発する法であり、所縁に於いて心を引くを本質としている。私の関心事に心が引かれるのですね。いろんなことに触れるわけですが、私の認識は私が興味のあること、関心のあることにしか心が引かれません。触れたものすべてに心が引かれるとはいえません。作意が働くところに、同時に自我意識である末那識が働いているのです。作意と触の関係は触があって作意が働くのか、作意が先で触が機能するのかは難しい問題を残していますが、『瑜伽論』五十五では作意が先に説かれています。
『論』では作意を後に説いて触・受・想・思を前に説いているのは、この四つは三和合と関係しているので、まとめて述べているのです。触は三和合するが故に能く摂受する。受は三和合するが故に能く領納する。想は三和合するが故に名想言説を施設し、所縁を仮合して取る。思は三和合するが故に心をして造作せしめ、所縁の境に於いて随趣し希楽(けぎょう)する、と説かれています。要するに根・境・識が和合するところに認識が成立すると云うことになります。三和合の一つの形の三面ということになりましょうか。
ここでは経を引用して作意が遍行であるという証明をしているのです。先にも述べましたが、私の認識する対象は多様なわけです。その中から瞬時に何を了別するかを選択しているのですね。それが作意になります。作意を働かしている原動力が第七末那識という自我意識です。ですから作意は自我意識の赴くままに自己関心事や興味のあることに、心を働かせるのです。警覚(きょうかく)の作用といわれます。心の働く時には必ず作意の心法は働いていると云う事になり、遍行であるということがわかるのです。
教を結ぶ
「此れ等の聖教の誠証一に非ざるなり」(『論』第五・二十七右)
五遍行であることの教証は一つではない。多数ある、と述べて結論をだしています。
「論。又契經説至方能生識 述曰。即象跡喩經。
論。餘經復説至亦是遍行 述曰。經復説故。起盡經也。如前第三卷第八遍行中引。合顯揚引經云恒共和合等。及五十五亦云四無色蘊恒和合等。即諸經論不相乖返。不相離相應故名和合。故知作意亦是遍行。亦前四也。
論。此等聖教誠證非一 述曰。大論第三解。根不壞境現前等。五十五亦言。五遍行心所。遍一切心生。第三亦爾。五蘊・百法皆是説故。即是誠證非一。五十五所引是經。餘是論故。此即教證。」(『述記』第六本上・二右。大正43・428a)
(「述して曰く。即ち象跡喩経なり。経に復た説かが故に。起盡経なり。前の第三巻の第八の遍行の中に引くが如し。顕揚にも経を引いて云く、恒に共に和合す等、及び五十五に亦云く、四の無色蘊は恒に和合する等、即ち諸経論に相い乖返(かいへん)せず、相い離れずして相応するが故に、和合と名づく、故に知る、作意も亦是れ遍行なりと云うこと前の四に亦するなり。大論の第三に解く。根壊せずして境現前す等と、五十五に亦言く、五の遍行の心所は一切の心に遍じて生ず。再三にも亦爾なり。五蘊は百法にも皆是れ説くが故に、即ち是れ誠証非一なり。五十五に引ける所は是れ経なり、余は是れ論なるが故に。此れは即ち教証なり。」)
乖返 - 論理的に矛盾していること。両立しないこと。乖反(かいはん)ともいう。
「起盡経に受・想・行の蘊は一切皆触を以て縁とすと説けるが故に。」(『論』第三・初左)
『起盡経』とは、生滅を明らかにする経という意味だと云われています。例えば、眼(根)と色(境)とを縁として(眼根と色境が和合して)眼識が生起する、と。次科段で説明されます。本科段では、すべての心所は触を以て所依とするんだ、と云っているわけです。
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