唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (52) 五受相応門 (16)

2014-09-03 22:50:01 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 護法正義

 「有義は、二の見において若し倶生の者は、亦苦受とも倶なり。純受苦処にして極苦の蘊を縁ずるときには、苦と相応するが故に。」(『論』第六・十八左)

 護法は云う。薩迦耶見と辺執見の二の見において、倶生起のものは、また苦受と倶(相応)である。何故ならば、純受苦処に在って、極苦の五蘊を縁じる時には、苦受と相応するからである、と主張する。

 第一師と護法の主張の違いは、地獄の解釈によります。第六意識は十の煩悩と相応するわけですが、第一師は地獄の有情の第六意識には苦受は存在しないという主張をしています。しかし、護法は地獄の有情の第六意識には苦受は存在するという立場に立ちます。昨日も少し述べましたが、我・我所によって作り上げた世界を地獄というのでしょう。そこには喜怒哀楽は存在するのですが、根底には苦受が相応するということをはっきりさせたのです。何故ならば、独りよがりの世界だからですね。喜怒哀楽も執着から生み出されたものであるわけです。独りよがりというのは、倶生起のものなんですね。分別起はなんとかしようとする思いが強いですから、分別起の煩悩は地獄には存在しないと見抜いたわけですね。

 「論。有義二見至苦相應故 述曰。此第二師。分別二見同前。如地獄等極苦之處。無此身・邊分別見故。倶生二見亦苦受倶。在極苦處縁苦蘊故。」(『述記』第六末・四十二右。大正43・452a)

 (「述して曰く。これは第二師なり。分別の二見は前に同じ。地獄等の如き、極苦処には、この身・辺の分別の見無きが故に。倶生の二見はまた苦受と倶なり。極苦処に在って苦蘊を縁ずるが故に。」)


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