唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

釈尊伝 (63) 釈尊伝序説 阿含経・歎異抄

2010-07-17 23:57:44 | 釈尊伝

釈尊伝 (63)              ー 阿含経 ー 

一面、仏教というものについて、いわゆる歴史的人物としてこれを客観的に研究するという方法は、言語学的、或いは物質的に研究せられ、ひじょうに細かくそれが研究せられていったわけでございます。ところがそうした面からは、必ずしも主体的な立場がでてきません。ただ一つだけそうした気運を変えさせたことがあった。阿含という経典が注意されました。しかもこれには漢訳もあるが、むしろパーリー語から訳された阿含経を紹介されたことがあります。

 阿含経は清沢満之先生も推奨された。歎異抄、阿含経、エピクテタスの三つが清沢満之の三部経といわれ推奨されていました。しかし、当時世に紹介されたのは、その方面から推奨されたのではありません。私の記憶では、昭和七、八年頃からラジオが全国的に普及して、やがてその放送の中に仏教の放送としてNHKがとりあげたのが、当時慶応大学の教授であられた友松円諦氏 ー この人はパーリー語の経典を研究していられた ー この方が阿含経の放送をされました。それが評判になりました。毎朝三十分位のお話であったが一躍友松氏の名が全国に知れわたったものです。私は放送は聞きませんが、書物になったのを読んだことがあります。それによって友松氏は、“真理運動”というものをおこして、一時は五十万人位の会員ができたということです。しかしある事件のためにその運動が挫折したようです。

          - 身近な経典 -

 その阿含経の放送によって、皆がどういうふうに受け入れたかというと、仏教というものは大変遠い世界のことであって、われわれ一般の凡人は及ばんと思っていたが、その放送を聞くと、とても身近かなものであるとうけとったようです。そういう意味ではたいへん仏教についてのあたらしい感覚をあたえたということがあったのです。やがてその運動が挫折しました。それは当然といえば当然なのです。それは、経典の内容はいかにも身近かなことをとらえての釈尊の教化ということになっていますが、立場がどこまでも原典研究という客体的な対象を向こうにおいての研究であり、阿含経が紹介されたのでありますから、一時的な人気に終わったのです。次にでてきたのが高神覚昇氏の般若心経講和でありました。これは阿含経ほどの人気はなかったようです。それに梅原真隆氏の歎異抄、大谷派からは、大須賀秀道氏の教行信証などがありました。友松円諦氏の阿含経の人気で、仏教というものは受けるものだと錯覚されて、次々と放送されたのですが、だんだん沈滞してついになくなってしまいました。いずれも主体的な立場なくして仏教が紹介されたので、一時的なものとして消えていったのであります。

             - 歎異抄 -

 しかし歎異抄のみは、そのことにかかわらず、とくべつ大きな宣伝をするわけでもなしに、多くの人々に次々と読まれていきました。それがいまだにつづいているといってよいでしょう。

 歎異抄には、なにが書いてあるのかというと、言葉からいうとわれわれが考えてわからぬ言葉しかでていません。誓願・念仏・往生・・・・・。また釈尊という言葉があっても、どういう人物かなにも書いてありません。第二章に「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教・虚言なるべからず」とありますが、釈尊についてなにも書いてないです。男であるということぐらいはうすうすわかっているでしょうが、ほかのことはなにもわかっていないのです。それだのに読まれている。歎異抄がいわるいではなく、仏教を主体的にみるということでは、歎異抄ほど大きな影響をあたえたものはなかったといってよいのです。  (つづく) 蓬茨祖運述より