唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (46) 五受相応門 (10)

2014-08-24 20:10:40 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 第三に、疑と三見とを明かす。(疑と邪見・見取見・戒禁取見と四受との相応について)

 五受の苦受を除く四つの受と相応することを明かす。

 「疑と後の三の見とは、四の受と倶なる容し、欲にて苦等はは無からんかと疑うときに、亦喜受と倶なるが故に。」『論』第六・十八左)

 疑と後の三見とは、苦受を除く四つの受と倶である。欲界の疑は先に悪行を作し、苦集諦無きかと疑うときは喜受と倶である。
 つまり、疑と喜受が苦であるのは、欲界に於て悪行を作りながらも、苦諦・集諦は無いであろうと疑う時には、また喜受と相応するのである、と。

 五受相応を述べながら、何故苦受を除いた四受と相応するのかという問題ですが、これは先にも論じられましたように、極苦処には苦受は存在しないという理由からなのです。即ち、極苦処には分別起の惑は存在しないが、疑・邪見・見取見・戒禁取見は分別起の惑(煩悩)であるので、疑と三つの見には苦受は存在しないと説かれている。
 しかし、極苦処である地獄よりも逼迫が軽い人・天界には苦受は存在しないが、四つの受は存在するのである。ここまでが、本科段の第一の解釈になります。

 「論。疑後三見至亦喜受倶故 述曰。第三明疑・三見。三見謂見・戒取・邪見。四受除苦。隨意有無。唯是正義。以地獄無分別惑故。」(『述記』第六末・四十左。大正43・451c~452a)

 (「述して曰く。第三に疑と三見とを明かす。三見とは謂く見と戒取と邪見なり。四受は苦を除くなり。意に随って有無なり(第六意識の分別惑は余処には有り、極苦処には無し)。唯是れ正義なり。地獄には分別の惑無きを以ての故に。」)

 次に後半の文章です。

 「欲にて苦等はは無からんかと疑うときに、亦喜受と倶なるが故に。」

 『述記』の釈をみますと、

 「逐難解云。欲界之疑先作惡行。疑無苦・集諦等。亦喜受倶故。以後苦無故。上界即無。無惡行果故。上界疑與樂受倶故。此等皆通三界總聚。有處作法故。致極成之言。」

 (「難を逐って解して云く。欲界の疑は先に悪行を作して苦集諦等なからんと疑うとき、亦喜受と倶なるが故に、後に苦無きを以ての故に、上界には即ち無し(苦なからんかと疑うとき方に喜と倶なるものは無し)。悪行の果無き故に。上界の疑は楽受と倶なるが故に。これ等は皆三界に通じて總聚を以て有る処に作法するが如し。極成の言を致す。」)

 『演秘』の釈。

 「 論。欲無苦等者。有義簡薩婆多欲疑唯憂。故顯宗二十七云。何縁二疑倶不決定而上得與喜・樂相應。非欲界疑與喜倶起。以諸煩惱在離欲地。雖不決定亦不憂滅。雖壞疑網無癡情怡。如在人間求得所愛。雖多勞倦而生樂想。疏説上界不如欲疑有喜受者。慼欲似不得此中文意。上地何故不與喜倶 詳曰。疏意説云疑無苦果方與喜倶。上無此疑。由上無造彼惡行故。故疑苦無方喜倶者。但在欲界不障上界疑得喜倶。下麁相中疏言上界疑有喜故。自義既立他計便遮。不言成矣。此自不得疏之本意。非疏不得論之意也。」(『演秘』第五末・九右。大正43・922a~b)

 (「論に、欲にして苦等は無からんかとは、有義は薩多婆(有部)の欲の疑は唯憂なりというを簡ぶが故に顕宗二十七(『顕宗論』巻二十七。大正29・908c)に、何に縁りてか二の疑(上界の疑と欲界の疑)は倶に決定せざるに、
 上は喜・楽と相応することを得ば、欲界の疑は喜と倶起するに非ずや。
 諸の煩悩は離欲地(離垢地。菩薩十地の第二の段階。過ち・破戒・煩悩を増す心を離れた位をいい、 十善道を行じることで心の垢が無くなるとされる)に在っては決定せずと雖も、亦憂慼(ウセキ・憂い)ならず。疑網を懐くと雖も、癡の情に怡(イ・喜ぶこと)すること無し。人間に在って所愛を得と求むるが如しと云えり。労倦(ロウケン・つかれくたびれていること)多しと雖も楽想を生ずと云えり。
 疏に上界には欲の疑の喜受有るが如くにあらずと説くは、欲は、此の中の文の意を得ざるに似たり。上地に何んが故に喜と倶ならざる。
 詳らかに曰く、疏の意の説いて云く、苦果無しと疑うときには方に喜と倶なり。上(上界)は此の疑無し。上は彼の悪行を造すること無きに由るが故に。
 故に苦は無きかと疑するに方に喜と倶なりというは但だ欲界に在り、上界の疑は喜と倶なることを得るということを障えず、下の麤相の中に疏に上界の疑は喜有りと言うが故に。
 自義既に立つるを以て他の計便ち遮すること言わずして成ぜり。此れ自ら疏の本意を得ず、疏は論の意を得ざるに非ざるなり。」)

 後半は、疑と喜受との相応について論じられているところです。疑と喜受はどのようなときに相応するのであるのかという問いに対して、
 「欲界の疑は先に悪行を作して苦集諦等なからんと疑うとき、亦喜受と倶なるが故に」と答えているわけです。
 欲界に於いて、(煩悩によって)悪行を行う(集諦)ことと、その結果としての報くいである苦(苦諦)は無いであろうと疑う時には、また喜受と相応するのである。つまり、苦の報いが無いと疑うので喜受を生ずるということなのですね。

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 う~ん、まさにその通りですね。心当たり大いにあります。いつもこれで苦しんでいます、後悔先に立たず。先が見えん愚かさですね。でもね、欲望の流れの中を逆らえない自分がいますのや。そんな自分の姿を写し出してくれる大悲の働きに手が合わさります。 南無阿弥陀仏

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 『演秘』の所論は、色界・無色界という上界には、悪行を造ることが無いために欲界での出来事して釈されています。但し、上界で疑と喜受が相応しないというわけでもない。
 


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