唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (53) 五受相応門 (17)

2014-09-09 22:49:27 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 後は、論書を引いて証拠と為す。

 「論に説かく、倶生の一切の煩悩は、皆三の受に於いて現行することを得可しといい、広く説くこと前の如し。」(『論』第六・十九右)

 論(『瑜伽論』巻第五十九。大正30・627c)に説かれている。倶生の一切の煩悩は、すべて三の受(楽受・苦受・捨受)において現行する、と。「すべて三の受(楽受・苦受・捨受)において現行する」と広く説かれていることは、前(巻第五)の通りである。その他は第一師が説かれていることと同じである。

倶生起の一切の煩悩とは、貪・瞋・癡・慢と悪見の中の薩迦耶見と辺執見は、楽受と苦受と捨受において現行すると説かれている。この『瑜伽論』巻第五十九の所論を以て、倶生起の煩悩は苦受と相応する証拠としています。

 尚、分別起の薩迦耶見と辺執見は、苦受を除いた四受と相応するという主張は、第一師と同じ見解であるということです。

 ただし、護法は地獄の第六意識には分別起の薩迦耶見と辺執見は存在しないが、苦受は存在すると云う立場にありますから、第一師の地獄の第六意識には苦受は存在しないと云う立場とはちょっと違いますね。しかし、共にですね、分別起に於る薩迦耶見と辺執見には苦受は存在しないということでは同様であるわけですね。

 第一師の説

 

 薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は楽受・喜受・捨受と相応する。
 分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。

 

 護法の説(正義)

 

 薩迦耶見と辺執見の倶生起の煩悩は苦受・楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。
 分別起の煩悩は楽受・憂受・喜受・捨受と相応する。

 

 「 論。有義二見至苦相應故 述曰。此第二師。分別二見同前。如地獄等極苦之處。無此身・邊分別見故。倶生二見亦苦受倶。在極苦處縁苦蘊故。」(『述記』第六末・四十二右。大正43・452a)

 

 (「述して曰く。此は第二師なり。分別の二見は前に同じ。地獄等の極苦の処の如き、此の身と辺との分別の見無きが故に。倶生の二見は亦苦受と倶なり。極苦処に在って苦蘊を縁ずるが故に。」)

 

 地獄の第六意識には身(薩迦耶見)と辺(辺執見)との分別起の苦受は存在しない。しかし倶生の二見は苦受と相応する。何故ならば、地獄に在っては苦蘊を縁ずるからである。

 

 分別起という問題は、「生きている間」という生の謳歌について語られていることなのでしょう。しかし、「生きている間」という考え方が落とし穴になっていることに気づきを得ないのが分別起の問題なのでしょうね。それが菩提を障えることになりますね。

 

 薩迦耶見と辺執見によって作り出された世界が地獄と呼ばれていますが、倶生起の煩悩の集まりである苦蘊を縁じて地獄を作りだしている。それに反し、菩薩は苦蘊を縁じて大悲を発起するのですね。生きるということのヒントがここに隠されているように思います。


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