唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (1)

2016-12-18 10:56:53 | 『成唯識論』に学ぶ
  

  今月より、阿頼耶識の存在論証にはいります。
 先ず概略を述べます。第八識の異名をあげ、其の位には有漏位と無漏位があることが明らかにされました。
 私たちの意識の上では「受」の心所が大切な役割をもっているのですが、無意識と云われる領域では、受は捨受なのです。苦でもなく楽でもない、不苦不楽受である。此れは有漏位における性質なのです。
 何を意味しているのか、迷いの境涯であっても、命を支えている働きは無覆無記であり、捨受であるということなのです。此れに由って、何時でも、どこでも、どのような境遇であっても、いろいろな条件そのものが御縁となって、本来の自己に戻ることが出来ることを教えているのであろうと思います。
 有漏位の阿頼耶識は何を対象としているのか、阿頼耶識の具体性ですが、すべては阿頼耶識の遍現した世界に身を置いているということなのです。それを二の執受(種子と有根身)と処(環境世界)の三つに摂ってくるのでしょう。
 有漏位の性質が無記であるというのは、経験そのものは色付けをされない無記である性質を持って、そこに善・悪の色付けをして一喜一憂しているのが私たちの現実相なのです。
 これではどこまでいっても有漏位からの解放はありませんね。我欲を自らの生活の起点としておりますから、我を離れて、客観的に自らを観察することはまず不可能であると思います。
 このことを解決する方法は、唯一つです。「他人の振り見て我振り直せ」とぃいますが、「他人の振り」とは、自らの意識が他人に投影し、自らの判断が自らの襟を正すということになるのですね。
 「人の批判はするけれど、我が身はどうかと尋ぬれば」、この尋ねるということが大事なことなのです。仏教は尋求(ジング)と押さえていますが、追及する、自らが作り出した世界を外界において批判をしているのですが、批判そのものが自分の心の影像であるということなのです。
 迷いという流転はどのような構造になっているのか、「我が心の影像」が、外界に存在するという見方であり、事実は「唯だ我が心が作り出した世界である」ことを知り得ないということなのです。これを「一切不離識」といっています。
 「すべての現象は識(阿頼耶識のはたらき)に離れてあるものではない、すべては識が作り出した世界である。」
 此れに由って、流転の法が明らかにされるのです。流転は、「識が織りなす現象である」ということなのですね。
 ここに無漏位との関係がみてとれます。無漏位は不可知ですが、有漏の元を尋ぬれば、無漏位という世界に支えられて成り立っていることが教えられます。無漏位が還滅の法になります。
 迷いを超えるということは、どういうことなのか。親鸞聖人は、大菩提心・大般涅槃ということに、(浄土の)信心の内実を明らかにされたのでしょう。
 有漏から無漏へは成り立たないのです。無漏に触れることに於いて超証される世界なのですね。
 このような事柄を先月は学ばせていただきました。
 今月から、阿頼耶識の全体像として、阿頼耶識の存在論証を読み解いていければと思います。
 学びは我見ではないということなのです。ものを言うには、言い得る根拠がなければなりません、私が勝手に押し付けているのではありませんよ、という論証になります。
 「云何が応に知るべし。此の第八識は眼等の識に離れて別の自体有りと云うことを。」
 (眼識等の六識以外に、第八識が有るということを)どうして知り得ることができるのか。
 ここに五教証・十理証が挙げられて存在の証明がなされます。
 「聖教と正理とを以て定量と為すが故に。」
 聖教が五教証・正理が十理証。これを以て、決定的な判断の基準(定量)とします。釈尊の教えに違することはありませんと宣言するのです。
 第一教証(選注p56) 『大乗阿毘達磨契経』、三師の説が出されます。
 第二教証(選注p58) 『大乗阿毘達磨契経』
 第三教証(選注p58) 『解深密経』
 第四教証(選注p59) 『入楞伽経』
 第五教証(選注p60) 『余部の経』、大衆部・上座部・化地部・有部。
 十理証は、選注p62~p77に記載されています。ここを以て初能変が閉じられます。
 では第一教証を読んでいきたいと思います。 ちょっと休憩します。

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