後半は、分別起の薩迦耶見・辺執見と五受との相応について説明されます。
初めに、第一師の説、後に護法正義が述べられます。本科段は第一師の説になります。
「分別の二の見は、四の受と倶なる容し、苦と倶成る蘊を執じて我我所なり常なりと為すと、断見の此に翻ぜるとは、憂と相応するが故にと云う。」(『論』第六・十八左)
本科段は第一師(安慧等)の主張が述べられています。第一師は、分別起の二つの見は、四つの受(楽受・喜受・憂受・捨受)と相応するのである、と。
何故ならば、極苦処において、苦と倶である五蘊に執着して、五蘊を我・我所と為し、また五蘊を常なりと執するからである。断見が常見と反対のものであるということは、断見が憂と相応するからである、と主張する。
分別起の薩迦耶見と辺執見は、苦受を除いた、楽受と喜受と憂受と捨受と相応するという立場です。第一師の主張は、極苦処(地獄)にも分別起の煩悩が存在するといいます。倶生起の薩迦耶見と辺執見の二つの見は、ただ喜受と楽受と捨受とのみ相応し、苦受とは相応しないと主張していました。従って、本科段に於いても、苦受は存在せず、苦受を除いた四つの受と相応すると説明しているのです。
「極苦処に在って、苦と倶なる蘊を執して、我・我所及び常と為す。見は憂と相応す。境は憂うべきが故に、唯不善なるが故に。」(『述記』)
極苦処の第六意識には苦受は存在せず、憂受が相応すると主張しているのですね。五蘊は仮和合なのですが、実体として有であると執着を起こしているのが、我(我執)・我所(我所執)であり、これは常見ですね。常見は道理に反していますから、道理として憂いを起こすことになり、常見には憂受が相応すると云う主張になります。
上記は、常見において憂受は相応すると述べていますが、辺執見のもう一つの論題である断見についても説明されています。
「断見の此に翻ぜるとは、憂と相応するが故にと云う。』という一段です。
この一文だけでは理解しにくいですが、
「断見は楽と倶なる蘊を執して断と為す。亦憂と倶なる故に。楽を失せんかと恐るる故に、此に翻じてと云う。」(『述記』)
断見は、すべてが無くなってしまうという考え方ですから、楽と倶である五蘊に執着し、断見によってこれが失われるという考え方に陥ってしまうわけです。ですから、楽を失うのではないかと恐れる心が憂いを引き起こしてくるのです。よって断見においても憂受と相応するのであるというわけです。
「 論。分別二見至與憂相應故 述曰。分別二見得四受倶。在極苦處執苦倶蘊。爲我・我所。及常。見者與憂相應。境可憂故。唯不善故。斷見執樂倶蘊斷。亦與憂倶故。恐失樂故。故言翻此。喜・樂等可知。非在五識等故。無苦倶義。」(『述記』第六末・四十一左。大正43・452a)
(「述して曰く。分別の二の見は四つの受と倶なることを得。極苦処に在って、苦と倶なる蘊を執し我・我所なり、及び常なりと為す。見は憂と相応す。境は憂うべきが故に、唯不善なるが故に。
断見は、楽と倶なる蘊を執して断と為す。亦憂と倶なるが故に、楽を失せんかと恐るる故に、此に翻じてと云う。喜・楽等は知るべし。五識等にあらざる故に、苦と倶なる義なし。」)
本科段はまた、無苦倶義と云われています。
次科段は、護法の正義が示されます。
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