唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 受倶門 別徴(安慧の釈明を論破) ・ 釈尊伝(58)

2010-07-12 06:45:34 | 受倶門

  今週は日本列島夏祭り週刊ですね。京都祇園祭にはじまり、ここ横堤でも週末は山車が町中を巡業すます。また大阪は天神祭もあり(今年は24日・25日)、大川でのは船渡御は勇壮で花火も楽しみの一つです。

 釈尊伝 (58)   -ないものに悩む

 自分が生まれたということによって、この世界があるのだとは思えないです。自分が死んでしまっても、この世界はあるのだとしか考えられないです。そうじゃなくして相対の関係であるということが、もしわれわれのいわゆるさとり、さとりは自分のものとして身につくということ、その考えが身についたときには苦悩の解脱があるというのです。

 老病死からの解脱がある。老病死しながら老病死からの解脱がある。解脱は救いです。救いがあるということです。その内容は実に無限であります。一番わかりやすくいえば、縁起の関係は相対関係でありますから、たえず相対というところに心をみてゆけば多少のことならば、そう混乱しないで解決してゆけるでしょう。人生のごたごたした問題がおこって、しばらくわれわれは悩むだろうけれども、それを解決するには自分がいま悩んでいることは相対の関係であるのに、そう思えないところからおこっている。相対であるということがわかるにしたがって悩みというものが、もともとないものに悩んでいたわけですから、消えてゆくというふうに、われわれの生活に生きてはたらける要素があるわけです。それであえてむずかしいことを申したのであります。

             - 悩みのままに -

 普通われわれは因果関係でものごとを考えております。この場合は因と果とは別のものです。しかし縁起の関係ですと同体であります。体は別でないかと、そうではない。体は別だけれども法において一つだということです。法は不動なもの、不変なもの、普遍なものという世界にいたって、われわれは落ちつくことができます。そして悩みを悩みのままに受けとって悩まずに生きていくことができます。そして悩まずにゆけるということは、悩みがかわってゆく、むしろ悩みは自分の執着をたち切ろうとして、逆に執着を満たそうとして悩むのです。だから相互の思いが逆になってゆく。そういうことは、人間としての無明のなせる業なのだということがわかって、そこに悩みをこえた心がはたらく、こういう意味が無限にあります。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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 第三能変 受倶門 別徴(安慧の釈明を論破する)

 「又、若し彼の論は客の受に依って説くといはば、如何ぞ彼には定めて八根と成ずと説ける」(『論』)

 (意訳) (安慧の釈明を予想して護法が論破する) もし安慧が釈明して『瑜伽論』が、客の受によって説かれているというならば、どのようにして彼(地獄)には、必ず八根(眼等の五根と意根と命根と捨根)が成立すると説かれるのか。

 安慧の論法では「余の三」に捨根が入るというのですが、それならば、地獄には捨根はないことになり、『瑜伽論』に説かれる地獄に八根が存在するとは、どのようにしていわれるのであろうか。彼には「地獄に生ずるは、八なり。楽・喜・憂の三根は除く」(取意)といわれているではないか。この間の事情を『述記』では「如何ぞ、地獄に定んで八根を成ずと説く。第八とは何ぞ」という問いを設定しています。護法は次に第八番目の安慧の答えを想定して論破していきます。その想定は(1)憂根 (2)苦根 (3)一形 になります。

 「若し謂く、五識は相続せざるが故に、定んで憂根を説いて第八と為すといわば、死と生と悶絶とに寧んぞ憂根有らん」(『論』)

 (意訳) 安慧が五識は、相続しないので、必ず第六意識と相応する憂根を第八の根とするというならば、死と生と悶絶とに、どうして憂根があるというのか、ないではないか。意識は常に現起するといわれるけれども、死ぬ時と、生まれる時と、悶絶では間断するのである。間断している時には意識は働いていないので、意識と相応する憂根は地獄の純苦に於いては存在しないのである。

 『述記』には安慧の釈明がしるされています。「彼れ若し救して五識は間断するを以って苦定んで成ずること無きを以って、但憂根を説いて其の第八と為すと言はば、」と。前五識は間断する。したがって五識と相応する苦受は常に成立しているわけではないので、意識と相応する憂根を第八番目の根とするのであれば、という釈明と問いですね。「今之を難じて云く。若し生と死と悶絶と三の時に如何ぞ憂根ある。此の時には意識も亦定んで無きが故に、故に知る定んで成ぜりというは、第七・八の意根と及び第七・八の捨受となり。・・・」(『述記』)