唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (51) 五受相応門 (15)

2014-09-02 21:47:22 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 昨日は、第一師の主張を述べました。ただ第一師の説は、了解が浅いということで、誤りというわけではありません。むしろ、現実的には、身見及び辺見は楽受・喜受・憂受・捨受と倶起するという説は受け入れやすいものですね。

 楽しみが有ったり、喜びが有ったり、憂いが有ったりすることが人間としての営みですから、それが身見と辺見と相応しながら働いているということを知ることが大切なことなのでしょう。いうなれば、煩悩によって、楽・喜・憂という感情が起ってくるわけです。煩悩によって引き起こされたものである。しかし、煩悩によって引き起こされたものはすべて苦であるということ。釈尊は一切皆苦であることを見抜かれたわけですね。

 『観経』には、「唯(ヤヤ)、願わくは世尊、我がために広く憂悩なき処を説きたまえ」と、無憂悩処を韋提希は求めたわけです、しかし仏陀は第七観において「仏、当に汝がために、苦悩を除く法を分別し解説(ゲセツ)したまうべし。」と答えておいでになります。我が身から出る問いというか、求めることは、楽を欲し、喜びを欲し、憂いを除く法を求めているわけでしょうが、その根底にある煩悩具足の身が、煩悩具足のままに救われていくことは、苦悩を除く法を聞くことの他にはないんだということをはっきりさせているわけでしょう。

 蓮如上人が大切になさいました『安心決定鈔』末巻には、

 「『往生論』に「如来浄花衆 正覚花化生」といえり。他力の大信心をえたるひとを浄華の衆とはいうなり。これはおなじく正覚のはなより生ずるなり。正覚花というは衆生の往生をかけものにして、「もし生ぜずは、正覚とらじ」とちかいたまいし法蔵菩薩の、十方衆生の願行成就せしとき、機法一体の正覚成じたまえる慈悲の御こころのあらわれたまえる心蓮華を、正覚華とはいうなり。これを「第七の観」(観経)には、「除苦悩法」ととき、下々品には「五濁の衆生を来迎する蓮華」ととくなり。仏心を蓮華とたとうることは、凡夫の煩悩の泥濁にそまざるさとりなるゆえなり。なにとして仏心の蓮華よりは生ずるぞというに、曇鸞この文を、「同一に念仏して、別の道なきがゆえに」(論註)と釈したまえり。「とおく通ずるに、四海みな兄弟なり」(同)。善悪、機ごとに、九品、くらいかわれども、ともに他力の願行をたのみ、おなじく正覚の体に帰することはかわらざるゆえに、「同一念仏して別の道なきがゆえに」といえり。またさきに往生するひとも、他力の願行に帰して往生し、のちに往生するひとも正覚の一念に帰して往生す。心蓮華のうちにいたるゆえに、「四海みな兄弟なり」というなり。「仏身をみるものは、仏心をみたてまつる。仏心というは、大慈悲これなり」(観経)。仏心はわれらを愍念したまうこと骨髄にとおりて、そみつきたまえり。たとえば、火のすみに、おこりつきたるがごとし。はなたんとするとも、はなるべからず。摂取の心光、われらをてらして、身より髄にとおる。 」

 と述べられてあります。いわば、我・我所を縁として我・我所を翻して「同一念仏無別道故」に生きる者と為らんという願心ですね。「無辺の生死海を尽くさんが為なり」という無私の道心が求められているわけなのでしょう。

 楽ということも、私たちが求めている楽は、少楽といわざるを得ませんね、大楽ではないということです。大楽は慈と言われているわけですが、慈は悲に依るといわれているんです。抜苦与楽という言葉を聞きますが、苦を抜くことが、楽を与えることにつながっているわけですね。善の心所に、不害という心所があります。不害が悲であるといわれています。「害せず」、害は相手に危害を与えることですが、害せず、というところには、相手を尊重する(無条件の愛)が働いているのでしょう。それが怒りをおこさないという無瞋という働きを生みだしてくるものと思われます。無瞋が慈しみであり、大楽を与える働きになるといわれているのですね。

 その大前提が、一切皆苦であるという自覚ですね。こいうところから、護法は第一師を批判してくるのではないかと思っています。

 尚、不害の心所につきましては、2013年の10月19日前後の投稿を参考にしてください。


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