唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (55) 五受相応門 (19)

2014-09-15 20:13:04 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 本科段より、煩悩と五受が相応する地について説明されます。(「下は倶なる地を明かす。」)

 「貪と癡との楽と倶なることは下の四の地に通ず。余の七が楽と倶なることは欲を除いて三に通ず、疑と独行の癡とは欲にしては唯憂と捨のみなり。」(『論』第六・十九右)

 貪と癡が楽受と相応することは、下の四地(欲界と色界の初禅・第二禅・第三禅)に通じていえることである。
 
他の七つ(慢・疑・五見)の煩悩が楽受と相応することは、欲界を除いて三(初禅・第二禅・第三禅)に通じて言えることである。
 
疑と独行の癡とは欲界では、ただ憂受と捨受とのみ相応するのである。

  •  欲界 - 欲望が渦巻く世界で、有情と器世間から成り立つ(「地獄等の四と、及び六欲天なり、並びに器世間なり、是を欲界と名づく。」)
  •  色界 - 浄妙なる色から成り立つ世界で、四つの天から構成される。初禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天で禅天は静慮とも言われる。さらに四つの天は十七の天から構成される(色界十七天)。
  •  無色界 - 勝れた禅定によって成り立つ、色(物質的なもの)の無い世界で、四つの処から構成される。
  •  独行の癡 - 独行不共無明(ドクギョウフグムミョウ)。貪・瞋などの煩悩と相応せず、第六意識と相応して働く無明をいう。尚、末那識相応の無明を恒行不共無明という。

 貪と癡は楽受と相応するけれども、どの地に相応するのかが問われているわけです。先ず貪・(瞋)・癡は欲界の五識に存在し、欲界の五識は楽受と相応する。何故ならば、五識は思い量ることはない純粋な識であるのです。よって五識そのものは無色透明なのですが、その後ろに第六意識が働いていますので、第六意識の働きによって知覚行動が起って、ものごとを判断していくという構造が成り立っているのです。

 本来ならば、五識には貪・(瞋)・癡ということはないはずなのですが、後に第六意識が働いていますから、その影響を受けて貪・(瞋)・癡という煩悩が働いていくと見ていくわけですね。ですから五識に相応する受は楽受のみである、と。

 そしてですね、第六意識には当然、貪・(瞋)・癡が相応し、第六意識は三界すべてに存在する意識で、色界の初禅と第二禅と第三禅で楽受と相応すると云われますから、五識と相応する貪・癡が楽受と相応すると説かれているのですね。ただ、括弧で示しました瞋は欲界にのみ存在する煩悩ですから言及されていないのです。瞋は唯不善であるということですね。また欲界の第六意識には楽受は存在しないのです。

 色界第四禅は捨受とのみ相応しますから、これも言及されていないのですね。

 他の七つの煩悩は第六意識に存在するわけですが、第六意識は色界初禅と第二禅と第三禅に存在し楽受と相応しますから、当然七つの煩悩は楽受と相応するのです。

 疑は第六意識の分別起のみの煩悩であって、倶生起のものではありませんので、極苦処には存在しないのですね。そして五識にも存在しませんから楽受と苦受とも相応しないことになります。ただ憂受と捨受のみと相応すると説かれているのですね。喜受と相応しないのは、欲界において決定出来ない心がそのまま色界にある時には喜受は生じないと云われます。何故ならば、色界のうちの疑は上の静慮を疑っているからである、と。(『対法』の第七に云く、欲界に於て決定せず。心いまだ息まざれば、喜は生ぜざるが故に。」)

 独行無明は疑と同じく、理を以て説いているのです。

 

 


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