釈尊伝 (50) (1)煩悩の実相 -悩みをはなれないでー
内観というのは、今までは道を、悩みというものの外に、悩みというものからでてさがしていたということです。今は悩みというものをはなれないでみなければならない。だからじっくりと見のがさないようにして自分の悩みそのものをよく明らかにみつめなければならないという意味で内観という文字をもちいるのであります。ところがそれを妨げてくるものがあります。それは普通なら想い出せないのです。ところが自分のそういうことを見ようとすると、見せまいというように動いてくるということです。それが世俗の欲望であります。それは釈尊がかって王宮にいたときに眼を楽しますために美女を集めてうたをうたわせたり、舞いをまわせたりした昔のそういうことが想い出されてくる。これは決して嫌なものではないです。やはり人間としての欲望であります。それから戦士のすがた、これもいさましいすがたであります。戦争は誰しも憎むべきものだと思いますけれども、しかし着かざってみるといさましい。いさましいすがたをみると戦争をわすれてしまいます。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 受倶門 第三定(楽受について)
「若し第三静慮の近分と根本とに在るをば楽とのみ名づく。安静(あんじょう)にも尤重(うじゅう)にも無分別にもあるが故に」(『論』)
「第三禅の中には近分にも根本にも二ながら倶に楽あり。・・・安静に適悦するを以っての故に無分別に適悦するが故に楽と名づく。尤重なるが故に楽と名づく。即ち是は意に在るを楽と名づくる所以なり。・・・喜は動勇するを説いて第三定は悦すること安静なるが故に是れ楽なり」(『述記』)
(意訳)もし(第六意識と相応する)諸々の適悦受で第三静慮(色界第三禅)の近分定と根本定に存在するものを楽受とのみ名づける。なぜならば、安静でも尤重でも、無分別でもあるからである。第三静慮は心を悦すること安静であるが故に楽と名づけるのであり、意識の楽受であると説明されています。
第六意識と相応する適悦受が欲界と色界初禅の近分定と第二静慮の近分定に存在するものを喜受と名づけられる、そして初禅と第二静慮の根本に存在する時は、喜受とも楽受とも名づけられるのである、と前回述べました。そして色界第三禅(第三静慮)の近分定と根本定に存在する時には楽受とのみ名づけられ、第四禅(第四静慮)の近分定と根本定には捨受のみが存在すると説明されます。