釈尊伝 (62) ー 外国語によって -
しかし仏教界には依然としてそういうことはありませんでした。ただ、外国に劣ってはならぬ、キリスト教に負けてならぬということで欧米留学をするというようなことから、漢訳のみでみていた仏教を、欧米語でみるようになった。英語やフランス語で仏教の原典をみる。仏教の原典は梵語やパーリー語であるから、梵語の研究をする。パーリー語の研究をする。仏教の着眼点を漢訳中心でみていたのを時代遅れのものとして、外国語によって翻訳されたものをみることになってきたわけであります。
そして国内における仏教それ自体は依然として、そういうものとは関係なく、従来どおりのものを守ってゆくだけでありました。その中で一つの波紋をおこしたものは歎異抄であります。歎異抄が明治・大正・昭和から現代へ、大きな課題をあたえてきた。それが、仏教を主体的にみるという立場といえると思います。
- 浩々洞 -
それまでは教理をはじめから存在するものとして客観的にみていました。それに対して疑問が立てられない。疑問があれば客観的に研究して、解く以外ありません。ところが歎異抄が世に招介されます。清沢満之を中心とする浩々洞という集まりが ー いわゆる精神主義をモットーとしてあたらしい運動がおこります。従来の動かないものを研究するというのでなく、むしろわれわれの生存に対して仏教がどういう関係があるのかという疑問をたてて、そしてあらためて疑問を投げかけて新しい運動をはじめたということがありまして、そこに歎異抄がとりあげられて、世に招介されました。それによって歎異抄が一般に知られてきます。それまでは、仏教というものは、単に寺・僧侶・坊さんという意味だけがかんがえられておりましたが、歎異抄によって仏教を主体的にみる糸口となったろいうことで、それから、いかなる立場の人も歎異抄というものは宗派の別なく、身近な文章、少さな冊子ですが、インテリ層のなかに浸透していきました。 (つづく) 『釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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雑感 その3 「執着というのは自他を分断するのですね。いうなれば、恒に他を利用し自の利益のために働いていると思います。人間存在は本来他によって自己が成り立っているのですが、その他を切り離して自己存在を、自己は自己によって存在しているという顛倒の見が、道理に反するという捻じれを起してくるのです。そして自己の中でも生に執着し、死を覆い隠すのです。「生のみが我らにあらず、死もまた我らなり」なのですが、生の謳歌を求め、生死の問題をやはり分断して命の本来性を喪失して生きているわけです。そのメッセージが地獄には苦のみがあり、苦を厭う縁すらない状態に追い込まれてしまっているのが私の現状なのです。その証拠に「慚愧心」がありません。「有慚愧」をもって「人と為す」といわれますが、慚愧心があるのが人間なのでしょう。その慚愧心がないというところに人間性を喪失していると言わざるを得ないのです。教は鏡に譬えられますが、鏡は姿を写しだすものですね。鏡は鏡を写すものではありません。鏡は姿を写しだすことを以って性としています。教法に遇うということは、教を客観的に・対象的に考えるものではありません。それが本質ではないからです。教は私の心を写しですものです。私の心のすべてを暴きだすことを以って本質としているのですね。ですから教法に遇うことに於いて自己が明らかにならないと云う事は、「聴き方が間違っている」といわざるをえないのです。本願の第一番目は無三悪趣の願ですね。本願の大地には悪趣が無い世界を建立しようということですね、。法蔵菩薩の本願の大地に地獄・餓鬼・畜生の住むことが無い世界を建立したい、ということは、私の立っている大地はどのような大地に立っているのでしょうか。これが鏡になるわけでしょう。鏡をつかみにいっても、それは永遠の彼方です。百千満劫を費やしても私は私の背中を見る事はないわけです。しかし合わせ鏡で見る事はできますね。教法に遇うということは私が明らかになること、そのことによって法蔵菩薩が「うん」と頷かれるのではないでしょうか。本願が生きるわけです。本願と私が合わせ鏡になって「大楽」といわれる、「無空過の世界」に身を置くことが出来るのではないでしょうか。こんなことを思いながら『成唯識論』に学んでいます。地獄を語られる別徴から感じるままに綴ってみました。感想をお寄せいただけると有り難いです。
- 結び -
「斯に由って第八は定んで是れ捨根なり、第七・八識は、捨とのみ相応するが故に」 (『論』)
(意訳) これにより、第八番目の根は、安慧の説のように(1)憂根とする。(2)苦根とする。(3)一形とする。ということではなく、必ず捨根であることがわかるのである。第七末那識と第八阿頼耶識は捨とのみ相応するからである。地獄にも第七識・第八識は必ず存在するので、これに相応する捨受も存在するはずである。