唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (5)

2017-01-18 21:27:08 | 阿頼耶識の存在論証
  

 本日より阿頼耶識の存在論証に入ります。何故阿頼耶識の存在を証明しなければならないのかは、論を読むに従って明らかにされます。
 ブログでは2016年12月18日~19日に投稿していますが、再録をします。
 先ず概略を述べます。第八識の異名をあげ、其の位には有漏位と無漏位があることが明らかにされました。
 私たちの意識の上では「受」の心所が大切な役割をもっているのですが、無意識と云われる領域では、受は捨受なのです。苦でもなく楽でもない、不苦不楽受である。此れは有漏位における性質なのです。
 何を意味しているのか、迷いの境涯であっても、命を支えている働きは無覆無記であり、捨受であるということなのです。此れに由って、何時でも、どこでも、どのような境遇であっても、いろいろな条件そのものが御縁となって、本来の自己に戻ることが出来ることを教えているのであろうと思います。
 有漏位の阿頼耶識は何を対象としているのか、阿頼耶識の具体性ですが、すべては阿頼耶識の変現した世界に身を置いているということなのです。それを二の執受(種子と有根身)と処(環境世界)が所縁になります。
 有漏位の性質が無記であるというのは、経験そのものは色付けをされない無記である性質を持って、そこに善・悪の色付けをして一喜一憂しているのが私たちの現実相なのです。
 これではどこまでいっても有漏位からの解放はありませんね。我欲を自らの生活の起点としておりますから、我を離れて、客観的に自らを観察することはまず不可能であると思います。
 「人の批判はするけれど、我が身はどうかと尋ぬれば」、この尋ねるということが大事なことなのです。仏教は尋求(ジング)と押さえていますが、追及する、自らが作り出した世界を外界において批判をしているのですが、批判そのものが自分の心の影像であるということなのです。
 迷いという流転はどのような構造になっているのか、「我が心の影像」が、外界に存在するという見方であり、事実は「唯だ我が心が作り出した世界である」ことを知り得ないということなのです。これを「一切不離識」といっています。
 「すべての現象は識(阿頼耶識のはたらき)に離れてあるものではない、すべては識が作り出した世界である。」
 此れに由って、流転の法が明らかにされるのです。流転は、「識が織りなす現象である」ということなのですね。
 ここに無漏位との関係がみてとれます。無漏位は不可知ですが、有漏の元を尋ぬれば、無漏位という世界に支えられて成り立っていることが教えられます。無漏位が還滅の法になります。
 迷いを超えるということは、どういうことなのか。親鸞聖人は、大菩提心・大般涅槃ということに、(浄土の)信心の内実を明らかにされたのでしょう。
 有漏から無漏へは成り立たないのです。無漏に触れることに於いて超証される世界なのですね。
 学びは我見ではないということなのです。ものを言うには、言い得る根拠がなければなりません、私が勝手に押し付けているのではありませんよ、という論証になります。
 
 「云何が応に知るべし。此の第八識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」(『論』第三・十六右)
 (眼識等の六識以外に、第八識が有るということを)どうして知り得ることができるのか。
 ここに五教証・十理証が挙げられて存在の証明がなされます。
 「聖教と正理とを以て定量と為すが故に。」
 聖教が五教証・正理が十理証。これを以て、決定的な判断の基準(定量)とします。釈尊の教えに違することはありませんと宣言するのです。
 第一教証(選注p56) 『大乗阿毘達磨契経』、三師の説が出されます。
 第二教証(選注p58) 『大乗阿毘達磨契経』
 第三教証(選注p58) 『解深密経』
 第四教証(選注p59) 『入楞伽経』
 第五教証(選注p60) 『余部の経』、大衆部・上座部・化地部・有部。
 十理証は、選注p62~p77に記載されています。ここを以て初能変が閉じられます。
 では第一教証を読んでいきたいと思います。
 先ず教証ですが、五教証の中で、初めの四つは大乗の教証(『大乗阿毘達磨経』から二つ、『解深密経』・『入楞伽経』)と後の一つが小乗の教証になります。
 この教証・理証については無著菩薩が『摂大乗論』のなかで阿頼耶識の存在論証を挙げられています。それを受けて『成唯識論』が五教十理を以て阿頼耶識の存在論証をしているのです。
 六識を離れて末那識・阿頼耶識が有るということを論証しなければならないのですね。
 「離眼等識有別自体」(眼等の識を離れて別の自体有ることを)
 これが護法菩薩のお仕事になります。
 宗前敬叙分にですね、「種々の異執を遮せんが為に、唯識の深妙の理の中に於て、実の如く解を得せ令めんとして此の論を作れり。」の一文に表れています。
 護法の論拠は、用が体で体が有って用くのではなく、表層から深層に向かって八つの重層的構造をもつものとして、八識別体を明らかにされたのです。つまり、三能変は、心が三層をなして、深層から表層に向かって能動的に対象に働きかける面を捉えています。
 第一教証
 「謂く『大乗阿毘達磨契経』の中に説く有り。
 無始の時より来(コノカ)た界(カイ)たり
 一切法に於て等しく依(エ)たり
 此に由って諸趣(ショシュ)と
 及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと。」(『論』第三・十六右)

 六識以外にもう一つ識が有ることが説かれているという論証として引用されています。この文章だけでは、第八阿頼耶識の言葉が見えませんが、この説に対して三人の論者の主張が述べられます。そこではっきりするのです。
 ・阿頼耶識がどこに説かれているのか。
 ・何故阿頼耶識と名づけられるのか。
 読み方なのですが、重層的に読まれているようです。「有」を二度読んでいます。新導本では「有の字を二度読め」と注意書きが記されています。
 「此れが有なることに由って、諸趣と及び涅槃の証得と有り」
 この「此」が第八識を指しています。第八識が有ることによってという意味になります。
 主題は「界」と「依」です。因と縁の問題です。因と縁をはっきりさせるのです。
第一解です。
 「此の第八識は自性微細(ジショウミサイ)なるが故に作用(サユウ)を以て之を顕示(ケンジ)す。」(『論』第三・十六左)
 「頌中(ジュチュウ)の初の半は、第八識因縁と為る用を顕し、後の半は流転と還滅(ルテントゲンメツ)とのために依持(エジ)と作(ナ)る用を顕す。」(『論』第三・十六左)


 ここまでが全体の解釈になります。後半に上二句と下二句の解釈が述べられます。
 分解しますと、
 ・第八識は自性微細である。
 ・作用を以て之を顕示する。
 頌中の初の半は、
 ・「無始の時より来(コノカ)た界(カイ)たり 一切法に於て等しく依(エ)たり」の二句。此れに対して「第八識因縁と為る用を顕す」で相応します。因縁となる働きを顕す。
 後の半は、
 ・「此に由って諸趣(ショシュ)と及び涅槃の証得(ショウトク)と有りと。」の二句で、此れに対して「流転と還滅(ルテントゲンメツ)とのために依持(エジ)と作(ナ)る用を顕す。」ことが相応します。生死流転の根拠と涅槃の根拠が明らかにされます。還滅といいますが、帰るのではないのですね、帰るは自分の足で行くことを表しますが、「還」は行くのではないのです。還るのです。
 善導大師は「(法事讃)また云わく、帰去来、他郷には停まるべからず。仏に従いて、本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願自然に成ず。」(『化身土』本p355)と。
 滅、寂滅です。ここが本国になります。ですから娑婆を他郷と。ですから娑婆から滅度に行くのではないのです。還るんです、滅度に還っていくのですね。この依持と為る作用が第八識であると証明しているのです。
 第八識が因縁となり、此の身を引き受けているのですが、此の身が流転と還滅の依り所となることをはっきりさせたのです。
 次に上二句を釈します。
 ・「界」は因の義、つまり種子識である。
 ・「依」は縁の義、つまり執持識である。
 これ等のことを細かく釈してまいります。
 頌は『摂論』の所知依分第二の一・衆名章第三に、
 「世尊は何れの処にか阿頼耶識を説いて阿頼耶識と名けしや。謂く、薄伽梵は阿毘達磨大乗経の伽陀の中に於て説けり」と。
 ここを背景に成り立っているのですね。そして、無性の釈には、「界とは因なり。即ち種子なり。是れ誰が因種なりや。謂く一切法なり。此れ唯だ雑染のみ、是れ清浄に非ざるが故に。」と。
 界とは因の義である、と。真諦訳では、性の義と。
 『選注』p56を参考に読ませていただきますが、「無始の時より」とは「初際無きが故」である。
 「界と云うは是れ因の義、即ち種子識にして」
   界というのは因という意味だと。原因です。第八識が原因となってという意味ですね。では第八識の用は何かといいますと、所縁ですね、五色根と種子と処である、種・根・器が因となって、四生の在り方が決定されてきた、それが異熟として過去を引き受けた身である、或は過去を牽きづっている身であるともいえるのでしょう。
 この因のことを、
 「無始の時より来た展転相続(チンデンソウゾク)して親しく諸法を生ず。故に名けて因と為す。」と説明されます。
 「本識の中にして親しく自果を生ずる功能(クウノウ)差別(シャベツ)なり」と種子が説明されていましたが、この種子に本有(ホンヌ)と新熏(シンクン)の問題もあるわけですね。
 ここに『阿毘達磨経』が引用されて、
 「諸法をば識に於て、識を法に於ても亦爾なり。更互(タガイ)に果性と為り、亦常に因性と為ると。」
 阿頼耶識と雑染法とは互いに因縁と為る、と。これも『摂論』によるわけです。
 ここを読んでいきますと、種子とは、現行を生み出す力である。其の力が第八阿頼耶識に蓄積されている。それが縁を伴って「親しく諸法を生ず」るのですね。このことは講義の中で幾度となくお話をさせていただきました。
 大事なことは、現行は種子より生み出される、阿頼耶識の発露であるということです。自分がどのように生きているのかは、どのような種子を蓄積しているのかと密接に関係してきます。
 ここまでが「因」の義です。
 次に「依」の義について述べられます。
 「依と云うは是れ縁の義、即ち執持識にして、無始の時より来た一切法の為に等しく依止と為る。故に名けて縁と為す。」(『論』第三十六左)
 と定義されています。「来」は本来、元よりと云う意味になります。依止は依り所、これに依って保たれているという意味です。
 その理由が述べられます。
 「謂く能く諸の種子を執持するが故に、現行法の與(タメ)に所依と為るが故に、即ち彼を変為し、及び彼の依と為る。」
 ここは種子の特性ですね。因は種子識であるが、種子は縁に触れて現行する働きをもっている、このことが縁の義と云われることなのでしょう。これを現行の側面からみますと、成した行為は成す種子から出てくるわけです。種子無きところからは現行しないということなのです。
 因は阿頼耶識の中に蓄積された種子なのでしょうが、種子が種子のままであるなら、現行はしません。適切な喩ではありませんが、園芸店にいって、花の種を買ってきてもですね、蒔かなければ芽はでませんね。蒔くと云うのが縁です。直接的な増上縁です。水とか日差しは間接的な助縁になるのでしょう。
 阿頼耶識が何かに触れた時に、種子が動くわけです。私たちの生活はここを依り所として動いているのでしょうね。
 すごく厳しいですよね。一点の妥協も許さない厳しさを生きているのですね。生まれてからの一生涯、種子を執持していくのです。種子を離れての生活はないというわけです。このときの執は、共に有るという意味になります。身と共にあるもの、阿頼耶識と共にあるものです。それが種子だと。
 本識を依止として七転識が現行するのです。
 本識が因として、所縁は種子・有根身・器(種・根・器)これが七転識の為に依となると教えているのですね。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿