唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 立理(理を以って説を詰める)その(1)申難

2010-07-08 23:38:54 | 受倶門
 昨日のつづきに成ります。『瑜伽論』巻五十七からの引証です。『論』の文は取意になりますが、本分は「那落迦に生ずるは幾根を成就するや。答ふ、八なり、現行種子をば皆な成就することを得。三を除ける。所余をば或いは成就し、成就せず。三無漏根は現行に約すれば成就せず、種子に約すれば或いは成就す、謂く般涅槃法なり、或いは成就せず、謂く不般涅槃法なり。余の三は現行の故に成就せず、種子の故に成就す。那落迦趣に生ずるが如きは一向に於いてす、若しは傍生餓鬼もまさにしるべし、亦爾なりと。若しくは苦楽雑受の処には、後の三種も亦現行し成就す。問ふ、若し人趣に生ずれば幾根を成就するや。答ふ、一切あるべし。人中に生ずるが如く天に生ずるも亦爾なり」(大正30・615)
 余の三とは、憂・喜・楽の三根で、所余は信等五根(信・精進・念・定・慧)をあらわします。地獄と純受の一分がある餓鬼界と畜生界には憂・喜・楽の三受は現行しない、ということになります。これが護法の理解ですが、第一師(安慧の説とされる)は地獄にも憂受は存在すると主張しているのです。この異説についての議論が述べられます。立理といい、これが四っの部分より成り立っています。「一に難を申べ、二に反詰し、三に更に徴し、四は総じて結す。」(『述記』)と、申難は護法が自らの主張を述べ、反詰は安慧が反論し、更徴は護法が安慧の説を論破するのです。
 (此れは初めなり)
 「余の三というは、定んで是れ楽と喜と憂との根ぞ、彼に必ず現行の捨を成ぜるを以っての故に」(『論』)
 「所以はいかん。彼には定んで七八の識有って、相続して断ぜず、定んで現の捨受を成ずるを以って、又苦無きには非ざるが故に」(『述記』)
 (意訳) 先の『瑜伽論』にいう余の三というのは、楽と喜と憂との根のことである。どうしてこのように言えるのかと言うと、彼(地獄・純苦処)には現行の捨は成り立つからである。根とは受のことになりますから、楽受・喜受・憂受の三は地獄では現行しないということになります。これが護法の論拠になります。安慧の主張は「余の三」は喜受・楽受・捨受ということになり、地獄には憂受が存在することになり、解釈が対立することになります。
 「八識に約して論じる」と、安慧説の問題点は地獄には捨受は存在しないとなると、地獄にも第七識・八識があって、この七・八識は捨受と相応する為、地獄にも捨受は存在することになり、安慧の説が成立しないことになるのです。また地獄の第六意識は、苦受と倶であるため、憂受は存在しないことになります。これが護法の主張です。