受倶門 安慧の説の結び
「故に知る、意地の尤重(うじゅう)なる慼受(しゃくじゅ)すら尚名けて憂と為せり、況や余の軽なる者をや」(『論』)
「此れは結ぶなり。意の重き処を以って余の軽き処に例す。重く遍する尚然り、況や余の軽く逼するをや。第一師の意なり」(『述記』)
(意訳) 以上述べてきたことに依って、意識の尤も重い憂い(慼はうれえる・くよくよする意)でさえ憂受と名づけられる。ましてや他の軽いものであればなおさらのこと、憂受というべきである。
第一師の説(安慧)は、第六意識と倶である逼迫受は憂受であり、苦受はないと主張しているのです。
ここに『述記』には問答が設問されてあります。 「問う。第六識の中の捨受も既に亦不善の業に招かれる。何が故か、地獄に捨受無しというや。 答う。苦重きを以っての故なり。不善業の軽に即ち捨根有り、少しき静なるを以っての故に。然も総報(第八識の捨根)には同じからず、総報は相続するが故に、趣の体なるが故に、報の主なるが故に、若し是れ苦ならば善趣に違しめるが故に」。なぜ地獄には捨受はないのかという設問に、地獄は苦が重いから捨受はないのである。不善業のように軽いものには捨受はある、それは少しでも静をもっているからである。
護法の説(正義) - 五段階に分けられる。(1)標宗 (2)引証 (3)立理 (4)会通 (5)総結であり、その(1)がさらに二つに分けられ、初めに逼迫受の軽い所における受について、後に重い所の受について述べる。
これを『述記』には「下は護法等第二師の説なり。文の中に五有り。一に宗を標し、二に証を引き、三に理を立て、四に違を会し、五に総じて結ぶ。人と天との逼迫軽にして尤重に非ざるが故に、意に在るは唯憂受なり。鬼・畜処は通ぜり。(鬼・畜が)若しただ苦処ならば地獄と相似せり。五十七の地獄と同なりと説けり。純ら受けて重きが故に。若し雑受処ならば喜・楽も有る容し、況や復憂無からむや。雑受は軽きは故に」と説明されてあります。
「五十七の地獄と同なりと説けり」というのは『瑜伽論』巻五十七に「余の三(憂・喜楽の三根)は現行の故に成就せず、種子の故に成就す。那落迦趣に生ずるが如きは一向に於いてす、若しくは傍生餓鬼もまさに知るべし亦爾なりと」の文によります。つづいて『瑜伽論』には「若しくは苦楽雑受の処には後の(憂・喜・楽)三種も亦現行し成就す。問う、若し人趣に生ずれば幾根を成就するや。答う、一切有るべし。人中に生ずるが如く天に生ずるも亦爾なり」と。
「有義は二に通ず、人天の中には、恒に名づけて憂と為す。尤重に非ざるが故に。傍生と鬼界とのをば、憂とも名づけ苦とも名づく、雑受と純受と軽重有るが故に」(『論』)
「雑受」 - 他の感受と入りまじって受ける受をいう。
「純受」 - 他の感受がまじわらない受をいう。純受の方が、その受について重い感受となる。
(意訳) 護法正義は第六意識と倶である逼迫受については、憂受と苦受の二つに通じるといいます。人天の中には、恒に憂受となす。なぜなら尤重ではないからである。また畜生と餓鬼界とのものは、憂受とも苦受ともいうのである。それは雑受と純受の軽重の差があるからである。
人天は六道の中の二趣であり、この二趣は逼迫の度合いが軽く尤重ではないので、憂受となり、苦受はないことになります。そして六道の中の畜生と餓鬼界は受が混在する処(雑受)と、混在しない処(純受)がある為に第六意識の逼迫受は憂受と苦受となると、護法は主張します。
尚、地獄界は純受であり、尤重であり、無分別の処であるから、第六意識相応といえども苦受であるという。次に述べられてあります。逼迫の重い所における受について説明されます。
「捺落迦(地獄)の中をば、唯名づけて苦と為す、純受にして尤重なり、無分別なるが故に」(『論』)
「其の諸の地獄は一向に苦なるが故に唯苦のみにして憂は無し、迫ること尤重にして苦の為に逼らるを以ってなり。亦分別無し、憂は分別して方に生ずることを得るを以っての故に。
捺落迦というは、此には苦器と云う、罪を受くる処なり。那落迦というは彼の苦を受くる者ぞ。故に二別なり。」(『述記』) 捺落迦と那落迦は同義語でnarakaの音写、地獄と訳す。
次の項で問答があります。無分別と云われていることです。分別が無いというのは、分別の煩悩が無いのか、という問いです。それに対して、そではないのだ、分別の惑は有る。「憂は即ち分別あり」と、憂受は分別して生じるものであって、分別が無いということは、第六意識と倶である逼迫受は分別を経ない為に、地獄には唯苦受のみであるというのである。「加行に分別あるが故に逼迫すること既に極をもって分別を假らず」といわれています。これは地獄は苦が極まった処、逼迫することが極限状態の為に分別する余地さえないからであるという、ことで押さえられています。