唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (49) 五受相応門 (13)

2014-08-27 23:06:14 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 河合師から多くのメッセージをいただきました。ありがとうございます。河合師のコメントを読ませていただき、ふと感じたことがありました。僕は不思議に思っていることがあったんですね。それは、お寺の門を出ると元の木阿弥、「今日の話はよかった」と済ませてしまうことなんです。それは、聞いている、聞く立場の問題なのでしょうが、本人というか、私は、仏法を聞いている、と思っている立場なんですね。

  •  聞いている自分がいる
  • このように聞いたという自分がいる
  • 先生のお話はこういうことだったと解釈する自分がいる
  • 仏法を聞かせていただくと、どんなにか自己中心のエゴで生きているか教えられますね、と聞いている自分がいる

 どうも、ここで止まってしまう、留まってしまうように思われるんです。何故なんでしょうか。「ふと感じたこと」はですね、ここに関係する事なんですが、私たちの知り得る範囲は意識相応なんですね。ですから聞くということも、意識相応なんです。そしていろんな判断を下し、反省をし、仏法を聞いたら、いい人間になれるんや、という錯覚を起こしているんでしょうね。仏法を聞いていると云う錯覚に陥っているんです、ここが問題です。

 でも、私たちは、悪いことをしたら反省もしますし、仏法を聞いたら自己中心的な自分やなあと思います。すべて自分の思いであったと懺悔心も生まれてきますが、それが我愛という染汚心から出たものであることは知り得ないのですね。第六意識での判断能力は染汚心が下したもの、やっぱり我愛から一歩もでることができないような構造を私は持っているということなのですね。

 いうなれば、表層の段階では知り得ることは、深層の働きによって左右されている、それも染汚心という我痴(無明)、私の底に動いている私、この私は絶対に反省をすることはない。すべて自分にとって優位に導き出そうと、時を分かたず、寝ても醒めても自分を愛おしく思いつづけているんだと教えています。

 深層の、無意識の領域は「不可知」と示されているんです。知り得ることは出来ない、と。『摂論』を読みますと、染汚心も阿頼耶識の中で語られているんですが、阿頼耶識は、「無始より来」恒相続されてきたものですが、その阿頼耶識と倶に働いているのが染汚心という末那識であると云われています。

 そうしますと、知り得るはずのない深層の心の領域を、どうして知り得ることが出来るのでしょうか。

 問題としては、

 染汚心(我執)を知る、のではなく。我執を破る働きはどこから生まれてくるのか、ということ。ここに仏教学と仏法の違いがあるようです。学べば知ることは出来ます。しかし、知ってどうなるのかです。破られてこなければなりませんね。仏法に遇うことの第一義は我執を破る働きに出遇うことなのでしょう。

 『成唯識論』に阿頼耶識の自相の定義が、「謂く雑染のために(能蔵・所蔵・執蔵)互に縁と為るが故に、有情に執せられて自の内我と為らるるが故に、此は即ち初能変の識所有の自相を顕示す」と述べられてあります。そして阿頼耶識の因相ですが、「諸法の種子を執持して失せざらしむるが故に一切種と名づく。此れに離れて余の法は、能く遍く諸法の種子を執持すること得べからざるが故に」とですね、すべての現行の因は種子であると明らかにしているんです、そして種子とはですね、「本識(阿頼耶識)の中に親しく自果を生ずる功能差別なり」と教えられています。

 阿頼耶識は無覆無記であり、働きは「恒に転ずること暴流の如し」一時も休むことのない識なんですが、そこに寄り添うように、色を染めてしまう雑染(染汚心)の為に、識が濁ってしまうわけです、それが無始以来だということなんですね。いうなれば我執に覆われているということですね。しかし無記、有覆無記である。ここにですね、なにか大きなヒントがあるように思えるんです。

 それは、無漏種子という仏種、仏性の問題です。ここがはっきりしないと、我執が破られていく構造はわかりません。そして、大乗仏教徒は修行の中で見いだそうと懸命の努力をされたんですね。その結果、己が修行の成果を回向して功徳を得ようとされたんですね。無漏種子は回向と大きく関わってくる問題でもあるんでしょうね。

 「不可知」であると云われながら、「雑染の為に互に縁と為って」迷いの構造が出来上がってくると喝破したわけです。僕は、わかりませんよ、わかりませんが、阿頼耶識には「能」という能動的な働きはありませんが、阿頼耶識がもともと持っている無漏種子の(知り得る)働きを感じられていたんではないでしょうか、そのように思えるんです。それを言葉に表現されたのが、『唯識三十頌』を著され、『浄土論』も著された世親菩薩ですね。「本願力回向を以ての故に」と。本願力回向のもっている本意を親鸞聖人は、『教行信証』に「往相の回向について、真実の教行信証あり」と明言されたのではないでしょうか。

 なかなかはっきりしないんですが、破られていく心と、破っていく力の出遇う場所(邂逅)が本願ではないのかと思うんです。そこにですね、「不可知」であるはずの深層無意識の心の働きが、本願という働きを持って染汚心を破ってくるのではないでしょうか。今日はこの辺にしておきます。 河合さん、ありがとうございました


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