唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (6)

2017-01-19 20:51:27 | 阿頼耶識の存在論証
  

 第一教証は、「界」と「依」でもって、流転と還滅を表しています。
 第二教証に至って、界と依と云われていたのが、阿頼耶識であることが明らかにされます。
 阿頼耶識はどうして知ることが出来るのか、阿頼耶識の具体相は見・相二分なのですが、「不可知の執受と処と了となり」といわれていますように、自性微細(ジショウミサイ)なんですね。ですから、ここでは作用(サユウ)、働きをもって自体をあらわすんだ、と「故に作用を以て之を顕示す」と。顕示は証明すると云うことになりましょうね。
 ここからですね、『大乗阿毘達磨経』に説かれている四句を、初の二句は因縁となる用を顕し、後の二句は依止(エジ)となる用を顕すというように広釈をしています。
 そして初の二句について、「第八識因縁と為る用を顕し」と、因と縁とに分けて説明されるのです。それが「界」(因の義)と依(縁の義)の働きであると精密な解釈がされているのです。
 因の義とは何であるのか、それは種子識であると。第八識は種子識であると。一切の経験を納め取っている蔵である、貯蔵庫であると明らかにしている。逆から見ますと、今の私は、過去の集大成であるということですね。肯定とか否定とかではないんです。事実として有る。種子が花を咲かせている。現在は果相ですね。引き出してきたのが因相です。其の因を種子と押さえているのですね。これが道理になります。
 種子が縁に触れて現行する、種子生現行です。種子が因、(待衆縁)、現行が果、異熟と、法爾自然です。
 種子は本有種子・新熏種子という議論がありました。そこで、本有種子は「本(モト)より性有り。熏するに従(ヨ)りて生ずるものにはあらず。」と。そして「界と云うは即ち種子の差別(シャベツ)の名なるが故に。」或は「無始の時より来た界たり。一切法の等しき依たりと云う。界と云うは是れ因の義なり。」と(『選注』p31・p32)
 本有種子(ホンヌシュウジ)ですが、本来的に備わった無漏種子で本性住種と云われています。阿頼耶識の中にある先天的に有る種子で、備わっているところから、「悉有」です。悉有と云われているところに、超えてあるもの。有漏の阿頼耶識、無漏の阿頼耶識と説明されていましたが、並行するのではなく、有漏の基礎になるようなものとして無漏が云われているのではないのかと思うのです。
 いうなれば、「無始時来界」の無始は超えてあるもの。超えて有るものが形を持った時に染汚される。染汚されたものが種子として蔵されてくる。法爾自然なるものが形を取るところに私有化を生ずるのであろうと思いますね。私有化とは、法の自己限定であって、阿弥陀の自己限定が法蔵菩薩であり、法蔵菩薩が私有化と同体の大悲として流転と還滅の願いとして働いているのが「この身」なのではないのかな。
 「身」と押さえた時には超えている。「この」という時に限定される。「身」が法性であれば、「この」は染汚性でしょう。
 因の義、因とは種子であるというところに、有漏・無漏が語られているように思います。
 身を持つというのが、善悪の業果が「界・趣・生を引く」わけでしょう。生まれたということが善悪業果位なんです。異熟と押さえられます。依他起ですね。縁起です。縁起というところに、染汚性を転ずる機縁が与えられているようですね。
 こういうところに、一切法の因としての種子の意味の深さ、大きさがあるように思います。界とは種子である、と。
 私たちは、世界・世界といいますが、世界は種子が作り出したものなんですね。世界という実体はどこにもない。種子が作り出した所縁なのです。こういうところに、一切諸法の依であると云えるのでしょう。すべては阿頼耶識が顕現した相である、と。

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